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2021年10月15日金曜日

「親ガチャ」という若者の吐く言葉について:

コインを入れ回転式レバーを回すとカプセル入りの小型玩具一つが出てくる自動販売機がある。その販売機やそのカプセルの中の玩具をガチャと云う。(補足1)透明の容器の中に多くの種類の小型玩具が見えているが、選択してえ買う事ができないので、うまく行けば目的のものが手に入るがそうでない場合も多い。希望の玩具が手に入るかどうかは、運次第である。その当たり外れの賭博性も、その玩具販売様式の人気の理由だろう。

 

最近、その運次第という意味で、何にでもガチャを語尾としてつけて使うことが流行っている。その切っ掛けになり、世の親御さんにショッキングだったのが、子どもたちの間で流行った「親ガチャ」という言葉である。それは、どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまうという意味でネットなどで使用されている。

NHKニュースの記事より

 

 

1)日本の労働運動家今野晴貴氏の「親ガチャ」分析について
 

雇用・労働政策研究者の今野晴貴氏の執筆によるヤフーニュースによると、この言葉が話題となったのは、地上波の情報番組「スッキリ」(日本テレビ系)の916日での放送がきっかけのようだ。https://news.yahoo.co.jp/byline/konnoharuki/20210925-00259912

 

以下、今野氏の発言をまとめてみる。

 

その後この流行について、「親ガチャという言葉で自分の境遇を親のせいにするのはよくない」といった自己責任論的議論や、「経済的格差や虐待などの問題が背景にある」という社会的背景に言及する議論などが聞かれるようだが、「この問題は単純に“不謹慎”や”冗談”では片づけることはできない。若者たちの人生が、親の存在におおきく左右してされてしまうということが、以前にもましてリアリティーをもっているからだ」と今野氏は語る。
 

また、「“親ガチャ”の流行に対するもっとも一般的な反応は、“すべてを親のせいにして努力しない若者の戯言だ”という意見だが、こうした見方には、努力すればなんとかなる、だから努力することを諦めるな、というメッセージが込められている。しかし、本当に努力すればなんとかなるのだろうか? 」、更に、「若者は、親のもとで無理なほどの努力を強いられている。そして、その努力ではどうにもならない現実に直面し、人生の可能性を大きく制限されている。親ガチャという言葉には、こうした若者の実感が反映させられている」と語る。

 

今野氏の以上の見方は、はっきり言って日本人特有の甘えを良しとする病的な見方である。その根拠について以下書く。


 

2)「親ガチャ」の人生をどう受け入れるべきか

 

子供の人生の出発点は、親に大きく依存する。それは当たり前である。親が裕福なら子供もその恩恵を受けて、裕福な青少年時代を送るだろう。その逆に、親が貧乏なら、子供の青少年時代は暗く惨めに見えるだろう。客観的な観測結果として、それらは事実である。

 

この客観的な事実を、その玩具に例えるのなら、「親ガチャ」は真実である。従って、「現在の自分の境遇を親の所為にするのは良くない。若者の戯言だ。」というだけでは、反論に今ひとつ説得力がない。「親ガチャ」という言葉に毒された人に馬鹿にされ、反論されるだけだろう。
 

青少年時代には、親元を離れて独り立ちする「人生の節目」をむかえる。その時の自分の位置は、両親の努力の結果でもある。その自分の位置と自分の能力は、自分という生命体の全てである。それを貶すというのが「親ガチャ」という言葉である。

 

人生を航空に擬えると、そこから"自分機の操縦桿”を自分自身が握ることになる。人生は一度きりであり、自分機が墜落したら死があるのみである。それが生命としての厳粛な真理である。「親ガチャ」などと、その現在の自分の位置を呪う人は、その真理が分かっていない。

 

自分の人生は自分が切り開くのだと云う覚悟を持って生きることは、楽なことではない。しかしそれが生命としての人間の宿命である。そんなことを考えないでも誰かが最低限生きていけるようにして呉れるだろうという甘えが言葉になったのが「親ガチャ」である。この甘えの構造は、残念ながら日本人に特有の心理である。(補足2)

 

繰り返すが、"親ガチャ”は、「この情況では巣立ちしたくない」という甘えの表現であり、駄々をこねる幼児の姿そのものである。つまり、独り立ちの時期にあって、或いはその時期を過ぎて、尚“親ガチャ”などと安易に発言する行為は、自虐行為である。被害者意識という麻薬に手を出して自分と自分の恩人を貶し、その“恍惚状態”の中で死を待つのなら、それも良いだろう。(補足3)

 

 

補足:

 

1)このガチャだが、「ソーシャルゲームにありがちなキャラクター入手方法(いわゆるガチャ)になぞらえた言い方」という解説もあった。多分、オリジナルは本文のカプセル玩具販売機で小型玩具を買うことのプロセスだろう。

 

2)被害者意識という言葉は日本独特のようである。土居健郎著「甘えの構造」で日本人独特の言葉であると解説されている。つまり、親ガチャの流行は日本人の甘えの構造による病的一症状だろう。

 

3)今野氏の文章に出てくるように、努力しても新自由主義グローバリズムの経済で創られた貧富の差は超えられないのは事実だろう。それに不満があるのなら、もっと政治的に行動すべきである。昨年来の香港の若者の戦いを見ていないのか。それを報道しないマスコミが悪いのなら、現在のマスコミを潰すべく行動すれば良い。戦わずして死をまつのは愚かである。

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