昨日の記事に現れた無条件降伏について、すこしまとめてみたい。以下に無条件降伏(補足1)が出された経緯、ポツダム宣言と関係文書、宣言受諾と戦後統治などの相互関係を簡単に書き、その後少し議論を追加する。
無条件降伏は1943年1月のカサブランカでの会議で、フランクリンDルーズベルト米国大統領が枢軸国に対する戦争終結に関して提案した。無条件降伏を持ち出した動機は、第一次大戦でドイツと停戦協定から対等な形で講和条約を結んだことへの反省であった。
4月にルーズベルト大統領が死亡したために、日本に対する停戦勧告であるポツダム宣言は、トルーマン大統領の下で作られた。国務次官代理の前駐日大使のジョセフ・グルーの考えもあり、初稿では立憲君主性を残すと書かれていた。その後、国務長官がジェームズ・バーンズになり、その次官補のディーン・アチソンは日本を共和制にすべきであると考えた。そして、7月26日に発表された最終稿では、天皇制への言及はわざと削除されていた。また、直前の案では宛先が「日本国民」となっていたが、英国の要求により「日本政府」に替えられた(補足2)。
国務長官のバーンズは天皇制廃止を主張したが、統合参謀本部と占領政策を実行する米陸軍は、天皇の統治への利用を考えて暫定的存続を主張した。一方、天皇制に対する言及がないことで、陸軍参謀総長、海軍軍令部長、陸軍大臣は本土決戦を主張した。会議では決着はつかないので鈴木貫太郎首相は御前会議を要請し天皇に聖断を乞うた。
天皇からポツダム宣言受諾の聖断を得て、帝国政府は8月10日「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに、帝国政府は右宣言を受諾す」と回答した。その回答を受け取った米国は議論の末に、「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」「最終的な日本政府の形態は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答した。
12日に到着したこの回答の意味、特に「従属する」について議論が起きる。14日に天皇陛下は自分のイニシアティブで御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。ポツダム宣言の文書だけでなく、この米国による回答文もポツダム宣言の解釈を助ける文章として受け入れたことになる。
最終的には皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしなかった。それは、皇室の廃止という脅しで、円滑な武装解除と占領政策を可能にしたのである。占領統治が始まり、9月下旬に「降伏後初期対日政策」(文書コードSWINCC 150/4)がマッカーサーから手渡されることになる。外務省はこの文書の皇室に関する部分について、「米国政府は我皇室制度の存続に関し将来の如何なる保障をも与うることを拒むもの」と解釈している。
「日本永久占領」の著者は日本の降伏を無条件降伏であると断言している。その降伏の結果として、ポツダム宣言(補足3)にある通りに、GHQは日本の政治を(外交を含め)完全に支配し、且つ戦争に責任のある国家の指導者を「平和に対する罪」により処罰したのである。
降伏の形態を具体的にポツダム宣言の条項との関連を書くと:国家を率いていたリーダー達を排除し(ポツダム宣言条項 6)、国家の形態を民主主義と定め(条項10)、その達成のために武装解除(条項 13) 及び必要な国土を連合軍が占領する(条項7)となる。更に、「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令感に従属する」(米国からの4/12の返答)のである。
国が占領され、政府はGHQの支配下におかれ、国家の指導者の処罰(死刑)などが条件で降伏した。これを、条件付き降伏と呼ぶのは、言葉遊びでしかない。
更に、米国国務省からマッカーサーの下に政治顧問として送られたジョージ・アチソンは、トルーマンに「天皇を処罰するのも一つの案だ」と助言している。(日本永久占領、54頁) 終戦後天皇は退位すべきだという議論があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇の戦争責任論 しかし、退位は自殺行為であったのだ。つまり、天皇が退位せずに残ったのは、天皇の戦争責任論を避けるためである。責任がない以上退位する理由はないからである。
天皇が退位すれば、国務省が天皇の責任追求を厳しくすることが目に見えていた。天皇無責任説はマッカーサーが(国務省と天皇の間に立って)天皇を守り抜くために「日本政府に入れ知恵した可能性が強い」と「日本永久占領」の著者のは書いている。
補足
1)無条件降伏の概念は、「戦敗国の指導者が戦勝国により「平和に対する罪」で処罰されることである(「日本永久占領」48頁)。ケント・ギルバート氏のように、「日本の領土を日本4島および周辺島嶼とする」というポツダム宣言の条項8や、戦勝国の思う通りの国家が出来たら占領軍は撤退する(同条項12)などを降伏条件と考えて、条件付き降伏と呼ぶのはおかしい。
2)宛先が「日本国民へ」だと、ポツダム宣言は当時の政府を最初から相手にしないということになる。
3)降伏文書には、主にポツダム宣言と4月12日日本側が受け取った回答文の内容が書かれている。
===これは、片岡鉄哉著「日本永久占領」から学んだものと、ウィキペディアを参考にして書いたもので、私的なメモである。===
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