注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2024年8月11日日曜日

日本人はトルーマンが言う様にサルなのか:日本は異質な言語文化に気付くべき

グローバル化が進み相対的に地球が狭くなったこともあり、あちこちで民族間或いは国家間の不協和音が響くようになった。それらは広い意味での生存競争であり、日本国もこれまでの受動的な姿勢から転換して能動的・戦略的に動く能力を持たなければ、21世紀を生き残ることは困難だろう。

 

その為には、日本の近代史再評価:つまり明治からの英国と米国を支配下に置く国際金融資本に翻弄された歴史の再評価と、日本および世界の現状を独自に観測・分析することが必要である。それらを基に各国との独自外交を戦略的に立案すべきである。

 

その道は遠い。江戸時代には持っていた諸外国に対する独自分析の能力を明治以降に失ったからである。それ以前に持っていた武士たちエリートの現実主義から、文明開化という掛け声とは裏腹に日本独特の大衆文化に退化したのではないだろうか。先ずは、世界各国も理解可能なレベルに価値観やモノの見方を回復することが必要だろう。

 

世界との交流が盛んになって以来、日本は異質な文化の国と言われてきた。それは、陰では日本人は何を考えているのかわからない人たちという意味であり、明治以降の外国文化の輸入とそれらの不消化が招いた知的混乱の結果ではないだろうか。知的でない国家の一つの特徴は、外には融和的で内には隠ぺい的であることである。その悍ましい情況から日本は這い出る必要がある。

 

その日本の異質な文化を指摘する文章は多い。その中の一つを表題だけだが以下に紹介する。一部同意する部分もあるが、同意しかねる部分もあり、内容の議論はここではやらない。

外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」…日本を支配する「フィクション」

 

それら多くの文章において、日本社会には何かが欠けていると指摘するが、正鵠を得たものは少ない。そこで山本七平氏の著作などを参考にして考えた結果、私は日本に欠けているのは真面な言語文化であると思うに至った。(補足1)以下にそれについて書いてみる。根本的に異質な日本を少しでも解明できたらと思う。

 

 

1)社会の中の個人、或いは世界の中の日本: 軋轢の解消には何が必要か

 

所謂民主主義の国では、個人は社会が持つ規則と基準を十分に知って行動する必要がある。そのような国での個人と社会の関わりは、一般に二つのプロセスの繰り返しである:①社会から受ける何かについて個人が自分の価値観やモノの見方(以下価値観等)で評価・判断し、それに対して個人が何らかの反応をする、そして②社会がその反応を受け取り、何らかの応答をする。


上記①のプロセスではその人物が意識する社会の持つべき規則と基準(以下価値観等)が大きくかかわり、②のプロセスでは社会制度が前提とするその“価値観等”に依存する。個人と社会の“価値観等”に大きな重なりが(つまりほとんど同じで)無ければ、個人の不満が益々増大するか、彼らが社会から過激な措置を受けてしまうなどを原因として、社会が平穏でなくなる。

 

もう7-8年前のことになるが、「保育園落ちた、日本死ね」というSNSでの書き込みについて、国会において少子化対策との絡みで議論されたことがあった。この件なども、社会と個人の係わりに関して、個人の持つモノサシ(価値観等)と国家或いは社会の持つモノサシに大きな違いがあったことがその原因だろう。 

 

この書き込みをした人には社会と個人である自分との関係を十分に理解していない。保育園以外の多くの面で、この社会から受けている恩恵の具体的な姿が全く見えていないのである。自分の不満をどのように行政に反映するかの知恵もない。このような空疎な個人と社会(国)の関係は、日本社会を不満の空間にしている。

 

社会に溢れた標語には、実際的且つ具体的な指針や方法はなく、実際に問題を抱える人たちから見れば揶揄われているように感じるかもしれない程、知恵の欠片もない。 https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466515058.htm


サブタイトルの疑問に対する解答は、上記①と②のプロセスからのフィードバックを論理的に処理し、その中で得られる筈の解決法とそれを進める戦略を集団思考で作り上げ、実施することである。日本には、そのような社会と個人の関係を改善するという基本的な政治が欠けている。標語ポスターや幟だけでは問題は解決しない。

