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2019年2月6日水曜日

チャンネル桜での「日本の自死」についての議論とダグラス・マレーの著書「西欧の自死」

1)文化系学部を出た人は、言葉の定義に無関心或いは怠慢な人が多い。特に、日本でその傾向が強いと思うのは私だけだろうか。それが、最近のチャネル桜での「日本の自死」についての議論を視聴しての感想である。この3時間に亘る議論は、一般に良心的でありレベルも高いと思うのだが、そのかなりのレベルの人たちの議論においても、言葉の定義を疎かにしていると言わざるを得ない。 https://www.youtube.com/watch?v=QLm78cpJaNg&t=1969s

理系の議論の場合、例えば重さ、質量、力、エネルギーなどの言葉(概念)の定義は、議論の前に準備されている。質量とは真空中に浮遊した物体の動かしがたさを表す量である。また力とは、真空中に浮遊する物体に作用した場合、与える加速度に比例したベクトル量である。(補足1)このような定義が終わったとすれば、具体的問題はコンピュータが人よりも早く問題を解いてくれるだろう。これらは、たかだか高校教育レベルの知識である。

一方、文化系学部を出た人では、日本を代表するレベルの人でも、議論の前に言葉の定義を疎かにする。「日本の自死」の議論では、「日本」と「死」の定義が必要になる。この言葉の問題は、恐らく日本の特別な弱点だと思う。日本人は、言葉を論理的ではなく感覚的に用いる。

2)チャネル桜の2月2日の「討論」表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」

上記議論の題目は、始めに司会者から説明があったように、中野剛志氏が監訳したダグラス・マレー著「Thestrange death of Europe」の訳本「西欧の自死」から借用して立てられた。しかし、上述のようにその論題「日本の自死」についての統一的理解がなされず、各人が最初に自分のおおよその考えを述べる段階で齟齬をきたすことになった。その原因は、「日本」「死」「自死」などについての定義が予めなされていなかったことである。

最初に発言した小浜逸郎氏は、与えられた論題“日本の自死”という言葉を、大量の移民流入による異なる文化を持った民族がスポラディックに日本中に生じ、やがて日本民族がマイノリティーになる危険性と考え、それを論題と考えた。具体的問題点として特に、在日外国人として暮らしている人達による日本の土地の大量取得から、移民による恐ろしい日本分断の可能性について注目した。小浜氏は、ダグラス・マレーが指摘するヨーロッパの情況を意識して話を始めた唯一の出席者である。

しかし次の佐藤健志氏は、上記ダグラス・マレーの本の訳本の題名である「日本の自死」について、30数年前に経済の停滞を打開すべきという「グループ1984年」著の「日本の自殺」(PHP文庫)の話から始めた。佐藤氏は、論題“日本の自死”を、より一般的な日本民族の停滞と捉え、グローバリズムと同時に進められる新自由主義の、特に日本人のマジョリティーの福祉(幸福度)に与える危険性について、話を始めたのである。

次の藤井聡氏は、保守主義は現象学的思考を取り入れて机上の空論に陥ることを防ぐとして、平成時代に何が起こったかの羅列から話を始めた。平成9年の消費税導入が経済に最大の悪影響をもたらしたとして、財政拡大によるデフレ脱却が「日本の死」を防ぐと話した。藤井氏も、ダグラス・マレーの本の内容から立てられた今回の論題を無視して、“日本の自死”という論題を、単に「日本の経済的低迷」として話を続けた。(補足2)

更に次の室伏謙一氏は、「日本の死」を日本の伝統、慣習、社会などの破壊と考え、その考察には明治維新以降の歴史のレビューが必要だと話を始めた。室伏氏の論点も、ダグラス・マレーの本の中の「西洋の死」から取った「日本の死」とは遠い。そして、日本人は何故か愚直に時の支配勢力の姿勢をそのまま受け入れてきたのは何故かという、新たなしかし重要な問題点に言及した。

