日本語に「波風をたてる」と言う言葉がある。 これは”騒ぎを大きくする”とか、”煽り立てる”という意味で使われる。また、「波紋を呼ぶ」ということばも、頻繁につかわれている。それは、”人々を刺激する”位の意味である。人々の間の議論というか会話の状態について言及する言葉として、これら水面の状態を表す言葉を用いる日本の伝統?に興味を持った。
例えば、JOCの竹田圭吾氏が五輪出場選手にたいして、メダルを獲得してもそれを噛まないこと;国歌が演奏される時には、声を出して歌うこと;負けたときに「楽しかった」とか「良い想い出になった」などと言わぬこと、などとTwitterで要請を出した。それに対して賛否両論がネットに掲載されていることを ある記事が報じている。 竹田さんの意見に賛成だが、私が興味を持ったのはこの記事の最後の文章である。つまり、上記「波紋をよんでいる」という言葉で、この記事は締めくくられていることである。これは波紋の中心に位置する人、ここでは竹田氏、が意図してネットでの議論を起こした訳ではないので、この「波紋を呼んでいる」という表現が用いられる。一方、意図して起こした場合には「波風を立てる」という表現が用いられる。後者の表現は、良くないこととされ、負の価値が含まれている。
上記表現は、「水面には波が無く、静かであることが美であり善である」という美意識があり、且つ、「人々の間に議論が無いのが平和であり、理想である」という価値観があることを意味している。つまり、日本文化の中に「議論は口論であり、口論は紛争に通じる」という、議論の価値を否定する価値観が存在するのである。
ここで、もう一人の 竹田氏が絡んだ”波風”を紹介する。このネット記事によると、竹田恒泰氏(注1)が2013年10月放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)において、在日韓国・朝鮮人による「通名」に言及し、それが、いわゆる「在日特権」に当たるとの認識を示したことについて、池田信夫氏が反論した。そして、「この自称皇族は頭がおかしい。マスコミが相手にするのはやめるべき」とTwitterに書き込んだという。池田氏のそのツイッターを見た竹田恒泰氏が、「公開質問状」を出したとその記事は報じている。その部分の表現を上記記事から採ると、「ツイッターでのつぶやきから始まったバトルは、公開質問状を池田氏に叩き付ける事態にまで発展した」と表現されている。
まさに、波風がたちさわぐ状態になっているのである。もちろん、ネット・ショーとみることもできるが、それが大衆に受けて、且つ、彼らに冷静さを欠いた人間というマイナスの評価が下らないことから、これが典型的な日本人の生態であると考えられる。
このような現象が、二人の知的な方々の間でさえ起こるのは何故だろうか?それは、日本語が論理的な表現に向いていないため、ある現象に対する解釈の論理が容易に相手に伝わらないのが原因だと思う。そのため、議論しても意見が噛み合ず、より高いレベルの理解に向かうのではなく、互いの対立点(又は、線)のみが益々際立ち、最終的に感情的になってしまうのである。(ここまで読んで、またこのおちか?と不思議に思われる方の為に、補足として注釈2を追加します。)非常に重要なことの議論においても、このような場面が多くあり得るため、「沈黙は金、能弁は銀」なる諺、或いは、戒めとして残ったのだろう。幼少期から、議論とそれをしながらでも冷静さを保つ訓練を、学校等ですべきだと思う。どれだけ効果があるか判らないが。(注釈3)
注釈:
1)竹田圭吾氏の息子さん。明治天皇の直系元皇族。そう言えば、明治天皇の詠まれた歌に以下のものがありました。
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
2)日本語に論理がないというのは、山本七平氏(日本教について、文芸春秋文庫版20頁)の言葉にもある様に、いまや常識だと思う。その上、多神教的であり日本文化に明確な善悪が存在しない。それと関連して、日本人は他国に比べて極めて現実的、世俗的(橘玲氏、(日本人)に引用されたイングルハートの価値マップ)であるため、善悪より損得、論理より感情を優先してしまう傾向がある。そのような文化の下では、冷静な議論が出来ないので、波風を立てないのが平穏な日常(世俗人には最も大切)を送る大切な掟となる。
3)改めて考えてみれば、複数の対等な人間が対話や議論を通して、一人の考えよりも高いレベルの思想を創り上げるということは、ほとんど不可能なことかもしれない。世界のどこでもどの時代でも、数える程の例外を除いて、一人の考えが殆どすべてを支配するのが普通であると思う。狭い知的社会に存在する科学活動は、議論を通して思想を構築する数少ない例外だと思う。
(2014/2/10/19:30;2/12/16:00:2/15/am,注釈2、3追加と若干の修正;
2/22語句の修正有り)
「それが大衆に受けて、且つ、彼らに冷静さを欠いた人間というマイナスの評価が下らないことから、これが典型的な日本人の生態であると考えられる。 このような現象が、二人の知的な方々の間でさえ起こるのは何故だろうか?それは、日本語が論理的な表現に向いていないため、自分のある現象に対する論理的解釈が容易に相手に伝わらないため、どうしても感情的になってしまうことが原因であると思う。」
返信削除この段落の文章こそ、論理性を欠いていると思います。何のことか分かりません。そしてそれは日本語の欠陥で在るとは想えません。