1)久しぶりに科学と宗教について考える。バートランド・ラッセルの本に“宗教と科学”というのがある。その冒頭には、「宗教と科学は社会生活における二つの側面である(補足1)」と書かれている。そして、「宗教と科学との間には、長い闘争が続けられ、数年前(補足2)までいつも科学が勝利してきた」そして、「純粋に個人的な宗教は科学が最も進歩した時代も静かに生き続けるだろう」と続く。
この考え方によると、科学が発展していない土地或いは民族には、宗教は大きな存在ということになる。また、科学が発展しても尚、宗教は個人の心のなかだけでなく、社会生活の中にも静かに生き残るということになる。ただ、私はこの最後の部分に疑問を持つ。個人の心の中には生き残るだろうが、社会生活の中には最終的には生き残らないと思うからである。
日本の宗教を見ると、現在仏教も葬式仏教に成り果て、それも宗教というよりも慣習でしか無いと思う。アニミズム的な宗教である神道は生きているが、それも個人の心の中だけであり、社会生活においては村社会の崩壊と同時に消えたと思う。 つまり:「古代には、宗教は自然現象から社会、そして個人の心の中まで広く存在したが、科学が最も発展した時代には個人の心の中にだけ生き残る」と思う。
2)ここで、原点に戻って“科学とは何か?”から考える。
Wikipediaを見ると、広義:体系化された知識や経験の総称;狭義:科学的方法に基づく学術的な知識;最狭義:自然科学と三通りの定義が書かれている。自然科学の定義は、“明確に定義された対象(系という)における繰り返し可能な現象を対象とし、それらを記述し整理する学問である”となるだろうが、それでは社会科学という学問領域の大部分は科学ではなくなる。社会科学なども含める意味で、論理的手法で体系化された知識や経験の総称と定義すれば良いと思う。論理的手法とは、因果律を基礎に統計や確率などの数学的諸概念を適用することである。
一方、宗教とは何か?
宗教とは「神聖なる力を信じて生きることの教え」ということになると思う。ここで宗教のキーワードは、“神聖”と“信じる”である(補足3)。科学において知識の体系化を行うのは人間であるから、キーワードは“経験”と“疑問を持つ”に入れ替わる。つまり、バートランド・ラッセルの言葉を真似れば、“体系化された人類の知識の中で、宗教的でない部分を科学と呼ぶ”ということになるだろう。
宗教には、上述の“知の体系には入ら無いアニミズム的なもの”があり、実はそれが最後まで人の心の中に残る宗教だと思う。それは、知の体系としての宗教は、所詮人間が作ったものだからである。或いは、知の体系としての宗教が最後まで残ったのなら、本当に神の啓示により人に伝達された真理なのだろう。
3)以下話を分かり易くするため、自然科学を科学と呼ぶ。真理と科学とは異なることを、科学を専門とした人以外はあまり理解していないかもしれない。科学は再現可能な経験を、新しい概念とモデル(図式)を用いて(補足新1)、整理体系化したものである。新しい経験が加わるとそれに応じて科学体系は変化し、古い体系は修正されるか新しい科学体系に包含される。一方、真理は変化しない。しかし、“真理はなにか”は人間には分からない。
つまり、「りんごが木から落ちる」から力学の体系が作られた。そして、“りんごが木から消える”ことは無いと予測はできるが、科学はそれを否定できない。何者かが別世界から奪い取って食べるかもしれないという考えを科学は差し当たり拒否できても、否定はできないのである。つまり科学の歴史は、経験の集積と整理であり、真理発見の歴史ではないのである。(補足4)
人は“真理”を求める心があるため、宗教は個人の心の中に残る。科学は再現可能な経験以外には無力であるから、“絶対的真理”(補足5)を求めるのなら宗教に頼るしかない。特筆すべきは、人の最後のもっとも重要な経験である「死」は個人にとって再現不可能であるから(補足6)、「死と死後」について科学は無力であることである。このもっとも需要な「死と死後」について、何も語れない科学が、真理の体系である筈がない。
4)近代化とは、混沌とした様々な領域の現象が経験と論理により体系化されて、宗教の支配から解放されたプロセスとも言える。心の中に倫理学や心理学が入り込み、自分の思考すら科学として整理され体系化される時代となった。その結果、僅かに私的感覚の部分にのみ神の支配が残ることになる。
一人の人間の経験は少ないが、他者の経験が蓄積整理されて本となり、疑似体験を含めると昔に比べて遥かに多くの経験が可能になり、それも整理された形で提供・共有される。厳しい人生のなかで神を探すこともあるが、その多くは医者やカウンセラーを探すことにとって代わられた。それらの経験は、いまや現世には神がいないことを確認する機会にしかならない(補足7)。そこで、個人の心の中からも神的なものがほとんどなくなった人も多いだろうし、それを死と死後の世界にまで延長する人も多いだろう。
死後の世界にまで現世の科学的知識を延長することは、科学的知識を真理とすることにひとしい。しかし、それは科学の買いかぶりだろう。何故なら、科学は「意識」の由来について歯が立たないからである。人間は精巧にできた化学工場であり、情報処理装置であり、運搬装置である。それらは科学の対象となり解明されるだろう。しかし、それらを解明している「自分は何者か」について、答えを得ることは不可能だろう。
==何やら難しい話になりました。筆者が何者かにトラップされていると思われる方は、コメントにその理由をお書きください。==
補足:
1)この本が出版されたのが1935年で、ソ連の誕生が1917年である。数年まえまでとなっているのは、科学的社会主義などの科学を被せた言葉が現れたからである。それを科学とみなせば、それらは宗教に勝ったとはいえないということである。しかし、現代では科学的社会主義(当時の)は科学ではなく宗教だと思う。
2)この部分の原文は、”Religion andscience are two aspects of social life”であるので、誤訳ではない。
3)宗教religionの意味は英語の語源辞書に“state of life bound bymonastic vows”, also “conductindicating a belief in a divine power” と書かれている。“修道士的誓いに束縛された生き方”または“神聖な力を信じての行動”である。
宗教の宗は、元々崇ではないのかと思うが、よく分からない。日本語はいい加減な言葉なので、英語辞書を頼りにする次第。
4)新しい現象の発見というが、元からあった現象について、科学会に属する人間が新しい経験をしたにすぎない。人類にとっての新しい経験でさえないかもしれない。アメリカは昔からあったし、インディアンは知っていた。それでも「コロンブスは新大陸発見した」というようなものである。
5)真理に絶対的も相対的もない。しかし、科学的に確認された現象で、これまで変更されなかったものを“真理”と呼ぶこともある。それを除外する意味で“絶対的真理”とここでは呼ぶ。
6)デカルトの言葉を引用するまでもなく、人にとって存在が確認できるのは自分だけである。他人は観測可能であるが、自分と同様に意識を持つ独立した存在だと断定する根拠はない。猫は、鏡に映った自分の像を自分と認識できない。逆に、他の人たちを独立した意識を持つ人々と思っているが、単に自分の意識がこの世界へ投影したた像かもしれない。
7)神は、現世において何かを依頼する存在ではないだろう。God helps those who help themselvesである。
新1)新しい概念は、現象を説明するために図式とともに作られる。例えば、”力”という物理学の概念は、質量と加速度とともに発明されたが、それは日常の力とは異なり厳密に定義された概念である。日常の力は物理的表現の場でも、エネルギーと混同されている。事故などの報道で、この時の衝撃は何トンの力くらいであるという表現がよく使われるが、質量とも混同されている。2)ここで、原点に戻って“科学とは何か?”から考える。
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