2016年4月28日木曜日

本音と建前の二重らせん(2)

1)本音と建前について、これまで何度か考えてきた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/12/blog-post_6.html  そこでは、本音がそのまま大手を振って公(おおやけ)に出てくると社会は崩壊すると書いた。しかし、本音が建前という社会の“骨組み(制度)”にうまく組み込まれなければ、同様に住みにくくなる(補足1)。米国など先進国の政治では、民主主義という建前がうまく本音を組み込み、全体の政治を作っている。本音、つまり現実主義と、建前、つまり既存論理優先(理想)主義とが、互いに持ちつ持たれつの関係にあって、合意点を見出しているのだと思う。

間接民主主義の政治では、政治家が差し出すメニューのなかから、選挙民が選択をする。メニュー作り(補足2)は選挙民が直接関与しない形で行われるが、選挙民の本音が組み込まれなければならない。メニューの中にないものは選択できないので、民主主義といっても直接民主主義とは異なりかなり制限された形である(補足3)。従って、大衆の空気が政治を支配し、政治が暴走することは少ない。

2)建前というが、上述のように二重螺旋的に本音とともに存在するものである。社会全体としての最大幸福を実現すべく、本音を論理的に整理して社会のルールとする。その際、個人の本音の一部は切り捨てられる。しばしば、この切り捨てられた本音の一部を過大視してこだわる人が多い(補足4)。つまり、命の保証、財産の保証、そして個人の自由の確保は、すべて本音の最も重要な部分である。「これらの確保は当然であり選挙民がもはや考えるべきことではない」というのは傲慢であり、歴史的悲劇の原因となる。

上述のように政治では、本音は現実主義に近く、建前は理想主義に近い。本音を建前の中に如何に収容するかという、現実主義と理想主義の戦いが、本来の政治のダイナミックな姿だと思う。日本では言語やそれを用いた論理に弱いため、教条主義に走りやすい。非武装中立と非核三原則という建前に、本来現実主義政党である筈の自民党までが縛られていては、将来は暗い。

東アジアの軍事専門家のIan Eastonが、最近、米国の核不拡散政策教育センター(NPEC)に提出した「日本の戦略兵器計画と戦略:未来のシナリオと代案」という報告書が公開されている。そこでは、日本のこれからの核戦略が3つのシナリオで予測されている。その内の二つは核開発を行う戦略である。日本の現実主義は米国に丸投げなのだろうか? http://www.npolicy.org/article_file/Easton_Japanese-Strategic-Weapons-Scenarios_draft.pdf

3)政治だけでなく、文化においても本音と建前の二重螺旋を意識し、時代に即応した文化の創造へ活かすべきだと思う。今日このようなことを改めて書くのは、日本の「本音」の建前への組み込みが政治だけでなく、文化においても全く稚拙だと思ったからである。

最近、不倫騒動をテレビが独占したことがあった。宮崎議員や乙武議員らの騒動は、社会をつむじ風のように騒がせて過ぎ去った。かつて、石田純一の「不倫は文化」という発言があり、それも消化不良のままに忘れ去られた。

進化論的心理学によれば、人間の心理も環境への適応のために進化してきており、その変化は現在進行形であると考える。それは進化という非常に遅いプロセスであるため、現在の我々の行動を支配する「心理」は、未だに原始時代の狩猟生活に適合したものとして、取り残されているのだ。

石田純一の発言が、ボスが大家族を支配している旧石器時代の社会に適合した我々現代人の心理から出た本音であるなら、それも社会は建前としての制度の中に何らかの形で取り込まなければならない。日本には全くないが、しかし米国にはそれらしい制度が定着しているようである。それは、不倫そのものではなく、婚外子に対する養子制度である。

婚外子の養子制度をしっかり持つことが、現代社会がこの件への対応として為すべきことなのだろう。当然のことながら、不倫を文化として認めることは既に出来上がった社会制度(これまでの建前)により、否定されたのである。

良く知られている様に、i-Phoneやマックブックなどでデジタル文化の一翼を担うアップルの創業者、スティーブ・ジョブズは養子であった。彼の生みの親は女子大学生だった。養子先を予約するシステムがあり、二番目に名乗りを上げた夫婦が育ての親になった。育ての親は、養子の条件となっていた大学進学に向けて精一杯努力したが、ジョブスはそれ程の価値を大学に見出せず退学する。その後、講義に紛れ込んで習得した知識などで、アップルの創業者となった。

現役の女子大生が、生まれた子供を養子に差し出すまでは理解できたが、それに「大学進学させること」という条件をつけることができるシステムを持っていることに、改めて米国の凄さを感じた。

日本なら、その様な大器を公園のトイレに置き去りという形で失っていたかもしれない。人の命が大切だという本音中の本音を、そして、一定数の非嫡出子でしかも養子に出す以外に助けることができない命があるという現実を、社会がそのシステムの中に組み込むことが出来ないのである。それは、本音を論理的に展開して建前としての文化の中に組み込む能力が日本社会に欠如しているからである。

その原因なのか結果なのかわからないが、“公の空間”が社会に定着していないことを指摘したい。つまり、公空間がないので、「万機公論に決すべし」と言っても、公論など戦わす場所がないのである。社会に公の空間がなければ、本音と建前の二重螺旋も自前のものは成長しないし、持てないのである。現在機能しているほとんど全ての制度は、従って、輸入品である。

補足:
1)本音と建前の意味が、若干日常的に用いられる場合の意味と違うかもしれません。建前とは、ルールやルールで定められた制度の意味、本音とは、現実的な要求の意味で其々用いている。 
2)米国では多くのシンクタンク(戦略国際問題研究所、ハドソン研究所など)が政策決定に間接的に係わっている。更に、幾つかのインテリジェンス機関があり、いずれも選挙民の直接関与はない。これらが優秀であり、且つ、政治のシステムのなかに有効に組み込まれていなければ、民主主義は成立しない。 
3)選挙民が直接意思を表明する機会として、デモがある。しかし、それは議員の意見に反映することはあっても、直接の因果関係はないし、あってはならない。(一部の選挙民のデモが政治に直接影響した場合、平等の原則が崩れる)
4)託児所に落選したとき「日本死ね」と書き込むのは、切り捨てられた本音の“相対化”ができていないことが原因である。日本が死ねば、自分と愛する子供の命の保障も全くないことすらわからないのである。自前の、本音を建前の中に組み込むシステムを持たないため、現在持っている制度についても理解できていないのである。そこでは、本音がそのまま大手を振って公(おおやけ)に出てくると社会は崩壊すると書いた。しかし、本音が建前という社会の“骨組み(制度)”にうまく組み込まれなければ、同様に住みにくくなる(補足1)。米国など先進国の政治では、民主主義という建前がうまく本音を組み込み、全体の政治を作っている。本音、つまり現実主義と、建前、つまり理想主義とが、互いに持ちつ持たれつの関係にあって、合意点を見出しているのだと思う。

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