日本の弱点の一つは、会社や国家などの機能体組織を作り上げ、日本文化の中でそれを能率的に維持運営できないことだろう。そして、その結果なのだろうか、組織の運営には構成員の間に情の関係を築き上げ、共同体的にすることが大事だと考えられているようである。
つまり、日本では機能体組織と共同体組織の峻別がなされないのである。それを表す現象の一つが、人生の最重要な式典のように行われる入学式や入社式である。これらは基本的には米国など欧米には無い様である。https://www.careermart.co.jp/blog/blog/archives/5834
恭しく入学式に臨むのは、日本においては入学がその学歴の全てを決めるからだろう。それ故、前期2年間は晴れて遊ぶことが出来るのである。何故なら、卒業は約束されたことだからである。同様に、会社への入社を労使が伴に祝うのだから、職歴は完成し、その後の終身雇用は当たり前である。(補足1)
日本においては大学のレベルが低いとか、雇用の流動性が低いことを議論するのなら、それらの儀式を廃止してからにしたらどうか。契約社員という身分を法制化し、会社の終身雇用の文化を維持するのなら、同一労働同一賃金なんて主張するのは愚かである。
会社を情で雁字搦めにしてしまっては、様々に変化する環境に順応して運営ができる筈がない。経営が傾きつつあるとしても、不要部門の整理ができないのは当然である。経営危機になった日産自動車をカルロス・ゴーンが立て直した方法は、日本人経営者にできなかった不採算部門の非情な整理だったと語られる。この件、2019年のブログに書いた。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12556307937.html
不採算部門を切ることが非情なのは、切られた従業員が失業するからであり、その従業員が同程度の待遇で再就職することが、日本では非常に難しいからである。それは、日本社会では雇用の流動性が十分でなく、従って同一賃金同一労働の原則も無いからである。(補足2)
つまり、日本の労働者は労働の対価として給与をもらっているのではなく、その会社の忠臣として食い扶持をもらっているのである。この封建社会のままで、新しいグローバルな資本主義社会に適応できる筈がない。これは日本全体の問題である。こんな当たり前のことが分かっていないのだ。
お前が分かっているのなら、専門家なら誰もが分かっている筈だと思う人がほとんどだろう。検索した結果、日本経済研究センターの方の記事が見つかった。内容をちょっと眺めただけだが、雇用の流動性の重要性にまでは触れているが、日本文化の上記特性について全く触れていない。https://www.jcer.or.jp/j-column/column-saito/20160523.html
雇用の流動性の重要性は、人材派遣の会社「パソナ」の竹中平蔵氏もテレビ番組で時々言っておられるのだが、既に売国奴とラベルされているので非常に遠慮気味である。
グローバリストの竹中氏は確かに売国奴的に見える部分もあるが、まともな議論は傾聴すべきだし、それ以外については正面から竹中氏と議論すべきである。普通の日本人は議論が非常に苦手なため、売国奴とラベルをして集団の力で葬り去ろうとしている風に見える。https://kinyu1.com/post-3178/
次に、この問題を日本の言語文化から考えてみる。
2)日本の言語文化
日本では、人々は議論を嫌う。議論をする目的を共有できないからである。既に上に書いたように、日本の会社と雇用者の関係は、封建領主と臣下の関係に似る。領主との関係が最も重要な生存の条件なら、人々が集まって議論をすることを嫌う。
議論は謀反を企むのなら兎も角、現在の主人に仕え続けるのなら、殆ど必要がない。例えば単なる健康集会のような集まりでも、独裁の隣国では謀反(反乱)の企みとして、取り締まりの対象とされた。法輪功に対する人権侵害は周知の通りである。
人が集まって議論するのは、市民社会が出来上がった以降のことである。人々が市民革命を経験していない日本では、そのような文化が定着していない。会社が機能体集団なら、社員の仕事上の対話は、双方向に自由であるべきだが、日本社会はそのような言語文化を持たない。それは日本語の構造からも明らかである。
例えば、相手に呼びかける時の代名詞は、現在の日本語では(XXさん、XX君、あなた、あなた様、おまえ、貴殿、先生、部長など相手の地位)など、様々である。更に、述語も複雑な敬語表現があり、普通には習熟困難な程である。その組織で最も大事なのは、儒教的な上下関係であることの反映である。
日本語に比較して英語などでは敬語表現は殆どないし、二人称代名詞もyouだけである。(ドイツ語には二つあるが、会話の双方向の流れに影響する程ではないだろう。)機能体組織は、西欧の長い歴史の中での産物であり、従って西欧言語もその社会と整合性を持つのだろう。
また、機能体としての本来の構造は、各部門を夫々相応しい専門家が担当し、各部門間の情報交換は予め決められた手順に従ってなされるべきである。その意味では、情報伝達の相手を意味する代名詞は、あなた(英語のyou)が最もふさわしい。それ以外の情報を含む代名詞を意識して避けるべきだろう。
以上のようなスムーズに会話ができるようなツールとして、言語は進化しなければならない。その為には、相手の立場(人事上の上下や上流下流の関係)の確認と本文内容は、文章の中で独立を保つべきだろう。機能体組織を作ると同時に対話のプロトコルは作り上げなければならないと思う。(補足3)
つまり、近代社会においては、その機能体組織は多層構造と多系列構造を持つ。日本文化がそれを妨害するなら、日本にはこの国際社会において発展することは不可能である。もし、言語環境で何とかなるのなら、言語を例えば英語に交換すべきである。
実際、過去にそのような主張がなされた。初代文部大臣森有礼が、また、終戦直後に尾崎行雄が英語を国語にすべきだと主張したことがある。また志賀直哉は、国語をフランス語に代替せよと主張したことがある。その詳細は未だ調べていないが、関心のある方はウィキペディアの引用文献を検討されたい。
また、国際的と自認する日本企業の中には、公用語として英語を用いる会社がいくつか存在する。それは恐らく、外国とのコミュニケーションだけが目的ではないだろう。
補足:
1)欧米で入学式や入社式が行われていないとすれば、その理由として以下のような考えが存在すると思う。それらの儀式を行うとした場合、個人的に感慨を味わう意味があっても、組織としては意味が小さい。その後の数年間の実績の方が遥かに大事だからである。その確認が全くない状況下で、仰々しく式典を開く理由はない。勿論、それら学校や会社が共同体組織ではないと考えた場合の話である。
2)非情に首切りをやれと言っているのではない。不採算部門が容易に整理できる文化を社会が持つべきだと言っているのである。つまり、入社が封建領主へ仕えることではなく、自分の技量を提供して、その代金として給与をもらうという文化を作れば、労働の流動性も同一労働同一賃金も自動的に達成される。会社に入社式の廃止、学校には入学式の廃止を指導するべきである。「先ず隗より始めよ」 である。
3)事務的な通信には、「時下益々ご清栄の段、謹んでお慶び申し上げます」などの意味不明の前書きが添えられる。それは手続きとしては良いと思う。ただ、その後ろの本文には、意味不明の言葉は徹底的に避ける手順(プロトコル)を作り上げるべきと考える。
以上、素人の文章です。ご批判等歓迎します。
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