 

国際世界の中で、核廃絶を主張したり、平和外交を主張する日本国の姿は、このような標語看板を掲げる日本人の姿と同じである。ここから日本と世界の係わりに話の枠を拡大する。

 

一つの文化で特徴つけられた国或いは民族と世界との相互作用も似たようなモデルで考えることが出来る。個人=>日本 社会=>世界と夫々置き換えれば、あとはほぼ近似的に上記のモデルが成立する。既に書いたように、世界とは日本が密接な関係を持つ国々であり、現在強大な金融や軍事の力を持ち、世界史的な大変革を行う意思を持つグローバリストが支配的な欧米を含む世界である。

 

上に「価値観等」や「モノサシ」という言葉を用いたが、もっと一般的に文化と言いかえた方が良いだろう。日本語では文化という言葉が深く理解されていないので、個人と社会の問題についてモデルを上に示したのである。それを世界の中の日本を考えるために以下利用する

 

“モノサシ”が微妙に違うことは、「言葉とその定義」が微妙に違うことであり、この部分は言語習慣或いは言語文化と言い換えることもできる。つまり、現代の世界における日本の困難は、言葉或いは概念が世界と異なり、互いに話が通じないことである

 

その結果、日本人は何を考えているのかわからないとか、日本人はサルであるという類の侮蔑的な表現が裏で用いられている。下の写真は、米国大統領トルーマンの日本評価を示している。実際にトルーマンが日本人をこのように評価したかどうかは分からないが、日本人への原爆投下の経緯などを考えると、世界の裏街道ではこのような話がまかり通っていることは事実だろう。

 

 

 

ここでもう一つの具体例をあげる。

 

片岡鉄哉 著“核武装なき「改憲」は国を滅ぼす”に、ニクソンとキッシンジャーが当時の総理大臣である佐藤栄作に、日本も地域の大国として核兵器を保持すべきではないのかと言ったことがあると書かれている。しかし佐藤は、日本ではそのような合意は得られないとして断り、千年に一度のチャンスを逸したのである。キッシンジャーは、その佐藤を何を言っても通じない愚鈍な人物だと評価した。

 

佐藤栄作は秀才として知られた岸信介の実弟であり、東大出身の人物である。その彼に話が通じないとキッシンジャーが語った。それは、日本人の持つ言語文化と西欧の論理的にできた言語文化に根本的な違いがあるということを意味すると思う。

 

この逸話は何度も日本の核武装を論じる際に用いてきたのでこれ以上は深入りしない。今回はこのような奇異な現象の根本をより深く追求するために、以下日本の言語文化の特徴、あるいは世界から見た異常さを考える。

 

 

2)日本における特異な言語文化

 

山本七平の議論で秀逸だと思うものに、日本語についての記述がある。その表現は分かりにくいと思う人も多いだろうが、(私の理解では)要するに日本人は言葉を人と人の間に投げかけるというのである。それは最初の写真に示した様に、街角に様々な評語が並んでいることとも関係がありそうである。(補足2)その一方、欧米では言葉は明確に対峙する人物に向けて発する

 

日本では、言葉を目の前の人物に対して発する場合でも、相手を直撃しないようにまるで届くまでにワンバウンドするような言い方をする場合が多い。4年前の記事:「日本にあふれる優しいことばと厳しい現実」の中で、以下のような文章を書いている(少し改変)。

 

日本人は嘘つきだという西欧社会の評価は、この特殊な言語空間の中に日本人が生きていて、しかも、世界の全ての人も同じであると信じていることによる。あの京都の「茶漬けでも召し上がって」(補足3)も、おそらく空体語(空間に投げかけられた建前のことば)に類するものである。

 

それを発せられた情況から考えて、「そろそろお帰りになったら如何」の意味だと受け取り、現実的なことば(実体語)と受け取らない芸当が即座に出来るのは日本教の信者、つまり、日本人だけである。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12567855407.html

