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2022年12月30日金曜日

天皇制を利用しようとする右系保守の危険性

馬渕睦夫さんの天皇制に関する議論は、恐らく保守系右派に共通だろう。馬渕氏は、「天皇は日本国民をまとめる存在であり、統治すると言っても西欧の国王のような存在ではない。その原点に、ニニギノミコトが日本(豊葦原瑞穂の国)に降臨された時にアマテラスに授けられた神勅がある」と仰る。https://www.youtube.com/watch?v=76isINej6L8 (画面アップ出来ず)

 

アマテラスは、天壌無窮の神勅など三つの神勅を授けた(補足1)。その中の「就でまして知らせ」という言葉は、「日本に行って治めなさい」と言う意味である。この“やまと言葉”のシラスは、統治するというより、国の民をまとめるという意味である。

https://note.com/onoteru/n/nff122e981bd3

 

馬渕睦夫氏は国学(或いは水戸学というべきか)を高く評価する保守右派であることを自認されているのだろう。国学(ウィキペディア参照)が儒学や蘭学に対抗する為に発展したと言われるように、上記神勅が一般に議論されるようになったのは、明治以降、西欧の政治思想(共和制や共産主義)に対抗する為だったことをもっと重視すべきだと思う。

 

昭和の軍部の暴走やそれに平行する皇国史観において、この神勅が果たした役割を考えると、天皇制についての上記のような理解が広まれば、再びその惨禍を繰り返すことになるように思えてならない。

 

私は、江戸時代までの天皇制は、明治維新の際に消えたと考えて居る。つまり、「君臨すれども統治せず」という伝統的な天皇制は、「明治憲法第1条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」で明確に変更されたと思う。

 

薩長のクーデター政権が自分達の正統性を主張するために利用したのが天皇という存在である。錦の御旗の偽造が象徴するように、薩長ではなく徳川慶喜を評価する孝明天皇が死没した後、彼らは日本を乗っ取ったのだ。(補足2)

 

戦後、憲法において天皇を日本国の象徴とすることで、天皇の役割を変更した。GHQの指示ではあったが、今ではその天皇制は定着している。それにも拘らず、延々と2600年“天皇のシラス国”が続いていると考えるのは欺瞞である。

 

日本の政治の現状が問題だとしても、天皇制を利用して国民に国家への意識を強めようとするのは邪道だと思う。今の政治家の体たらくは、政治家に責任をとらせるべきである。

 

 

2)天皇制と国家有機体説

 

昨日、浜崎洋介氏と茂木誠氏の話合い(議論ではない)を聴いた。この話合いでは、西欧の個人主義と社会契約説の批判に始まり、国家有機体説を持ち上げている。そこでも天皇は日本国をシラス存在だという伊藤博文の言葉の高評価に至っている。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=B0BCbH8wcSM

 

国家有機体説は、国家の様々な役割を分業的に受け持つ形で諸機関が形成され、国民はそれらと結合した形でしか存在し得ないと言う考えかたである。つまり、国家においてそれら諸機関と国民は不可分であり、独立した個人を前提に国家を考える社会契約説的な理解は誤りだというのである。

 

この社会契約説批判(動画の9分あたり)はおかしい。何故なら、社会契約説は歴史的なもので、現在社会のモデルではないからである。つまり絶対王制に対する“アンチテーゼ”としての役割を果たすことが社会契約説の歴史的役割だったと思うのである。

 

つまり、社会契約説を「変だ可笑しい」と批判するのは、弥生式土器をそんなもの使い物にならないと言って批判するようなものだろう。(補足3)

 

この後、彼らの話し合いは、社会契約説のルソーの背景にあったと思われるデカルトの思想批判に続く。デカルトの理性を信じる姿勢が社会を理解運営する方法となって、人類に幾多の悲劇をもたらしたと浜崎氏は仰る。これが変なのは、理性だけが世界の理解を受け持つのではないことを考えればわかる。

 

理性は自分が自分の外の世界を理解する為にあり、言葉が用いられる。一方、感性は自分と外界との接触で生じる感覚で、伴に世界を知る為の道具である。我々は、その二つの道具で世界を分析理解して生きているのである。デカルトもその片方だけで、自分を含めた世界(つまり国家)を理解しようとした訳ではない筈である。

 

国家を単に国民とその繋がりを要素とした有機体として考えるのも、当然一つのモデルであるが、それだけで国家のあるべき姿と考えるのは間違いである。もしそうなら、我々は国家が消滅するまで戦わなくてはならない。それまでに、個人の私権を制限され、兵役等でどれだけが死亡することだろうか。(追補)

 

その危険性を感じるのが、国家有機体説と天皇をシラス存在として考えるモデルを結合させて、近い将来の日本のあるべき姿と考える右翼の政治姿勢である。

 

今回はこれで終わる。次回は出来ればグローバリゼーションについて考えてみたい。

 

追補)最も大切なのは自分の命と暮らしであり、そして全ての国民の命と暮らしである。それが今後成立しそうにないなら、国民は革命を目指すべきである。そして、国家は再生しうる。しかし、有機体は全体としては再生しない。それが明確に国家有機体説の限界を示している。革命の時を説明できるのは、社会契約説の方である。

 

補足:

 

1)葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王(きみ)たるべき地なり。 爾皇孫(いましすめみま)、就でまして治(しら)せ。 行矣(さきくませ)。 寶祚の隆(さか)えまさむこと、當に天壌(あめつち)と窮り無けむ(きわまりなけむ)。

 

2)孝明天皇は暗殺されたという説がある。これについては、「孝明天皇を祀る官営神社がなかったのは何故なのか?:孝明天皇暗殺説と明治天皇すり替え説」に書いた。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516110.html

 

3)二年半ほど前に私も本質的に同じ考え方を書いたことがあった。それらは「国と国家のあり方について考える:(1&2)国の動物モデルの詳細」である。

https://amehttps://ameblo.jp/polymorph86/entry-12588475327.html

blo.jp/polymorph86/entry-12588961158.html

 

(翌日早朝編集、追補追加して最終稿とする)

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