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2018年10月9日火曜日

女性差別解消の視点について

1)同性婚の問題についてブログ記事を書いた時、1組の男女が結婚して家庭を築き、子供を育てるのが、社会の安定的維持に必須であると書いた。ここでもその考えに変化はない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43767549.html

そこで、個人が最も基本的な社会のユニットであり、更に、その上に第二層として家庭が存在すると考えた。しかし、その考え方は、採用しない方が良いと思うようになった。婚姻状態にある人は、居住地選択の自由や、職業選択の自由を個別に主張できない。つまり、束縛状態にある。しかし、それは健全な束縛であるのなら、社会構造の基本的ユニットとして個人を考えるのは無理かもしれない。また、そこで束縛を受けるのがほとんど女性だとしたら、それを女性差別と考えるのはおかしい。(補足1)

勿論、個人が社会の基本ユニットならば、個人として男女の間に差別はあってはならない。西欧諸国は、そのように考えて男女差別の撤廃を目指して努力をして来たようだ。そして、家庭を持っている女性、子供を育児中の女性に限らず、全ての個人を対象に男女平等ランキングを作った。しかし、不思議なことに彼らは完全な男女平等のモデルを持っていない。

それにも拘らず、日本がそのランキングで114位であり、OECDの中では最低ランクであると言って批判している。また、日本政府等もそれを深刻に受け取っている。それは文化の違いを無視した政治的プロパガンダではないのか?そのように利用されるランキングは、ある一部の国(人間)の利益を考えてつくられたのではないのか?

世界経済フォーラムが発表している世界男女格差レポートでは、経済活動の参加と機会、教育(識字率、初等<=>高等教育の男女比)、政治的進出(国会議員の男女比、閣僚の男女比など)、健康と生存(出生児の男女比、冷え金寿命の男女比)の各項目別に、指数を計算している。それに一定の重みをつけて合算し総合ランキングとしている。そのランキングで日本は114位だと言って、”深刻に騒いでいる”のは些か奇異である。(補足2) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%94%B7%E5%A5%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E6%8C%87%E6%95%B0

2)社会全体のことを考えるのなら、女性の最大の役割は、子供を産み育てることである。経済活動をしてお金を儲けることは、男性でもできるが、こどもを産み育てることは男性には出来ない。その重要な役割を、抜きにして男女差別のランキング付けをする愚かさを、その数字を見る者は気づかなければならない。

その出産育児をそのまま数値化して男女差を出すことはできないのだから、意味のある男女差別ランキングをつくるのなら、出産育児を受け持つ女性の地位の数値化を試みるべきである。パートナーの男性がどのように出産と子育てに協力しているのか、女性の経済的地位は家庭内でも一定レベルで確保されているかなどである。それをしなければ、上記統計はもっとも大きな因子を無視して統計をとっていることになる。それは非常に愚かなことである。

もし現在のような男女差別算定の方法を採用して、それを最小にすべく政治経済政策を立案すれば、次世代(子供世代)が育たないのは必然である。その愚かな考え方が、先進諸国での少子化の大きな原因だろう。女性が子供を産み育てるのなら、例えば男性は仕事で得た収入の大半を提供して、それに協力すれば女性差別が小さいことになるはずである。その場合女性の経済進出は小さいので、上記方法で女性差別を算定すれば非常に大きく出る。その健全な社会を維持しながら、女性差別を指摘されて頭を抱えているのが日本ではないのか?

結論を言えば、社会の最も基本的な単位は個人ではなく世帯と考えるべきである。勿論、世帯には単身世帯もあるし、家族数人の世帯もある。健全な世帯を作り上げるために社会はそのエネルギーを使うべきである。その時、個人は社会の基本単位ではないが、世帯構成員として社会に参加するのである。単身世帯は、現在でも所得控除額が少ないことなどで、家族世帯の子育てに関節的に経済的な協力をしている。ここで言いたいのは、社会の構成に関する考え方であり、その考え方はその他の経済的文化的法整備等に生かされる筈である。

そのように考えた時、男女差別は家族世帯における場合と、単身世帯における場合のふた通り、考察されるべきである。単身世帯における男女差別は、政治経済への参加において機会が平等に与えられているかという視点で考察される。一方、家族世帯では男女差別は、家庭内での生活における個人の自由度や構成員の協力関係などで比較考察されるべきである。

日本はこの点で男女格差の小さい国であった。それは、多くの家庭で財布の紐は主婦側が握っていることでも分かる。一方、英国では、共稼ぎでも家事は女性の仕事であるらしい。また、ドイツでは専業主婦が財布の紐を握ることなど考えられないという。つまり、そのような新しい男女差別の指標を用いたのなら、日本での男女差別が小さく、英国やドイツの男女差別が大きいということになるだろう。 https://biz-journal.jp/2018/01/post_22161_2.html

実際、そのような理由で、日本では男女差別撤廃運動が今ひとつ盛り上がらないと、(女性記者が書いた)その記事には書かれている。

3)男女の形式的平等の尺度(私の決めつけである)は、フェニミズム運動とともに重要視されるようになったのだろう。それはあらゆるイズム(ism)同様、あまり現実的ではない。(補足3)従ってその思想の詳細を議論するつもりはない。ウィキペディアの記事を読んでも、その思想は十分整理もされていないようである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

おそらく、近代政治と大衆文化の中で醸成されたものであり、型通りの論理を重視する西欧文化の下の非効率的運動だろう。つまり、本質的な男女差(健全な男女差)を人為的に解消しようとする理想主義的大衆運動である。永遠に達成できない目標を掲げる非現実的運動は、核廃絶運動に似て、政治的に利用されるだけで、結局は人類の幸福に寄与しないだろう。

個人の間の平等は、民主政治の原点であると言われる。その通りだが、立体的な構造の社会を、一次元の平面に圧延してまで個人を独立させる必要はない。それぞれの部分空間において個人間の平等を目指すのが、複雑な人間社会における本来のあり方だと思う。

その平等も、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という類の平等ではない。その意味で、ある特定の分野、例えば政治の世界をとり、そこでの男女間の進出割合に差があったとしても、それは差別ではない。無能な女性が政界に進出すれば、それは男女逆差別であり、社会の能率が著しく低下するだろう。

尚、同性婚の問題は再びどこかで議論したい。異性世帯と権利義務関係がかなりことなる形での同性世帯は、上記考え方で社会のあり方が組み替えられた時(つまり法整備がなされた時)には、比較的簡単に組み込まれるだろう。

補足:

補足1:憲法14条に法の下の平等を掲げて、性差別を禁止している。憲法24条では婚姻における男女平等と男女の協力を謳っている。その他の関連項目については法律で定めるとあるが、その民法は明治29年4月に作られ、31年7月に施行されている。

補足2:国際社会は、何かと数値化して比較することが好きである。多次元の世界を一次元に投影して、その長さでランクづけをする愚かさを承知で、そのような指数を出すのは、それを政治利用したいからである。民主政治と言う名の衆愚政治では、それが有効である。

補足3:communismなどismは主義と訳され、本質的に原理主義であり現実主義ではない。時代とともに変化する現実に追随できないのは、原理主義の宿命である。)

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