 

つまり、「茶漬けでも召し上がって」と相手から言われたなら、その言葉を一度ワンバウンドさせて、つまり情況を含めてよく考えてから受け取らなければならない。それが日本文化の中の「思いやり」の実態である。日本人ならほとんどのケースで「有難うございます。お言葉だけを頂戴して今回はこれで失礼します」となるからである。

 

 

3)日本の外交不在

 

この言語文化は日本が他国とまともに付き合う場合非常に厄介である。外国は発せられた言葉は直接受け取るのであり、日本の言語文化など想定しない。勿論、観測気球的に言葉を発する場合も外交の場面では多々あるだろう。しかし、日本人は”おもてなしの言葉”と混同して、相手方の真意を見誤る可能性がある。佐藤首相が核武装を断ったのは、ニクソンとキッシンジャーの言葉を観測気球と解釈した可能性もある。(補足4)

 

また、この言語文化は日本における対話の習慣と議論により真実を追求する文化の成立を阻害した。つまり日本を「沈黙は金」の空間にした。その結果、人々は歴史を議論し劣悪な歴史家の洗脳をうち破ることが出来ず、上に引用したトルーマンの言葉にあるように、家畜のように時の権力に従順となったのである。

 

その結果だが、日本には「命」とか「平和」といった非常に重要な概念が、個人の視点でのみ語られている。つまり、平和=命であり、戦争=死である。核兵器=死であり、したがって命を確保するには核廃絶しなければならないとなる。この幼稚さは、日本が真っすぐに言葉をやり取りすることで可能となる集団思考できる言語文化を持たないことに原因がある。

 

その結果、本当の知識や知恵は、正統の中には存在せず異端の中でしか出てこないのである。以下の西鋭夫(にしとしお)教授の言葉も異端であるが、真実である。西教授は言う。「ヒロシマとナガサキはもうウンザリです。」「東京など都市空襲でも何十万人と殺された。(ヒロシマとナガサキだけに注目するのは、)原爆で殺された人たちの方がランクが上なのか」「核兵器廃絶? いったい誰が廃絶するんじゃ」https://www.youtube.com/watch?v=40polpr56Kk

 

 

 

このような現在では異端の中に埋もれた(無理やり現在の米国盲従権力により埋められた)言葉を掘り返し材料にして、しっかりとした思考ができる国にならなければ、日本はなくなるだろう。

 

以上半分ほどしか書けませんでしたが、今回はこれで終わります。

 

 

補足:

 

1)勿論、その指摘は明治初頭にはあっただろう。その一つに、時の文部大臣森有礼が国語を英語にした方が良いと主張した。それに対して志賀直哉はフランス語にすべき主張したという。これらの発言はいささか短絡的であり、深い思考の末の真面目な話ではないだろう。詳細はウィキペディアなどの「国語外国語化論」を見てもらいたい。

 

2)街かどの標語は、人と人の間の空間に投げられ、その空気をその標語の主張で充満させるために建てられる。この空気の存在が日本の言語文化の特徴と言える。この空気は、個人間の対話にも言葉が人を直撃しないように介在する。その結果、言葉は曖昧になり、厳密な議論は不可能となる。

 

3)京都のお茶漬けの話は半分本当である。ただ、その言葉をそのまま受けて客が帰らなければ、お茶漬けを出す覚悟が必要である。ウィキペディアには話の元にある落語の解説がある。「京の茶漬け」参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%BC%AC%E3%81%91

 

4)当時の歴代民主党大統領は、日本には核兵器は永遠に持たさないと考えていただろう。従って、観測気球の可能性があるのは当然である。しかし、日本が日露戦争当時の米国の覇権に協力する考え方の人物が多い様なら、日本に核兵器を持たせて中ソと対決姿勢がとれるだろう。しかしその後

米国は中国との関係を改善し、中ソの間に楔を打ち込む戦略をとった。その米国の様子を見て、田中角栄首相は日中国交正常化に踏み切った。キッシンジャーは「ジャップめ」と叫んだという。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