――トランプとイーロン・マスクに見る国家管理の転換点――
(本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)
はじめに
現代の世界秩序は、民主主義や自由主義を標榜しながら、実態としては専門家、官僚、国際機関、巨大資本によるエリート支配の官僚制国家へと収斂してきた。その過程で、国家はあたかも意思をもつ主体であるかのように語られ、人間一人ひとりの生や責任は、制度や理念の背後に押し込められてきた。
こうした構造に対して、しばしば同列に語られる二人の人物――ドナルド・トランプとイーロン・マスク――は、まったく異なる立場から、しかし共通して、この官僚制国家のあり方に異議を唱えている。本稿では両者を単なる政治家や実業家としてではなく、国家と文明の構造を直感的に捉え直そうとしている存在として位置づけ、その共通点と相違点を整理する。
1.国家は主体なのか、それとも道具なのか
近代以降、国家はしばしば人格をもつ主体として扱われてきた。国家の名において戦争が行われ、制裁が課され、国民の犠牲が正当化される。しかし冷静に考えれば、国家とは本来、人間の生存と共同体の維持のために作られた道具であり、それ自体が倫理的主体であるはずがない。
トランプの政治行動には、この感覚が強く表れている。彼は理念や国際秩序よりも、今そこで無駄に失われる人命を減らすことを優先する傾向がある。長期占領や抽象的正義の名の下での介入に消極的である点は、国家を神聖視していないことの裏返しでもある。
しばしば「MAGA(Make America Great Again)」は国家主義的スローガンとして解釈される。しかしそれは、リベラリズム的価値を掲げるエリート支配構造を破壊するための短期的・戦術的表現である可能性も高い。本稿では、トランプを一貫した国家主義者として評価する立場はあえて取らず、官僚制国家への破壊的作用という機能に限定して論じる。
国家は守るべき神話ではなく、人間を生かすための装置である。この認識は、トランプにおいては理論ではなく感覚として現れている。
2.文明を主体と考えるということ
一方、イーロン・マスクは国家を否定してはいないが、国家を人類文明を構成する一つの制度的単位として相対化している。彼の語る「文明」や「人類存続」とは、個々の国家を超えた、人間とその歴史の連続体である。
文明を主体と考えるということは、抽象的な集合概念を持ち出すことではない。それは、世代を超えて受け継がれてきた人間の試行錯誤と、その蓄積としての歴史を主体として捉えるという意味である。国家はその過程で用いられてきた道具の一つに過ぎず、絶対的な存在ではない。
この点で、トランプとマスクは異なる言葉を用いながらも、国家を最終目的として扱わないという立場を共有している。
3.短い視界と長い視界――方向の一致
トランプとマスクの最大の違いは、視界の長さにある。トランプの視界は数年から十年程度であり、崩れつつある秩序を当座で是正することに向いている。一方、マスクの視界は数十年から数百年に及び、人類文明の存続確率そのものを問題にする。
しかし重要なのは、短期的な方向性において両者はかなり一致しているという点である。
理念先行のリベラリズム、専門家と官僚による自己目的化した支配、正しさを自認する人々の思い上がり――これらに対する拒否感は共通している。壊している対象が同じである以上、両者が同じ方向を向いているように見えるのは自然なことである。
4.国家管理の主体をどこに置くのか
国家が道具であるなら、その管理主体は本来、構成員全体であるべきだ。しかし近代国家では、情報処理と管理コストの制約から、それは技術的に不可能だった。その結果、代表制と官僚制が必然として生まれた。だが現在、私たちはすでにネット社会の中に生きている。この環境を利用すれば、全員参加型の情報共有、分散的な検証、履歴の保存といった仕組みは、少なくとも技術的条件としては整いつつある。
このような、ネットを基盤とした国家管理の構想は、決して前例のない空想ではない。現代の消費文明は、次々に現れる製品を、市場――すなわち多くの人々の評価――によって育ててきた。製品は使われ、評価され、生き残り、淘汰される。その累積が標準を形作ってきた。
ここで、消費財の製造から分配に至るこの仕組みを、政治や政策の分野に応用することを考える。実行された政策もまた、その結果が可視化され、評価され、次に反映されるべき対象となる。誰かが正しいと宣言したからではなく、どのような結果をもたらしたかによって評価される。これらの履歴は、改竄が困難で、関係者に共有される形で記録される。
重要なのは、市場経済を基盤とする自由主義経済圏が、リベラリズム的な国家運営を採用した共産圏のエリート支配国家に対して、消費文明という分野において決定的な優位を確立してきたという歴史的事実である。生活の質、技術革新、選択の多様性において、その差は明らかである。この現実を、国家運営の分野においても直視すべきであろう。
このような国家管理モデルに参加する一般市民の能力差は、生得的属性ではなく、過去の実績と寄与によって測られる。無関心は許されるが、その場合は寄与ゼロとして平均的な国家サービスを受け取るにとどまる。これは排除や制裁ではなく、参加の自由と責任を対応させた結果に過ぎない。参加は自由だが、影響力は責任と寄与に比例する。政策の具体的な実行については、縮小された官僚機構がこれを担うと考えればよい。
以上の構想は、人間に代わって判断する「AIによる統治」を意味するものではない。AIは、評価の集計や履歴管理を補助する道具として用いられるにすぎず、最終的な主体はあくまで人間である。本章で述べたのは、AIを補助的に用いた政府運営モデルの一つの可能性に関する提案である。
5.国際関係における暫定的な位置づけ
現在の国際関係においては、近代的な国家主体論が依然として支配的である。しかしそれは、国内政治の現状においても同様であり、国際関係だけが特別に遅れているわけではない。いずれも方向性が定まれば、時間が解決していく問題である。
本稿で提示してきた国家管理モデルは、国内政治において構成員全体の評価と履歴管理を中核に据えるものであったが、国際関係においても、同一原理を直ちに否定する理由はない。
具体的には、国内政治のための帳簿とは別に、国際関係に関わる政治的行為を記録・評価するための、もう一つの帳簿を用意するという発想が考えられる。制裁、通商、軍事行動、環境政策など、複数国家に影響を及ぼす判断について、その結果と影響を国境を越えて蓄積するための帳簿である。
もっとも、このような仕組みが一挙に導入されることは現実的ではない。国内政治においてさえ、ネット社会を前提とした管理構造の導入には国ごとの時間差が存在する。したがって、国際関係においても、各国の事情を踏まえた経過措置を現実的に組み上げていく必要がある。
本稿では、国際政治を直ちに再設計しようとするものではない。ただし、国家を主体ではなく道具として捉え、評価と履歴によって政治を管理するという方向性が、国内にとどまらず国際関係にも連続的に適用され得ることは、ここで確認しておきたい。
おわりに
トランプは、エリート支配の官僚制国家という虚構を破壊する役割を担っている。マスクは、文明を支える技術基盤を更新し、人類存続という時間軸を突きつけている。両者は同じ世界を夢想しているわけではないが、同じ構造的限界を直感している。
国家を主体ではなく道具として捉え直すこと。理念ではなく、人間の生と責任を基準に世界を再構成すること。そこに、この二人が同時代に現れた意味がある。
この先の制度設計は、人類がもう少し先に進んでから、より能率的に考えることができるだろう。本稿は、その入口に立ったに過ぎない。
(2026/1/25)
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