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2024年8月18日日曜日

自分の言い分をストレートに相手に言えない日本人、相手の言い分が十分に聞けない日本人


日本人の言語文化について以前何度も議論した。先日も「日本人はトルーマンが言う様にサルなのか:日本は異質な言語文化に気付くべき」という題目で、似た議論を行った。そこで、私の日本の言語文化についての文章に概ね同意する以下のコメントを頂いた。それを紹介させていただく。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12863111153.html

 

A氏による日本の言語文化に関する議論に対するコメント:


日本には「察する文化」があると。人と人の間に言葉を置いて、後は相手が察する。多分、これが「空気を読む」になるのでは。そして最後に「忖度」で纏めるのでは。

過去にイギリス人、ニュージーランド人と話し合いをしたのですが、最初に結論を述べて後から理由を説明。日本は全く逆だったのがショックでした。


私が、日本人はストレートに相手に向けて話すのではなく、二人の間の空間に言葉を投げて地面にワンバウンドしてから相手に届くように話すという説明を、もっとよく使われている分かりやすい表現でコメントして下さったように思う。上記コメントを私風に解釈して以下示す。

小学校などで「他人の立場にたって考えなさい」という言葉をよく聞かされたように思う。相手に何かを話す場合も、相手の立場や考え方を十分考慮して話しなさいという意味である。それは同時に、その話を聞いた人は、その話を話し手のことを考えた上で受け取らなければならないことを示している。

日本人の会話はそこで終わるのが普通である。相手のことを考えての発言であり、それを受けて話し手の立場を考慮しての返答なのだから、それ以上続ける必要はない。ただ問題は、予め二人が居た世界・場所から動く必要性も理由もない。二人は永遠不滅の自分の世界に生きることになる。

コメントの二番目の文節は、西欧人の会話は全く逆であり、自分は自分の立場と価値観で話をする。自分の考えや都合を自分の言葉で話すから、結論をストレートに相手に話すことになる。それを受け取った側は、自分と相手の立場や都合の違い、考え方の違いをその言葉の往復で知ることになる。

西欧人の会話はそこから始まる。その違いの原因は何か、その違いを埋め合わせる必要性、そして必要ならその方法などについて、双方が考えることなるのが普通だろう。



 

これも何度も引用した話だが、嘗て経営不振に陥った日産と資本提携したルノーが社長として日産に送り込んだのがカルロス・ゴーン氏である。彼は、フランスと日本における会社での会話の違いに言及し、以下のように言った。「フランスでは社長が何か発表すると、そこから社内で議論が始まる。しかし、日本ではそこで社内での議論が終わる」と。

フランスでは社長が、俺の将来設計はこんなに素晴らしいと幹部社員に話すと、社員はそれぞれ自分の考え方からそれを批判する。社長は、場合によっては自分の浅はかな考えに恥じ入ることもあるだろう。しかし日本では、社長の話を有難く拝聴して、会社が社員ともども奈落の底に落ちたことも多い。

その様な一つのケースが、東芝が米国の原発企業のウエスティングハウスを買収したのちに経営が傾いたことである。その時の決断は、社長の西室泰三氏によってなされた。ただ、このケースを検索すると、プレジデントオンラインという雑誌のページが出てくるが、無料で見れる範囲には当時の社長の名前は出てこない。これも日本文化の特徴或いは欠陥である。

 

 

 

因みにウエスティングハウス社は、破産申請の後、米国のある会社に買い取られ、現在も存在する。その日本支社のHPの最初のページを是非見てもらいたい。

 

 

西室氏はその後、日本郵政の社長になり、トールホールディングズというオーストラリアの物流会社を買収する決断をし、大損害の原因となった。日本では名前や家柄と学歴が人事を決める。日本の言語文化ではそれしか人事の方法がないからである。

以上をまとめると、日本の対話には弁証法的機能が働かないということになる。弁証法とは、テーゼとアンチテーゼの対立を、議論の範囲を広げるなどの工夫でそれらが統合されるような命題に導く方法である。日本にはその前提となるテーゼとアンチテーゼを提出するような、普通の西欧型会話がない。 それが日本病の一症状である。
 

終わりに:

前回及び前々回のブログ記事に対する一般の方の評価が非常に低いのは、「自分はトルーマンなどにプラスの面など見たくない。彼は日本人を大虐殺した張本人であり、天敵のような人物であると思う」からだろう。しかし、その考えに拘泥していてはトルーマンの真実がわからない。

 

トルーマンがわからなければ、その背後の強力なユダヤ系資本の政治的存在に気づかないのである。一旦日本人であることを離れ、その発想の限界を超えることで、正しいトルーマン像が得られると思う。同じことが、日本におけるグローバリスト対反グローバリストの対立図式である。

 

日本の今後の歴史に現れるのは、グローバリスト盲従か、反グローバリスト的姿勢を貫き経済的破滅に陥るかのどちらかだろう。弁証法的議論、プラトン「対話篇」にあるような議論が皆無なのが日本の言語文化の遺伝子的欠陥である。アンチテーゼを全否定し、日本中が固まったのが、あの戦争に突っ込んだ日本の本質である。
 

15:05 表題を変更

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