注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2026年7月24日金曜日

日本経済の衰退は「知」を組織できないことにあるのでは

 

はじめに――日本はなぜ富を生み出せなくなったのか

日本経済は、高度成長を終えた後、長い下り坂を歩んでいる。その原因として財政政策や金融政策の失敗を挙げる人は多い。しかし私は、その議論にはもっと根本的な視点が抜け落ちていると思う。それは、日本はなぜ現在の経済環境の中で、以前ほど富を生み出せなくなったのか、という視点である。

 

日本という社会が一定期間に新しく生み出した価値の総量は、国内総生産(GDP)として表される。日本のGDPが長期的に伸びないということは、日本社会全体が生み出す価値が増えていないということである。それは現在の国際経済の中で、国民が十分に富を生み出せていないということでもある。

 

わが国は戦後、短期間で復興を実現した。安くて真面目な日本の労働力は、世界の工業製品を生産する上で大きな強みだった。その結果、トランジスタラジオや自動車など世界市場で求められる工業製品を大量に生産し、戦後のどん底の状態から這い上がることができた。

 

しかし、一人当たり所得が増加して先進国の仲間入りを果たせば、「安くて真面目な労働力」という強みには頼れなくなる。先進国には、知識と高度な技術によって大きな付加価値を生み出し、他の先進国との競争に「余裕をもって」勝つことが要求される。

 

その「余裕」は、食料とエネルギーに恵まれていない日本が先進国として生きるための必須条件でもある。高い知的価値を含んだ製品やサービスを世界へ売り、その対価として食料、エネルギー、資源を海外から買う。その交換を有利に行える経済力を維持しなければならない。

 

以上から分かるのは、積極財政だけでは日本の長期停滞を説明することも、そこから脱出することもできないということである。半導体を設計し、新薬を発見し、新しい機械やソフトウェアを作るのは財政そのものではない。富を生み出すのは、社会を構成する人間と、その人間が作る組織である。

 

そうであるならば、日本経済の再生を考えるときの一丁目一番地は、「日本という社会は、どうすれば知識集約型の産業において、もっと大きな価値を生み出せるのか」でなければならない。

 

1.機械の時代から「知を組織する時代」へ

産業革命以降、人類の生産力を飛躍的に高めたのは機械だった。人間の筋力をはるかに超えるエネルギーを利用し、巨大な工場と大量の機械を設置することによって生産量を増やすことができた。戦後日本は、この時代には非常に強かった。

 

しかし戦いの場は変わった。半導体、AI、医薬品、精密機械、ソフトウェアなど、現代の高付加価値産業では、物的設備だけでなく、その背後に存在する膨大な知識が競争力を左右する。そして、その競争力は一人の優秀な人間が持っている知識量だけでは、とても構成できない。

 

最先端の半導体は、世界一の天才であっても一人や二人で作ることはできない。物理、化学、材料、電子工学、光学、精密機械、ソフトウェア、生産技術など、異なる領域の知識をジグソーパズルのように組み合わせて、初めて一つの製品が生まれる。

 

しかし現実のジグソーパズルと違って、最初からすべてのピースがきれいに合うわけではない。異なる専門知が接する境界では、矛盾や不整合が生じる。それを専門家同士の議論によって調整し、ときには設計そのものを変更しなければならない。

 

当初のアイデアでは実現できないことが分かれば、引き返すことも必要になる。別のアイデアを採用し、それに必要な専門家を集め直して再挑戦する。高度な産業に必要なのは、単に優秀な人間を集める能力ではなく、異なる知識を接合し、一つの成果へまとめ上げる能力なのである。

 

現代産業における生産力とは、個人の知識を超えて、社会に分散している異質な知識を結合し、技術や製品へ変換する能力である。これを「知的生産力」と呼ぶことができるだろう。

 

では日本には、異質な専門知を持つ人間を集め、衝突させ、調整し、一つの成果へまとめる能力が十分にあるのだろうか。

2.日本は人を育てても、「知」を組織できているのか

日本は教育水準の低い国ではない。多数の大学があり、研究者、技術者、医師、官僚、企業人がいる。それでも経済全体の生産力が長期間伸びていないのであれば、「優秀な人間が足りない」という説明だけでは不十分である。

 

ここには二つの問題があると思う。第一に、それぞれの人間が持っている知識が、自力として獲得された本物の知識なのか。第二に、それらの知識を社会がどのように組み合わせているのか、という問題である。

 

第一の問題は、単なる知識量の問題ではない。試験のために記憶し、他人の説明を再現できる「借り物の知識」と、自分で考え、疑い、使い、別の問題へ応用できる知識とは同じではない。実際の仕事で必要なのは後者である。知っていることと、その知識を自分の道具として使えることの間には大きな違いがある。

 

