今年もノーベル賞のシーズンになった。その中で平和賞ほど、受賞者がその栄誉にふさわしいかどうかの議論が多い部門はない。その理由は、世界政治は自然科学ほど単純ではないからである。今年のノーベル平和賞の授賞者を知って、再びそのように感じることになった。
BBCの報道によると、ノルウェー・ノーベル委員会のヨルゲン ・ヴァトネ・フリドネス委員長は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の受賞理由を、「核兵器のない世界実現を目指して努力し、核兵器は二度と使われてはならないのだと目撃者の証言から示したこと」と語ったようだ。https://www.bbc.com/japanese/articles/ckgnp02v5r0o
今回はこのノーベル平和賞受賞について、ノーベル賞の原点から日本への影響まで考えてみることにした。
1)ノーベル賞というラベル
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明で巨万の富を築いたアルフレッド・ノーベル(1833-1896)による「自分の遺産を最も人類に貢献した人物に授与してほしい」という遺言に従って1901年に創設された。
その遺言の切っ掛けは、ノーベルが、或る新聞社が兄の死を自分の死と勘違いして「死の商人死す」と新聞に掲載したことだったという説がある。ノーベルが発明したダイナマイトが土木工事などの他、武器弾薬として多用されたことが、このような新聞紙上の評価につながったのである。
その記事にショックを受けたノーベルが、莫大な遺産を用いて永遠に自分の名を美化しようとして創設したのがノーベル賞だというのである。
ダイナマイトは、包丁や拳銃などの歴史上の偉大な発明と同様に、人々を豊かにする場合もあるが、人を傷つけ死に至らしめる場合もある。評価は、誰が何の為にするのか何を物差しに用いるかなどと、人と立場により大きく揺らぐ。このノーベル賞誕生秘話はその教訓を示している。
ノーベル賞は非常に権威が高く、科学や文学における業績を超優秀なものとそれ以外のものとに切り分ける。(補足1)そして、専門的な成果に対して専門外のものが安易に評価を下す際の「ラベル」として働く。意地悪く言えば、ノーベル賞は本来真実と向かい合う学問の世界で、名誉とそれに伴うメリットに対する人間的争いを助長する。
平和賞の場合は同様に、時として大きな力となって大衆世論を動かし、辛うじて機能している世界の民主政治に衆愚政治の種をまき散らすと言えなくもない。
例えば、ノーベル財団が明らかにした佐藤栄作氏のノーベル平和賞受賞理由の中で、佐藤氏が表明した非核三原則について「アジアの平和にとってこの姿勢は非常に重要だ」と評価している。それ以降、日本では非核三原則を批判すれば政治家は選挙において票を減らすことになった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240105/k10014309481000.html
これが日本が非核政策を長く維持させる一つの力となったと言える。その一方,中国と北朝鮮が核兵器を開発し保有することになり、非核三原則とそれに対するノーベル賞の権威付けは、アジア全域ではなく核保有国の中国と北朝鮮の平和に貢献したと言えるだろう。
2) 日本被団協のノーベル平和賞受賞理由
日本被団協の活動は、核廃絶(核兵器禁止条約に全世界の国を加入させる)という理想を掲げて努力するという“草の根運動”である。その目標は、「理想」と「努力」という尊い概念から構成されており、彼らの運動を通常の論理で否定するのは困難である。
また、核兵器禁止条約への非核保有国の参加は、既に述べた様に、イザというときに仮想敵国かもしれない核保有国を利する効果しかない。非常に流動的な現在の世界政治において、中国の核兵器と対峙する日本国の政治的選択を狭める役割をしてきた。
広島サミットで岸田首相が明言したように、自民党政権は核兵器禁止条約を対外戦略の柱にしている。それは、自国に足枷をはめ込む愚かな戦略である。
世界中にたくさんの核廃絶を訴える人たちが居るが、ノーベル財団が特に日本被団協を授賞対象に選んだのは、自民党政権とそれを支持してきた日本国民に対し、今後もその核廃絶を目指す姿勢を堅持してもらいたいというメッセージを送る為だろう。
世界が第三次大戦を予想するようになり、日本でもボツボツと核武装の議論が出てくるようになった。そして、国家の防衛を原点から考える石破元防衛庁長官が首相になり、核共有までを考え言及するようになった。その日本の雰囲気の変化にノーベル財団が反応したのだろう。
繰り返すが、彼らの草の根運動が世界平和に貢献するほど、世界政治(での登場人物)は純情さを持たない。しかし(或いは案の定)、マスコミ各社は今回の日本被団協の受賞に触れる形で日本の核戦略を批判的に報じている。https://www.tokyo-np.co.jp/article/359921
例えば東京新聞は、石破茂首相は北大西洋条約機構(NATO)のアジア版創設を持論とし、その中で「核の共有や持ち込み」を具体的に検討すべきだと主張しているとして批判をしている。戦後の日本には、核兵器の共有を具体的に言及する首相はこれまで居なかったのである。
第三次世界大戦直前か或いは既に第三次世界大戦は始まっていると言われるぐらいに緊張する世界にあって、しかも3つの核保有国に囲まれている日本の首相が、米国の核兵器の共有に期待する発言をするのは常識的である。
この時期を狙って日本の被爆地に存在する日本被団協にノーベル平和賞を与えることは、日本に石破氏の核兵器対策を批判する世論を惹起する目的があったのではと考えられる。
ノーベル財団、そしてそれを支配する人たちは、この世界情勢が不透明になっている今、“日本が将来核保有国になる危険性”を危惧しているのだろう。(補足2)
おわりに
核兵器が廃絶されるのは、核兵器と同等或いはそれを超える威力のより安価(製造及び管理上)な兵器が発明された時である。或いは、独裁的な世界政府が出来、そこが核兵器狩り(秀吉の刀狩りから)をしない限り廃絶されることはないと考えるのが普通である。そんな時は当分来ない。
有史以来、民族と民族或いは国家と国家が生存をかけて戦争してきた。その状況では、国際法や国際条約などは無意味であり、全ての民族はより殺傷力の強い新型兵器の開発に努力してきた。その冷厳な事実は、ユダヤ人とアラブ人のパレスチナでの戦争を見れば分かる筈である。
また、ウクライナはソ連崩壊の時にブダペスト合意への英米露の署名と引き換えに、多数の核兵器のロシアへの移送に合意した。その合意は、国際条約に準ずるものだが、ロシアの侵攻を防ぐ力はなかった。このケースは、核兵器の戦争抑止効果を学ぶ教材と言える。
日本人はノーベル平和賞からよりも、現実に東欧や中東で発生していることから教訓を得るべきである。
補足:
1)この切り分けるという表現は、ノーベル賞の対象となった研究は単にその分野の一里塚として示されただけであるにも関わらず、特別な標識(ノーベル賞という)が付けられることを意味している。専門分野を持ち、そこで研究生活を体験すると、その分野の大きさ深さを実感することになる。その中でノーベル賞の栄誉に輝いた研究を見ると、上記表現の正しさが理解できるはずである。以下の文章を読んでもらいたい。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12536939371.html
2)現状では日本は核武装できない。例えば馬渕睦夫元ウクライナ大使は、日本が核兵器保有に踏み込めば、中国は国連憲章の敵国条項を理由に日本攻撃を開始するだろうと言っている。長年の政治の付けは長い年月をかけて支払う必要がある。
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