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2026年1月16日金曜日

意識・自己・意志 ――二つの世界に生きる人間

(本稿は、OpenAI ChatGPT の協力により作成されたものです)


はじめに

意識とは何か、自己とは何か、意志とは何か。これらの問いは古くから繰り返されてきたが、多くの場合、神秘主義と極端な唯物論のあいだを揺れ動く形で語られてきたように思われる。

 

本稿では、意識や意志を独立した実体として仮定することも、単なる幻想として切り捨てることも避け、構造として捉え直すことを試みる。そのために、人の知覚する世界とその世界での思考や行動を「経験世界(知覚の世界)」と「意識の世界」という二つの側面から整理する。

 

ここで扱うのは、世界そのものの存在論ではない。問題にするのは、人間の意識に世界がどのように現れ、どのような構造を持っているかである。

 

1. 経験世界と意識世界――自己の二重構造

私たちが知覚している世界は、外界そのものではなく、感覚器官から得られた情報をもとに脳が統合して構成した経験としての世界である。本章では、この世界を「経験世界」あるいは「知覚の世界」と呼び、同義として用いる。

 

この経験世界は、単なる感覚の集積ではない。視覚、聴覚、身体感覚、記憶、感情などが統合され、一定の空間と時間を持つ世界として立ち現れている。私たちはこの経験世界の中で、物を見、他者と関わり、行為している。

 

この経験世界の中には、自己も含まれている。自分の身体、その位置や動き、感覚、さらには行為主体としての自己は、いずれも経験世界の一部として現れている。ここでの自己は、経験世界の中に存在する。

 

しかし、この経験世界を成立させている主体としての自己、すなわち意識は、同じ仕方では経験世界の中に現れない。意識を、経験世界の像の中の一つの対象として捉えようとすると、それを見る主体をさらに仮定せざるを得ず、自己の分裂や無限後退を招く。

 

したがって、意識は経験世界の内部に存在するものではない。意識は、経験世界を成立させる特異点として、ちょうど視覚における盲点のように存在している。それは対象としては現れないが、世界が連続した経験として知覚されるために不可欠な位置を占めている。

 

ここで、自己は二つの側面を持つことになる。一つは、身体や行為主体として、経験世界の中に含まれる自己である。もう一つは、その経験世界を成立させている主体としての自己、すなわち意識である。

 

この二つは分離して存在するのではない。私たちが「自分」と呼んでいるものは、経験世界の中にある自己と、世界を成立させる意識とが統合された状態にほかならない。

 

さらに視点を変えると、人間は二つの世界に同時に生きていると捉えることができる。経験世界では、自己は世界の中の一つの存在として現れる。一方、意識の世界では、自己は世界そのものであり、外界としての世界は、意味づけの対象として無限遠に遠ざかる。

 

行為の結果は経験世界に現れ、意味や価値、方向性は意識の世界で形成される。この二重構造こそが、人間の自己の基本的なあり方である。

 

2. 意志とは何か――意識の世界の構造とエネルギー

前章で述べたように、意識の世界は静的な内面ではなく、意味と価値の配置によって張力を持つ世界である。

 

本稿では、意志とは、意識の世界を構成する構造とエネルギーに対する呼称であると考える。ここでいう構造とエネルギーは、物理学で議論する経験世界における構造やエネルギーとは異なるものである。

 

意志は、経験世界の中に対象として存在するものではない。また、行為を引き起こす神秘的な原因でもない。それは、意識の世界において、価値や意味が一定の配置と張力を持った状態を指す言葉である。

 

この構造とエネルギーが、経験世界における行為として現れるとき、私たちはそれを「行動」と呼ぶ。行動の持続や修正もまた、意識の世界における構造とエネルギーの変化として理解できる。

 

自由とは、因果関係からの離脱ではない。自由とは、意識の世界の構造とエネルギーの配置が固定されておらず、再編成可能であることを意味している。

 

3. 価値とは何か――意志を形づくる三層構造

意志の内容を具体的に理解するためには、その構造を形づくる価値について検討する必要がある。

ここでいう価値とは、外界に客観的に存在する対象ではない。価値とは、意識の世界において、意味や重要性に差異を与え、行動の方向性を生み出す評価の構造である。

 

人間の意識の中で機能している価値は、少なくとも三つの層に分けて考えることができる。

 

第一は、生命的価値である。生存、身体の恒常性、快・不快、欲求や衝動といった、生物としての基盤に関わる価値である。

 

第二は、社会的価値である。規範、役割、評価、信用など、他者との関係の中で形成される価値がここに属する。

 

第三は、文明的・宗教的価値である。倫理、宗教、歴史観、国家や文明の物語など、個体の寿命を超えた時間的広がりを持つ価値である。

 

意識の世界において、これら三層の価値は同時に存在し、状況に応じて異なる重みを与えられる。この重み付けの構造が、意志の具体的な内容を形づくっている。

 

4. 悪と責任――価値構造の歪みと社会的要請

この枠組みから見れば、悪とは特別な実体ではない。悪とは、価値の重み付け構造が極端に偏った状態である。

 

第一の悪は、社会的悪である。社会的価値や文明的価値の重みが極端に軽くなり、生命的価値が過度に優先されることで生じる。

 

第二の悪は、文明的・宗教的悪である。文明的あるいは宗教的価値が、歪んだ形で内部化されたり、絶対化されたりすることで生じる。

 

責任は、意識や意志の内部に自然に存在するものではない。責任とは、社会が行為者に対して外部から課す社会的・制度的要請であり、将来の意志形成に影響を与える調整装置である。

 

結び

本稿では、人間の意識、自己、意志を、実体や神秘としてではなく、構造として捉え直してきた。

 

人間は、経験世界と意識の世界という二つの世界に同時に生きている。経験世界では、身体や行為主体としての自己が世界の中に現れ、行為の結果が知覚される。一方、意識の世界では、意味や価値、方向性が形成され、自己は世界そのものとして立ち現れる。

 

人間とは、再編成可能な意識の世界を、そこでの意志が行為となるように、経験世界と特異点において結び付けて生きる存在である。死とは、その特異点を失うことであるが、人と人は経験世界でのみ関係を持ち得るので我々は死の詳細は知らない。

 

(2026年1月16日;1月17日早朝編集あり)

 

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