そして第二の問題が、そのような自力として獲得された知識を持つ人間同士を、社会がどう結びつけるかである。ところが、この二つの問題を考える以前に気になるのが、日本社会の強い序列志向である。

 

日本では大学を偏差値によって一本の縦軸に並べること、つまり一次元的に評価することにほとんど違和感がない。東大、京大、旧帝大、早慶、MARCHというように大学を並べ、その序列は卒業した人間の評価にまで転換される。

 

「東大卒だから頭がいい」という言葉が自然に成立し、ときには「東大卒でなければ人に非ず」とでもいうような世界さえ存在する。宮沢喜一元首相が、東大経済学部出身者について「近頃は法学部でなくても東大って言うんですか」と語ったとされる逸話は、その極端な例だろう。(補足1)

 


しかし大学も人間も、その評価は本来、多次元の価値空間においてなされるべきである。物理学に優れた大学と医学に優れた大学を一本の物差しで測ることに大した意味はない。同じように、数学のできる人、歴史史料を読む能力に優れた人、人間を組織する能力を持った人を、「頭のよさ」という一本の物差しで並べることにも無理がある。

 

日本でクイズ番組が盛んなことも、私はこの知識観と無関係ではないように思う。漢字、歴史、地理、科学という異質な知識が点数に換算され、最後には「誰が一番頭がいいか」という人物の順位になる。

 

問題はクイズ番組そのものではない。知識を使って「何を作り出せるか」ではなく、「誰が一番知っているか」という人物評価へ変換する発想である。

 

補足1)宮沢喜一元首相には、東大経済学部出身者に対して「近頃は法学部でなくても東大って言うんですか」と語ったとされる逸話がある。日本社会の学歴序列が、大学間だけでなく、同じ大学の学部間にまで及んでいたことを象徴する話である。出典:PRESIDENT Online。

 

3.人を縦に並べる社会と、知を横につなぐ社会

現代の知的生産に必要なのは、安価な労働力と大量生産によって国際競争に勝ってきた時代とは、かなり違う人間関係である。

 

高度な問題になればなるほど、一人ですべてを知ることはできない。ある問題については部長より若い技術者の方が詳しく、別の問題についてはその技術者より現場の熟練者の方が詳しい。さらに別の問題では、会社の外にいる研究者に聞かなければならない。

 

つまり知識を組織するためには、問題によって「誰の知識を中心にするか」が絶えず入れ替わらなければならない。役職上の序列と、知識の序列は一致しないのである。

 

ところが日本社会は、先生と弟子、上司と部下、先輩と後輩という固定された縦の人間関係を作ることには非常に長けている。この関係は強い共同体を作る。しかし、知識集約型企業に必要なのは、高度な機能体としての組織であって、強い共同体であることとは同じではない。

 

百人の人間が一人の優れた先生を尊敬し、その説を支持している集団より、五人の異分野の専門家が互いに「あなたの専門性は尊重する。しかし、その結論には同意できない」と言える集団の方が、高度な知識を生み出す上では有利なことがある。

 

異なる専門知を接合するときには、意見の衝突が起きて当然なのである。その衝突を人間関係の破壊と受け取るのではなく、新しい知識を生み出すために必要な作業として扱えるかどうか。ここに知識集約型社会に必要な組織能力がある。

 

人が組織されていることと、知が組織されていることは違うのである。

 

4.林千勝氏の原爆論が示したもの

私は最近、この問題を非常に分かりやすい形で考えさせられる例に出会った。近現代史について多くの著作を出してきた林千勝氏が、「広島・長崎に投下されたものは、われわれが教えられてきた原子爆弾ではなかった」という趣旨の説を発表し、一冊の本にまでまとめたことである。https://www.youtube.com/watch?v=gilWtAn7JXE

 

私は以前から林氏の歴史研究を非常に高く評価してきた。だからこそ、この説には驚いた。そして最も不思議だったのは、なぜ核反応の専門家による検証が入らなかったのかということである。

 

原爆投下直後、日本の科学者たちは広島を調査している。理化学研究所の仁科芳雄博士らも現地に入り、爆心地付近から採取された銅線などの放射能を調べた。その後の研究も含め、そこには中性子照射によって生成した放射性核種という核反応の痕跡が残されていた。(補足2)

 

「原爆ではなかった」という説を立てるのであれば、爆発の大きさや熱の問題以前に、まずこの物理的事実を説明しなければならない。ここは歴史解釈ではなく、核物理学・核化学の領域である。

 

私は、歴史研究者である林氏が核物理学や核化学を知らないことを問題にしているのではない。知らなくて当然である。問題は、林氏が一年以上この仮説を追究して出版にまで至る過程で、なぜ林氏の知識と核反応の専門家の知識が接続されなかったのか、ということである。

 

ここには、先ほど述べた「知識の接合」という問題が、そのまま現れている。歴史研究という一つのピースと核科学という別のピースを接合すれば、そこに不整合が生じる。その不整合を発見することこそ、異分野の知識を組み合わせる意味なのである。

