2016年1月31日日曜日

人はどこまで残酷になり得るのか?:五木寛之さんの対談番組を視聴しての感想

1)1月30日のNHK教育テレビで五木寛之さんの対談番組があった。そこで、戦争直後平壌から引き上げるときの一家の様子を話しておられた。それはご本人の口から話すことができるまでに、長い期間を要すると思われる残酷な光景だった。その後間も無く亡くなられたお母さんを除いて、一家は日本に引き上げて来た。

「悪人ほど日本にたどり着き生き残ることが出来たのだ」という五木さんの言葉は知っていた。しかしその詳細は知らなかった。ソ連兵が家に踏み込んできたときのことを、その番組で初めて聞いた。彼らの姿は、ほとんど野獣のそれであり人間のものではない。

韓国側の米軍難民キャンプにたどり着くまでの詳細は、読売新聞のサイトに五木さんからの聞き取りを纏めた形で掲載されている。 http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150804-OYT8T50215.html しかし、そこには病床の母親がソ連兵に踏むつけられた時に血を吐き、気味悪く思ったソ連兵が布団ごと外に投げつけたことは、書かれていない。(追補1)

収容所に入れられ悲惨な生活を送る中、長男の五木さんはソ連軍の宿舎で仕事をもらい、食料を少しもらうことで生き延びた。ソ連兵との共存という悲惨な環境は、収容所に入れられた日本人も非情に変えた(補足1)。

一家(父親、長男である五木さん、を含め4人)は、一年ほどして38度線を越えることが出来、米軍の難民キャンプにたどり着いたのは1946年の秋である。その間の出来事を一言で集約すれば、まさに「悪人ほど生き残る」であった。

2)今回の主題は、「人はどこまで残酷になり得るか」である。「悪人ほど生き残る」という五木さんの言葉を突き詰めると、私は、「人間は全て野獣と同じ状態になり得る」と思う。一定の豊かさごとに、善という衣を“野性の心”に着けていくが、その生命を保障する豊かさがなくなると、元の野性に戻るのだと思う。ただ、不器用な人や決断力の鈍い人は、その生命の保障が無くなったことに気付くのが遅れ、その衣を脱ぎ捨てる前に、一歩先んじた人間に滅ぼされるのだと思う。

豊かになり生命の危険がなくなると、一枚一枚その善の衣を着る。しかし、その衣の中には依然として野獣としてのヒトが存在するのである。ヒトが人間と呼ばれ、人と人の間に温かい空間を作るのは、野獣一般とは異なる人の(本質ではなく)習性に過ぎない。

その善の衣を着た姿を見て、自分の姿だと信じるのは、善と悪を知る為にそう信じたいからだろう。アダムが”善悪を知る木の実”(普通、知恵の木の実というが、それは正しくない)を食べて、自分の裸の姿を恥じたのは、まさにこのことを言っているのだと思う。

歴史上にはいくらでも野獣と化した人の姿がある。過去の戦争の際、阿鼻叫喚の地獄と化したところは、数え切れないだろう。人はそれから目を逸らすのは、自分の裸の姿から目を逸らすことである。つまり、アダムの子孫だということである。自分はそのような悪人ではないし、悪はなさないと主張する人は、単に無知か厚顔なだけである。

補足:
1)その光景は、最近読んだ「大地の子」の中のある光景と全く同じであった。「大地の子」の主人公の在留日本孤児と養父母とが、国民党支配の長春が包囲された際、解放軍支配のチャーツ(関門)が開くのを待つまでの光景である。共産党軍はチャーツをなかなか開こうとせず、中立地帯は地獄の様相を示す。長春では結局15万人が餓死するのである。

追補:
1)この時のことは、「運命の足跡」(幻冬社、2003;15-24頁)に書かれていました。

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