天城越えは、歌手石川さゆりのヒット曲である。「隠しきれない移り香が いつしかあなたに浸みついた 誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか」で始まる歌詞で知られる。この歌を初めてテレビで聴いたとき、演歌としての出来が素晴らしいことと同時に、このように禁句的な歌詞にビックリした(注1)。
多くの人に歌われることは、 “天城越え”で表現される感情が多くの人が普通に持っていることを意味していると思う。そして、人と人の間に存在する感情とそれが作る社会を考えるヒントになるだろう。(注2)
つまり、男女関係においても恐らく親子関係においても、人にとって他の人との関係が命と同じレベルの重みを持つ場合があるということである。その理解を延長すると、“愛情とは、人にとって等しくかけがえの無いもの、つまり命を交換することにより成立する”という考えに到達する。ここで交換の意味は、相手の命を自分の命と等価と考える瞬間があり得るという意味である(注3)。 判り易い例を挙げれば、子供の命が危険な状態にあれば、親は自分の命の危険を冒して、救出を考えるのが自然だろう(注4)。
何かを交換することで成立する繋がり、或いは結合、は自然界にかなりある。例えば、原子と原子は、電子を交換することで結合して分子を作る。結合を作る前には、原子Aの電子aと原子Bの電子bの区別は明確であるが、結合を作った後は、どちらの電子か区別出来ず、両方の原子にとってそれら二つの電子が等価になるのである。
その様な関係、つまり命の交換としての愛情を感じること無く、大人になった人は不幸である。また、その様に感じていた愛情が、実は本物ではなかったと知ったときのショックも大変大きい。
最近の大きなニュースで、19歳の女子学生が宗教活動で知り合った70代の女性を自宅で殺害した事件が報道された。動機は「人を殺してみたかった」という驚くべきものであった。あるテレビ番組で素人コメンテーターが、サイコパス的性質だと言ったのを聞いたが、それとは全く違うと思う。サイコパスの人は、人を殺しても何とも思わないが、通常積極的に人を殺したいと思わない。その証拠に、ニューヨーク市内でもサイコパスの人は10万人いるという統計が発表されているが、無意味な殺人はそんなに多くない。(注5)
つまり、“人を殺してみたい”という欲望の高まりは、その人が“人を愛したい、そして、人から愛されたい”という感情の行きどころがない状態になっていることだと思う。そして、あの19歳の女学生の犯した殺人は、それを強引に被害者に押し付ける行為だったのだと思う。愛情が、命を交換する関係であるなら、本物の愛を受けた経験の無い人が、愛情を欲する感情が高まった極限で、人を強引に支配してしまうのだろう。(注6)
従って、子供が親により愛情をもって育てられることは、社会で生きる人間になる上で、本質的に重要だろう。昨年のことだが、米国で養子として育てられ成人した子供が、成人するまで養子であることを知らされなかったことを恨んで、育ての親を殺す事件があった。信じていた愛情が嘘であると思い込み、ぽっかり明いた空虚な心の空間を埋めることが出来ず、育ての親の殺人に至ったのだろう。
人間が、成人後も愛情を欲する状態で存在することは、動物としては特異である。それは、成長しても人間が動物としては幼児状態で留まっていることを意味している。この人間の特徴が、高度に構造化された社会をつくる上に必須であるとすれば、それは人間が社会の家畜として進化した結果であるとも言える。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/09/blog-post_2.html
注釈:
1)禁句は真実を含むだろうが、“縁起”が悪いので言ってはいけないことばである(日本では)。この歌では下品に落ちる境界を跨いでいない点で、巧みであると思う。
2)つまり、普通の対人感情が異常に高まった状態で、そのような凶悪犯罪が発生すると思う。そして犯罪は、その動機である感情の存在を証明する明確な証拠である。
3)自分のものと他人のものを、同様に感じる感覚は、社会をつくる能力として大切である。
4)逆のケースもある。河野太郎氏は親である河野洋平氏に移植する為に肝臓の一部を提供した。
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/精神病質
殺人願望があれば、毎日ニューヨークで数百人位は殺されるだろう。また、専門家はフロイトのサディズムなどの言葉を用いる人もいるだろう。
6)安易な比喩で申し訳ないが、交換しない電子(専門的には不対電子という)を持つ分子をフリーラジカルという。フリーラジカルは普通の分子と容易に反応し、それを破壊する。今回の19歳の女学生は、愛情についてフリーラジカル的だったと表現できるのだろう。病的ではあるが、病気は正常な機能のバランスが欠けた状態である。
“殺したいほど憎い”と“憎くて殺す”の差は、自己に対する愛情(執着)の強さにあるのでは無いか。
返信削除つまり前者には、殺したいほど憎んでいる自分が有り、後者の場合は難い相手しか、さしあたっては存在しない。
”人を殺してみたい”と、”人を殺す”の違いも同じように思われる。
自己に対する愛着は他人に愛された経験無しには生まれない物かもしれない。
ちょっと、意見が伝わらなかったようです。高校生殺人の女子学生は人との確かな繋がりが愛情の交換で出来るという気質をもっている正常人だが、それが一度として体験の中にないということだと分析したつもりです。友情や付き合いと愛情の本質的違いは、後者は命の交換で生じるという点だと書きました。通常は母親から愛情を体得して、心理的に安定した人間になるが、それが無く、且つそれ以外の体験が無い場合に、人を支配する欲望が生じるということだと思います。
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