1)法に縛られる日本人
法は、支配者が被支配者の統治の為に用いる道具であり、人々の自由に一定の歯止めをかける為に存在する。この法と個人との関係において、日本はかなり特殊である。現在の日本人は、被支配者としての身分を受け入れ、支配者が設けた法に非常に従順に見える。
支配者が被支配者である国民によって造られた場合、法は国民が円滑に社会生活を送れる様に通常合理的につくられている。その場合、法への従順な姿勢は外国の人たちからも「日本人は秩序を重んじる人たちである」と評価されることになり、めでたしめでたしである。
その法に従順な日本の伝統は、多分1500年或いはそれ以上遡るだろう。日本人の気持ちの中に、お上(統治者或いはその代理人)は人々のために支配者の役割を担って呉れているという信仰のようなものがある。(補足1)その為、日本人は支配者に対して、更にその支配の末端に位置する警察や司法に対して、一般に親和的であり、嫌な感情を持っていない様に思う。
しかしながら、社会の変化が激しい昨今では、必ずしも良い傾向とは言えない。何故なら、社会の変革は既得権益層に属する支配者側への反抗、場合によっては反乱を経て成立するからである。従って平時においても、支配者やその制定した法システムと一般国民との間には一定の緊張関係があって然るべきである。
この法に従順な日本の伝統を、ある出来事が切っ掛けとなり思い出すことになった。それは、クマに襲われ殺された男性の遺体収容にあたった二名の警察官が、クマに襲われてその男性の遺体を見捨て退散したという秋田県警の話である。彼らは拳銃を持ちながら、その使用をためらったのだろう。(補足2) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240519/k10014453951000.html
秋田の警察官は、ケガをさせられても、法に縛られ銃を発射しなかった。秋田の田舎町で、人間が熊との闘いに負けたのである。この場合、警察官は法の執行人というよりも、法に縛られる一般国民側に位置する。
北海道でも熊が増加して、例えば牧場の子牛が襲われるなど、困っているようだ。猟友会はあるものの、農作物を荒らす鹿は射殺できても、害獣指定されていないので熊に銃を使えないのである。住民も熊を恐れ、毎日怯えながら暮らしているという。https://www.youtube.com/watch?v=daGTgdAPVxo
そこで、その動画に以下のようなコメントをアップした:
人間を食物としか見ない危険な熊が現れたら、猟銃で撃てばよいのです。動物愛護団体が告発すれば、受けて立てばよいのです。法は人のためにあり、熊のためにあるのではない。国家と法以前に自分が居る。それらが自分と敵対するのなら、戦うべきです。しかも、町の民意は明らかだと思う。団結して戦うのが自然であり、法に従うあまりクマに人が殺されたり、生業を破壊されたりする姿は異常です。
2)日本人のこの情けない姿について:
第二次大戦敗戦の直前に、米国は二発の原爆を投下し、数十万人の市民を虐殺した。その事実を知りながら、日本人はその米国の最高司令官であるマッカーサーを支配者として受け入れた。そんな日本人を当時の米国大統領トルーマンは、米国の家畜と言った。
その一方、日本人たち多くは日本民族を、全てを失い民族の原点に戻ったと云う風に見ただろう。その一人が坂口安吾であり、彼は「堕落論」を書いた。 その状態を、「日本は戦争に負け武士道は滅びたが、堕落という真実の母体によって始めて人間が誕生したのだ」と書いた。
それに続く「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有り得るだろうか」などの彼の言葉は、そんな日本人同胞に対する励ましなのだろう。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12725504080.html
あの時から既に75年過ぎた。現在の日本人を見て、坂口安吾ならどう言うだろうか? 堕落つまり生き残って原点に立った日本民族は、75年を経ても尚再生を果たしていないのである。日本民族を何と評価するだろうか? 堕落と言ったが、当時はどん底までは落ちてなかったのかもと言うかもしれない。
明治維新はそれなりに美しかった。仮に、天皇が異国の操り人形と化した長州によって造り上げられた存在であったとしても、それをトップに頂き、欧米列強と戦う姿はある意味(造花のように)美しかった。しかし、そのシステムには無理があった。天皇は神では無かった。
今、日本人は民族の再生を希望においてもう一度どん底まで”堕落”すべきである。法も規則も馬鹿馬鹿しいと言って、反抗しそれらを破壊すべきである。1970年ころ、長い角棒を振り回し大学を封鎖した同年配の全国の大学生たちを、彼らは民族の原点を生きていたのかと今思い出している。
おわりに:
国際政治評論で頭角を現わした川添恵子さんにより紹介されたトルーマンの言葉が思い出される。日本の復興と発展は、家畜を育て太らせるようなものだと言うのである。そのyoutube動画は、その後削除されている。これが彼らのやり方なのだ。https://www.youtube.com/watch?v=vlwHfzTmfcc
あの誇り高い日本民族が米国の家畜になったのなら、日本民族の”堕落”は原点では止まらなく、どん底を破って家畜にまで落ちてしまったということになる。
ユダヤ系大資本を中心とした米国の支配層は、ロシア潰しのにおけるウクライナの役割を日本に期待しているのである。相手はロシアではなく中国である。その時に備えて、岸田政権は憲法改正をするように言い渡されているのだろう。そうなるかもしれない。
補足:
1)水戸黄門の話などはその典型だろう。お上が善人である平民一般の味方をして、悪人を裁くのである。また、「仁徳天皇が高台に登ってみると、人家の「かまど」から炊煙が立ち上っていなかった。そこで租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事も着るものも倹約された」などという話も、日本の政治文化の特徴を表している。https://www.rinen-mg.co.jp/trinity/management/entry-4403.html
2)日本は銃規制において厳しい。警察官も何かで発砲した場合、その発砲が適切だったかどうかを問われる。多少とも不適切だということになれば、警察上層が責任を問われることになるので、現場の警察官に銃使用に関して過剰に慎重さを求めるのだろう。
(13:30小編集とともに補足2を追加)
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