読売新聞の12面に、編集委員の書いた文章「啄木の面白い歌 読まれぬ悲しさ」を見つけた。その中に、ドナルドキーンさんが「明治時代の文学作品中、私が読んだ限り、私を一番感動させるのは石川啄木の日記である」という言葉があった。ちょっと意外に思った。
私は短歌や俳句という短い文で何かを訴えること、そして、その結果残された歌に、ある種の軽さを感じる。完結した作品であっても、その持つ価値は一編の小説に程遠いと思う。また、短い為に百人百様の解釈が生じうる。それで良いじゃないかといっても、解釈が180度近く違ってしまえば、やはり短歌や俳句という形式はメジャーとは見なせないと思う。
たとえば、
・いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
この石川啄木の有名な歌が上記新聞記事に引用されていた。私はこの歌を初めて読んだ時、すぐ良い歌だと思った。ただし、悲しいのは砂でなく啄木自身である。さらさらと指の間より落ちる砂に、自分の命を投影していると思う。啄木の手は砂にとって、阿弥陀如来の手である。
それに続く歌:
・しっとりと なみだを吸える砂の球 なみだは重きものにしあるかな
・大という字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来たれり
は、自分の命の重さを再確認し、悲しさから起き上がる様子を歌っていると思う。
なみだを吸って、砂はずしりと重くなり、存在感を示すようになる。なみだは命ある啄木の目より落ちたからである。そして、砂と自分の世界から目を外に転じて、視野をそして気持ちを大きく持とうということだろう。
最近よく見る番組に、夏井いつきさんの俳句のコーナーがある。そこで、素人俳句に対する指摘としてよく聞くのが、「散文になってしまっている」である。その指摘は当然なのだが、それは俳句の世界での話である。俳句で飯が食えるのならともかく、一般には散文形式でまともに文章を書く能力を養うことの方が、俳句において上達するよりも遥かに大事であると思う。
一握の砂には、上記のほか以下のような歌がある。やはり、短歌が受け持つことが可能な視野(範囲)は狭いと思う。俳句なら尚更である。
・ くだらない小説を書きてよろこべる おとこあわれなり 初秋の風
・ はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る
上の句は愚痴にしか思えない。下の句は、手を見るところが面白いが、手に職があれば、もっと楽になっただろうという意味だろうか。
最近、写真を俳句を添えるやり方がある(俳句を写真に添えるのかもしれない)。
その方がより完結性が高くなる。短歌も文章の中に添えることで、相互補完的に主張を明確にできると思う。
短歌を連続して書く一握の砂のような詩集や、俳句に紀行文を添える奥の細道はその意味で、全体として完結した作品だと思う。つまり、一句を取り出して単独の文学作品のように扱うのはちょっと無理だと思う。
(以上、素人の意見です。)
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