その後、議論はまとまりを欠いたものとなり、3時間延々と続いた。部分的には面白い議論であっても、雑談風の話からまともな結論など出るはずはない。それは、何度も繰り返すが、論題“日本の自死”の「日本」及び「死」の両方とも、まともに定義されずに、議論を開始した結果だと思う。

3)ダグラス・マレーの「西欧の自死」に戻る。この題名中のstrange deathを「自死」と翻訳した段階で、出版社は読者をバカにしている。以下に引用の長文の書評を読んだ感じでは(補足3)、反グローバリズム特に「反移民受入」の本である。その本の本来のタイトルを借用しての議論であれば、もう少し焦点を絞って、意味のある議論が出来たはずであると思う。 https://blog.goo.ne.jp/komamasa24goo/e/70cf9e7c1daf3cfc31030011d182edbc

その本の内容について上記書評から更に要約すると以下のようになる。

移民や難民(以下移民とする)を短期にしかも大勢受け入れた欧州では、欧州の文化やアイデンティティに同化せず、自国の言葉で話し、独自の習俗で暮らす人々による並行社会が存在するようになった。それは、多分に「多文化社会を築き、隣り合わせに暮らし、互いの文化を享受する」という理想論を掲げて、単に安い労働力を得るためにエリート層が進めた無知による、或いは、欺瞞的な政策の結果であった。

従って、大量に且つ短時間に移民を受け入れることが不可避の場合は、移民の対し移民先での同化を条件とすべきである。その個別の見極めは国外で行うべきであった。これらが、もはや手遅れになったドイツなどヨーロッパの教訓である。出生率の低い先進国のヨーロッパ諸国は、出生率の高い移民たちに乗っ取られる結果となるだろう。

上に引用した表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」は、このようなヨーロッパの二の舞にならないように、日本はどのような政策を取るべきかについて、もっとまとまりのある議論をする筈だったと思う。イスラム教徒のようにほとんど同化しない移民を大量に受け入れ続けてれば、欧州の現在の様に並行社会が日本国内につくられ、人口増加率の大きい彼らに日本を乗っ取られるようになるだろう。そんな具体的な問題に一歩も進むことが無かった。重要な問題を提起しながら、上記番組ではまともに議論出来なかったと私は評価する。

兎に角、日本人は議論の仕方を知らないとつくづく思った。議論は、論点を明確にすること、そのために言葉の定義を確認すること、そして、ブロックを積み上げるように行わなくてはならない。そこには日本語の壁があるのだが、それについては何度もブログに書いた。上述のように日本人は、日本語を論理的にではなく、感覚的に用いる。俳句などはその典型であり、それがあるテレビ番組で大人気なのは日本人の言語感覚を象徴している。また、意味も理解しないで般若心経を唱えて、一種の恍惚感にひたる姿を、私は幼少時に目撃している。更に、現在の子供達の名前が、音だけでつけられている。例をあげれば山ほどある。

補足:

1)質量には慣性質量と重力質量の二種類があるが、一致するように定義されているので、その点はここでは考えない。この話の延長でエネルギーを定義すれば、エネルギーとは物体に加えられた力とそれを移動させた距離の積である。この場合のエネルギーは、同じ座標系で見れば、動かされた物体に運動エネルギーという形で保存される。ここでは、物体を点(質点)と見做しており、実際の物体の場合には、他に回転運動についてのエネルギーなども考える必要がある。
物理学など自然科学は、自然現象に関する哲学(自然哲学)である。社会の議論でも自然の議論でも、一般に議論は言葉の定義をしてからでなくてはならない。言葉の定義で、哲学の半分以上は終わる。

2)日本がこの平成10年頃から“自死”(低迷の意味で用いている)が進みつつある情況を原因として、小選挙区制度が平成8年導入され、グローバリズムや新自由主義に繋がる悪しきポピュリズム(つまり政治の貧困)が始まったと指摘する。そして、緊縮財政によるデフレが日本の自死の背景にあると主張し、土木業界への金の流れを主張した。この人の主張は、滅茶苦茶と言って良い。

3)言葉もしっかりしたよくできたブログであり、従って十分信用できると判断した。

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