 

林氏には支持者がおり、協力者がおり、講演には多くの人が集まる。しかし、人に囲まれていることと、知的に孤立していないことは同じではない。「先生、その問題は専門家に聞いた方がいい」「その証拠は先生の仮説と矛盾しています」と言ってくれる人がいなければ、人は大勢の人間に囲まれながら知的に孤立する。

 

知的孤立の反対は、仲間が多いことではない。自分の仮説を本気で壊そうとしてくれる人間が、自分の周囲にいることである。

 

補足2)核分裂では大量の中性子が発生する。その中性子を周囲の物質の原子核が吸収すると、安定していた核種が放射性核種に変わることがある。これを放射化という。原爆投下直後の広島では、日本の研究者によってこうした核反応の痕跡が調査された。

 

理研でも、仁科芳雄博士らによって爆心地付近から採取された銅線などから放射線が検出されている。「原爆ではなかった」と主張するなら、こうした核反応の痕跡を説明する必要がある。

https://hpmmuseum.jp/modules/xelfinder/index.php/view/2185/17-03_shizuma.pdf

 

 

5.「誰が正しいか」から「何が正しいか」へ

ここには、もう一つ重要な問題がある。人物の評価と、その人物が述べた命題の評価を分離できるかという問題である。

 

ある研究者のAという研究が優れていても、Bという研究が間違っていることは当然ある。しかし人間を一次元的に評価すると、「この人は優秀だから、この人の言うことは正しい」という判断が生まれる。反対に、一つの間違いを発見すると、「この人は駄目だから過去の研究も全部駄目だ」となる。

 

知識を組織するためには、この人物評価から離れなければならない。必要なのは「誰が言ったか」ではなく、「何を根拠として言っているか」を問う関係である。上司でも間違える。若い研究者でも正しいことを言う。問題が変われば、その問題について最も深い知識を持つ人間も変わる。

 

知識の中心が移動することを許す組織でなければ、専門化した現代の知識を結合することはできない。固定された人間の序列よりも、問題に応じて変化する知識のネットワークが必要なのである。

 

これは単なる学問の作法の問題ではない。企業の技術開発にも、行政にも、外交にも、安全保障にも同じことが言える。一人の「偉い人」が全体を理解し、正しい判断を下すことがますます不可能になっているからである。

 

おわりに――日本経済をもう一段深いところから考える

日本経済はなぜ成長しなくなったのか。財政政策や金融政策を議論することも必要である。しかし、それだけでは社会そのものの生産力がなぜ伸びないのかという問いには答えられない。

 

産業が機械集約型から知識集約型へ進むほど、国家の生産力を左右するものは、単なる設備の量でも、優秀な人間の人数でもなくなる。まず個人が、借り物ではない、自分で使うことのできる知識を獲得する。そして社会が、その異質な知識を持つ人間を発見し、結合し、互いに批判させ、一人では作れない知識へ変換する。

 

その過程では、専門知と専門知の接合面で必ず不整合が起きる。その不整合を隠すのではなく、議論し、修正し、ときには最初のアイデアそのものを捨てる。この一連の能力が、現代社会における「知的生産力」なのではないだろうか。

 

ところが日本社会を見れば、大学を縦に並べ、人間を学歴で序列化し、組織では上司と部下を固定し、優れた人物の周囲には支持者が集まる。そこには一つの共通した構造があるように私には思える。

 

人間を縦に組織することには長けている。しかし、異質な知識を横に組織することには必ずしも長けていない。

 

もしこの仮説が正しいのであれば、日本経済の長期停滞は財政や金融だけの問題ではない。教育問題だけでも、企業経営だけの問題でもない。日本社会の人間関係と組織原理そのものが、生産力の問題として現れていることになる。

 

かつての工業社会では、優秀な人間を選抜し、組織の上位に置き、その指示のもとで多数の人間を動かす仕組みが大きな力を発揮したのかもしれない。しかし知識が高度に専門化し、一人の人間では全体を把握できなくなった時代には、別の組織原理が必要になる。

 

「一番頭のいい人」を探すことから、異なる頭脳をどう結びつけるかへ。

「誰が正しいか」を争うことから、「何が正しいか」を共同で探すことへ。

 

日本経済の再生を考えるとき、財政や金融の議論よりさらに深いところに、私はこの問題があるように思う。

 

これからの国力を決めるのは、個人の知識量だけではない。個人が獲得した「本物の知識」を、社会がどこまで高度な「組織された知」へ変換できるかなのである。

 


※本稿の作成にあたっては、論点の整理、文章構成、科学的記述の確認などに生成AI(ChatGPT)の助力を得た。最終的な問題設定、主張および文章の責任は筆者にある。

0 件のコメント:

コメントを投稿