――無能な政治家と、その尻ぬぐいを引き受ける評論と司法――
はじめに
衆院選公示前日のテレビ朝日「報道ステーション」において、各党代表が出演し、選挙に臨む姿勢を公表した。その中で高市首相は、北朝鮮を「核保有国」と表現した。この発言は直ちに、高市氏の「無知をさらけ出す見解」として攻撃の対象となった。
同日に収録・配信されたYouTubeチャンネル「デモクラシータイムズ」では、高瀬毅氏と政治評論家の半田滋氏がこの問題を取り上げ、高市首相の一連の安全保障発言の危うさとして問題視した(以下、当該番組)。
https://www.youtube.com/watch?v=lkVAwRvH45g
半田氏は、「日本はNPT加盟国であり、北朝鮮を核保有国と認めたことは一度もない。従って首相の発言は正しくない」と断じ、官房副長官が翌日に行った「完全否定」会見をもって、その誤りは是正されたと説明した。
しかし、北朝鮮が核保有国であることは国際的にも常識であり、高市首相の発言を間違いであるとする政治の方が異常なのである。https://forbesjapan.com/articles/detail/60930/page2
評論家が議論すべきは、この政治の異常そのものである。このような真実の隠蔽を、政治家の専門家芸として評価することは誤りである。マスコミや評論家は、日本国民の安全と福祉の実現を原点に置き、政治家と国民の間のメッセンジャーになるべきである。
1.評論家は「分析者」ではなく「後処理係」なのか
当該番組における半田氏の議論は、一貫して次の方向を向いている。
① 北朝鮮は事実上核を持っているだろう
② しかし日本政府はそれを認めてはならない
③ なぜならNPT(核兵器不拡散条約)の枠組みが崩れるからだ
一部には、これを冷静で理性的な議論だと受け取る人もいるだろう。確かに、ねじれた政治空間に生きる政治家として、高市氏が専門用語を用いなかったことは問題かもしれない。しかし高市氏の発言は、国民に向けて現実を述べただけである。
評論家が行っているのは、首相の現実認識を国民の安全保障という観点から検証することではなく、核保有大国の利益のために構築された国際条約(NPT)を擁護する立場からの攻撃である。
政治家が現実を誤認する
→ 評論家が「言い方の問題」に変換する
→ 官僚が「政府見解に変わりはない」と収拾する
日本ではこの図式が繰り返される。実際の時系列はともかく、評論家が国民の側に立っていないことは明白である。この循環の中で、誰一人として「では日本の安全はどうなるのか」を正面から問わない。評論家は権力を批判しているようで、実際には政治の失敗を制度論で覆い隠す尻ぬぐい役を果たしているにすぎない。
北朝鮮が核ミサイルを保有していることは国際社会の常識である。中国とロシアは言うまでもなく核大国であり、核威嚇を現実の外交カードとして用いている。この状況下で、「北朝鮮を核保有国と呼んではいけない」という言語的禁欲が、日本国民の安全を高めるのか?
NPTは理念として尊重されるべきだとしても、すでにNPTが安全保障の現実を統制できていないことは明らかである。それにもかかわらず、現実を語ること自体を「不適切」とし、条約違反か否かという形式論に議論を押し込める態度は、安全保障ではなく、思考停止を守っているだけである。
2.安全保障の危機は政治空間でのごまかしの成果である
本来、安全保障をまともに語れない政治家は、民主主義社会では淘汰される。現実を直視できない、国民に説明できない、責任を取らない――そのような人物が政権中枢に居座れるのは、評論家・学者・司法が一体となって、その場しのぎの尻ぬぐいをしているからにほかならない。
その政治家の欺瞞と無策、そして尻ぬぐいの積み重ねが、現在の安全保障危機を招いているのである。典型的な例を挙げる: 自衛隊は明確に軍事的実力組織である。しかし政治家はそれを認めたがらず、認めなくても済む。そのご都合主義は、国民の多くが「戦争の惨禍」と「軍隊」を同一視し、忌避してきたからである。
このようにして自衛隊が現実に存在し続けているのは、最高裁が自衛隊は、軍隊を持たないと定めた憲法9条に違反するという判断を回避してきたからである。それは統治行為論と呼ばれ、司法の限界として認識されてきた。そして評論家や学者は、それを高度な判断として容認してきた。これこそが、倒錯した日本政治の現実である。
日本国民が周辺核保有国の脅威におびえる現状は、日本国憲法と政治家のごまかしを、専門技術として正当化してきた最高裁・評論家・学者の尻ぬぐいの結果である。
同様の構造は、佐藤栄作の非核三原則とその継承にも見られる。それが温存されてきたのは、「米軍が核兵器をわざわざ取り外して沖縄に寄港するのか」という問いをタブー化してきた、マスコミ・学者・評論家の努力の成果である。
因みに、ニクソン政権期に首相であった佐藤栄作が、核武装を決断し、国民に対して「日本は自らを守る国家になる」と説明していたなら、日本は核保有国として米国の対中国封じ込め戦略に主体的に参加する国家になっていた可能性がある。この歴史の真実も、マスコミ・学者・評論家の世界では今なおタブーである。
片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)
3.なぜ正常な道が選ばれなかったのか
何故、政治家の無策と誤りを、マスコミ・評論家・学者、そして司法が尻ぬぐいしてきたのか?そしてこの構造は、放置され今後も続くのだろうか。
日本の政治家は、日本国民のためには働いているように見えて、実は他の大きな力の支配下にある。マスコミと評論家もその政治秩序の中だけに存在し得るのである。それ故「政治の根本矛盾を指摘しない」ことこそが、日本の政治評論家の活動条件だからである。
つまり、国民と政治の間に厚い壁が存在し、政治が国民のために存在していないことを明確に示している。市民革命では、国民が暴力を含む力で、政治を国民の支配下に置いたのである。その経験を経た国々、つまり近代国家では、政治は国民が支え、国民のために存在するのである。
米国は南北戦争を市民革命として経験し、民主国家となった。現状は理想から乖離しているとはいえ、米国はなおそれを回復する知性とエネルギーを持つ国家である。一方、残念ながら現状の日本は近代国家ではない。さらに言えば、過去に近代国家であったという歴史的記憶すら持たない国である。
ただし、近代国家となる可能性が完全に失われたわけではない。現在の苦境を把握し乗り越えたなら、その先に近代国家を得る可能性があると思う。
おわりに
日本の問題は、政治家が無能であることだけではない。無能であり続けることを許してきた、評論・学問・司法を含む言論空間そのものにある。安全を語らないことで安全を装う時代は、すでに終わっている。
それを直視できない者に、政治を語る資格はない。
補足
1: 真面な議論も全く無いわけではない。三浦瑠麗氏の以下の文章を今朝みつけたので、補足とします。
2.ただ、chatGPTの調査によると、韓国も日本同様公式文書では「持っている」と断言していない。したがって、補足1の記事の中での「北朝鮮を核保有国と呼ばないのは日本だけのガラパゴス」という三浦氏の主張は、公式表現の事実としては正確ではないようだ。ただ、核の現実を前提に議論を回しているかどうかという点では、日本の言論空間の萎縮は際立っている。
(本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)

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