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2018年10月26日金曜日

安田純平氏のシリア取材に関する自己責任論

カメラマンの安田純平さんが、シリアでイスラム過激派に拘束されてから3年以上経過し、今月になって解放され帰国した。安田氏は、政府から退避勧告が出されていた地域に、勧告を無視して取材に潜入し、過激派に拘束された。このことを根拠に、拉致被害は自己責任であるという説がネット上に多く出された。また、それに「反論する主張」も多く出されたようだ。それらが噛み合った議論になっていないようなので、ここで考える。(補足1)

1)退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定しているニュアンスで自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。

先ず、”自己責任論”に反対する意見を少し拾ってみたい。テレビ朝日の玉川徹氏は、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」で、紛争地帯に飛び込むフリージャーナリストの役割の大きさを力説。安田さんを「英雄として迎えないでどうするんですか」と主張した。

更に、「そもそも、ジャーナリストは何のためにいるんだ。民主主義を守るためにいるんですよ」と力説した。また、「たとえて言えば、兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです」と主張する。 https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-111222/

勇気ある行動でプロとしての仕事に従事したことは、賞賛に値するだろう。ただし、過激派に拉致されたことは失敗だったことも、明白な事実である。その失敗に、日本政府を自分の意思で巻き込んだとしたら、それは賞賛を大きく減少させるだろう。 このケースは、捕虜から解放された兵士のケースとは全くことなる。特に戦前の徴兵された兵士は、国家権力に従って、国家の為に命をかけて働かされたのである。今回のケースは国家のために働いたのではない。安田氏に敬意を示すとした場合、それは私的な取材活動において示した、プロ意識と勇気に対する敬意である。取材活動は社会の機能の一部を果たす重要な役割だが、そのような重要な役割は立派に働いている社会構成員の全てがそれぞれの分野で担っている。

「そもそも、ジャーナリストは民主主義を守るためにいるのだ」というのは、「ジャーナリストは」と助詞の「は」を用いる限り、思い上がった言葉である。上記のように、商社マンであれ、警察員であれ、医師であれ、会社の研究開発員であれ、学校の教師であれ、全ての職業人は、この国に異なった分野でこの国の繁栄と安全維持のために働いているのだ。(補足2)

2)更に、gooニュース7月12日21:30配信の記事に、朝日新聞記者の石川智也氏の意見が掲載されている。その記事の中での石川氏の意見を下に再録する。

石川:アメリカやイギリスのジャーナリストに聞いても、安田さんのような行動を称賛する声はあっても、迷惑をかけたなんて声が大勢を占めることはないと言うんですよね。後藤健二さんがISに殺害された当時、アメリカのオバマ大統領(当時)は「勇敢に取材してシリアの人々の苦境を外の世界に伝えようとした」と声明で称えました。(補足3)

一方で、日本は自民党の副総裁が「どんな使命感があっても蛮勇だ」と言ったり、2004年にイラクで高遠菜穂子さんたち3人が拘束された際にも、現都知事が「危ないところにあえて行ったのは、自分自身の責任だ」と言っています。政治家がこういう言葉を流布させてメディアが乗ってしまい、拘束された本人ばかりか家族や関係者に批判が行くことは極めて日本的だなと思います。 https://news.goo.ne.jp/article/jwave/entertainment/jwave-165226.html

この意見も、事の経緯と分析を全くしないで、訳のわからない批判をしている。

オバマ大統領(当時)は、後藤健二氏の勇気ある取材活動を讃えたのは当たり前である。後藤健二氏の家族以外は、後藤氏の批判などしていない筈である。拉致されたのは明らかに後藤氏にとっては失敗であった。その失敗は自分の命を失うことに繋がったが、誰にも負担をかけていない。自己責任で紛争地に取材に出かけたのは、勇気ある行動である。それを賞賛するのは、当たり前である。(補足4)

3)ジャーナリズムは近代国家において第四の権力と言われる報道の一角を担う重要な仕事である。取材活動はその中のデータ収集という基本的で重要な役割である。ただ、上述のように、社会の機能を分担する重要な役割は、立派に働いている社会構成員の全てが担っている。そしてそれらは、民間ベースで行われることであり、公的活動ではない。その意味では、安田氏らの取材活動は、他国の領海近くに遠洋漁業で出かけた漁船員と似ている。その国に領海侵犯で拿捕されたとしても、法に定められた手続きにより召喚を求めるだけであり、政府に取り返す責任はない。

繰り返すが、退避勧告を無視して私的判断で潜入した以上、政府に身辺警備をする責任はない。また、誘拐されたとしても政府には最終的に救出する責任はない。その政府の本来の活動範囲で、救出が可能となった時のみ救出されるのである。この点は、北朝鮮に拉致された人たちとは根本的に違う。北朝鮮による日本国内での拉致被害は、日本政府の責任である。北朝鮮を非難するが、日本政府を批判する声がほとんどないのは不思議である。

過激派に殺された湯川遥菜氏と後藤健二氏は、自己責任でジャーナリストとしての仕事に身を捧げた。それは賞賛されることはあっても非難することなど論外である。同じように安田氏の取材行為も賞賛されるべきである。ただし、それは自己責任の下で行われた行為であるとした場合である。

初めから、避難勧告地域にその勧告を無視して出かけ、拘束されたのは自己責任の範囲である。そして、政府が法に定められた範囲の行政および外交活動として、自国民である被拘束者を救うべく行動することも、また当然である。

今回のケースは、数億円の身代金がカタールから出されたと一部で報道された。国際政治に利用された可能性があると、AERAdotの記事は書いている。 https://dot.asahi.com/dot/2018102400082.html?page=1

もしそうなら、そして、そのカタールの行為により、日本政府の外交まで今後歪められるとしたら、安田氏の件が政治に与えた影響はかなり大きい。そのように安田氏が自己の判断で誘導したのなら、非難されても当然である。(補足5)ただし、日本政府が民意に迎合すべく、多額の税金を使って安田氏の救済に動いたとしたら、それで非難されるべきなのは、日本政府である。

補足:

1)後藤健二氏がイスラム国に拘束された事件、安倍総理は後藤氏に渡航中止を3回求めていたことを明かしたという。それにも関わらず、世耕官房副長官は「我々は自己責任論には立たない」と言ったと、以下のサイトに「自己責任の罠」という表題で紹介されている。私にはこの世耕氏の言葉の意味が理解できない。単に二世議員の政治屋的発言だろう。この件は深い意味があれば後で、議論の対象にしたい。https://www.excite.co.jp/News/society_g/20150205/Litera_843.html

2)ジャーナリズムも社会の中に存在する多くの私的活動の一つである。特別に扱うべきだとする理由はない。「ジャーナリストは民主主義を守るためにいる」という、思い上がった態度は批判されるべきである。 それは、「目や耳が、情報を集めるから人を守るのだと言って、腎臓や肝臓をバカにする」ようなものだ。

3)自己責任で、社会を支える重要な仕事に果敢に向かった点は、高く評価されるべきである。しかし、拉致されあとの解放が、国際政治や国内政治に影響をかなり与えたとすれば、その部分はプロとして失敗だったと思う。その政治への影響が、良い方向に働く可能性もあるが、それはこの場合問題ではない。

4)政府が退避勧告を出したとしても、自己責任でそこに出向く自由がある。それを批判するとしたら、個人主義という西欧の法体系で作られている日本の制度を知らないことになる。

5)安田氏が助命嘆願を政府に自己判断で求めたとすれば、それは自己責任の原則を破ったことになる。その部分は、非難させても仕方がないだろう。

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