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2016年1月26日火曜日

日本人が近親者の間でも「愛している」となかなか言えない二つの理由

1)表題の理由として、愛ということばは書き言葉であり話し言葉でないと言う人もいるだろう。しかし、書き言葉と話し言葉の違いは、通常語尾などの文章の違いである。話しことばで用いられない単語もあるが、それは難解な漢語などに限られる。(補足1) http://lang-8.com/223859/journals/819540

ここで用意した答えは、“日本人独特の言語文化による”というものである。日本語文化の理解の為の私の教科書は、山本七平の「日本教について」である。この本を批判的に読めば、日本語の質の低さ、それと関連して日本人の言葉の使い方、日本人の行動パターンなどがよく分かると思う。

表題の理由であるが、私の答えは“「愛している」「愛」ということばは、山本氏のいうところの「空体語」として主に用いられることばであるため、事実や現実と向き合う場面ではなかなか使いにくい”である。

空体語は実体語と対をなす山本七平の発明によることばである。私は以下のように理解している:
ある言葉が、例えばある現実問題を議論する際に発せられたとき(実体語)、現実との差を感じる場合が多い。その差を考える際に日本人が行うのは、論理を駆使してその差を究明し埋める努力をするのではなく、その差の延長上にあることば、空体語、を感覚的に探し出し、その中間に自分をおいてバランスをとることである。

空体語は直感的に現実離れしていることが分かるので、それをそのまま自分の立場にする人はほとんどいない。この実体語と空体語の間の立ち位置を支点と呼ぶ。また、空体語に近いところに支点を持つ人を”純度の高い人(あるいは純粋な人)”と呼ぶ。そして、日本では純度の高い人を行政から裁判所までが擁護する。山本七平はこの様な日本のあり方を、人間の純度によるアパルトヘイトとしている。

自国のエネルギー確保や安全保障を抜きにして“原発反対”“非武装中立”を叫ぶ人がかなりいるが、これらは共に現実離れしているが故に空体語と言える。そのアパルトヘイトの所為で、このようにバカバカしいことを叫ぶ人たちもこの国ではかなり高い位置を確保できるのである。(補足2)

元に戻って、上記の「私はあなたを愛しています」がなかなか日本人の夫に言えないのは、「私にとってあなたは必要です」という現実を表現した実体語とバランスをとるべく存在する、空体語表現であるからだと私は思うのである。つまり、女房に対しては必要なだけでなく確かに愛情を持っている。しかし、「愛しています」という“純度の高い”表現はなかなかできないのである。

この純度の高い言葉を用いることが普通に出来る場合がある。それは幼児を愛しているという場合である。母親の愛情ということばは、普通になんの衒いもなく使うことができる。それは、自分の幼児を愛するということは、実態をそのまま表しているからである。つまり、空体語の現れる余地がないのである。

2)言葉と実態とのズレは、特にこの言葉については全世界共通ではないのか?という意見があり得る。その反論は正しいのだが、実は日本人の言語文化のもう一つの特徴がその理由に加わる。

日本では言葉の地位は非常に高い。言語がコミュニケーションの道具だけではなく、独自に存在価値を主張する能力を持つのである。それは上記空体語が実体語と同等の地位を持つ原因でもある。また、日本は言霊の国であるというのも同じことの別表現である(補足3)。それが、言葉の意味を理解した上では、空体語表現を口にすることが出来ない理由であると思う。外国ではことばが良くできていて、それだけに軽く人々の間を飛び交うことができる。日本刀とフェンシングの剣の違いのようにも思える。

日本の村共同体では、念仏講というのがあった。今でも残っている地方が多いだろう。そこでは御詠歌を、法事などの際に仏様に奉納するのである。その奉納の様子は、歌を味わって歌うというよりも、歌(詩)は神輿の上にあって、声と鐘の音がその神輿を運ぶような光景であった。 https://www.youtube.com/watch?v=JRlK2tuHyCM

つまり、日本人は、重たい切れ味の悪い牛刀のような言葉を使う運命にある。したがって、重要な言葉ほど重く、聞く人は其れにひれ伏す場合が多い。戦争集結時の昭和天皇の玉音放送https://ja.wikipedia.org/wiki/玉音放送 と戦争前の米国大統領による炉辺談話http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/ppri/fireside.html との違いがそこにあるように思う。

  その言葉の重みに耐えるのが辛く、また、振り下ろせば切られた物は無残な姿を晒すだけであるため、賢い人間は重要な場面では沈黙を選ぶ。また、“切れ味の良い”言葉を巧みに(論理的に)使って、現象の解析や説明を行うことが出来ず、感覚的に空体語を虚空において、自分を言葉の空間の中間に置くことでバランスをとるのである。

補足:

1)言葉の違いは、書き言葉と話し言葉だけでなく、同じ話し言葉でも、演説、日常、公式などの場面により、さらに、話し相手が目上か目下かどうかなどでも違う。表題は、日本人は「愛しています」と書くときにも抵抗を感じるかどうかを問題にしている。

2)太平洋戦争と米国による日本への石油禁輸の関係を知れば、エネルギー確保の重要性は理解できる筈である。非武装中立が”空体語”であることについては、例をあげて説明する気力もわかない。人間純度によるアパルトヘイトは、空 体語を擁護するために存在するのかもしれない。

3)日本語でも論理を駆使することは可能であるが、その能力に関する敷居値はたかい。そして、そのようなことが面倒な人は、その言葉を鵜呑みにして祭り上げてしまうのが楽である。それが”言葉の地位”が上昇し、言霊を生んだ理由の一つだろう。 言霊について:四という数字は死と同音であり、忌み嫌われる。日本人野球選手でこの番号や42番を背番号に持つ人はいない。日本では、数字自体に正負の価値があり、単にものを数える道具としての数字ではない。(これも世界に例はあるが、日本では特に強いという意味である。)

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