1)経済発展により、経済活動の主役が個人から法人に移った。個人は参政権を持つため、少なくとも政治的には主役の座に留まっている様に見える。しかし、経済的には法人に支配される様になったため、個人は住居を一定の場所に持つ自由を失う。勿論どこに住むかは法的には個人の自由であるが、法人は実質的に個人の住所決定権に経済的な理由で介入することになる。経済発展が進むと、法人は益々広い範囲で活動する様になり、最近では上場企業の殆どはその活動をグローバルに展開している。
ある特定の個人に注目した場合、大学選択の段階で両親の下を離れる。そして、就職の段階で場所を変える。転勤などで移動したのち、壮年期に最後の転勤で落ち着くことがおおいだろう。定年後はその最後の場所に住み続けることが多いのは、主として住宅の取得とその土地への馴染みが関係している。
ある大規模な団地に落ち着いたとして、その団地の町内会のメンバーには、地元の人が最も多いが、半分以上は全国から集まっているだろう。勿論、勤務先の法人も異なり、経済的にも宗教的にも、人々の間には何の関係もないだろう。
その地で育った子供達も同様に、全国に散らばり、老年期に入ると夫婦は孤独な状態で取り残される。片方が死亡すれば、独居老人となる。その時には、経済的にも行政からの年金に頼る場合が多く、そして何かあった時には行政が出て行くしかない場合も多く、将に行政のお荷物になる。自分もそうなるのかと思うと、寒気がする。
2)ここで人間社会の成立過程を考える為に、大昔に戻る(注1)。人間は数千年前までは狩猟生活を送っていたと言われる。2−3千年前に、人間が密に住む様になったのは、食料生産の方法として狩猟よりも遥かに効率が高くて安定している農業が始まったからである。この農耕社会が出来てから、共同作業という経済活動上の必要性が、田舎の地域共同体を創った。
農業の生産量が土地の広さで決るため、人口の増加で紛争が生じるようになる。そこで生き残るのは、大きな単位でまとまった集団であり、それらは疑似国家から国家という形態をとる様になり、そして、紛争が戦争と呼ばれるものとなる。生き残る為には団結と武器が必要であり、その団結の旗頭になったのが宗教であり、強力な武器の原料となったのが鉄であり、その後の火薬を使った銃である。
最近、1)で述べた団地での孤独な老後の問題を解決する為に、地域の人々の間に連携を取り戻そうという運動が、増えている。私の住む町でも、市長が地域協議会をつくることで、行政と地域との関係を密にし、そのプロセスで地域社会の人間関係をより密なものにしようと考えているらしい。しかし、それらは結局成功しないだろう。それは、昔の濃厚な人間関係は生き残る為の手段として発展したのであり、遺伝子の中に人間が本来持つ性質によるのではないからである。現在の団地では、昔の地域共同体に似た濃厚な人間関係などが形成されるポテンシャル(化学的ポテンシャル)はなく、従って出来る筈がないのだ。
3)そのような団地でも、地域社会的でない或る種の人間関係の構築がみられる。それは、宗教を介する人間関係である(注2)。ただ、宗教も定年過ぎてから準備もなしに入信し、その中に一定の場所を見出せるとしたら、その裏に経済的メカニズムがある可能性が大きい。或る種の宗教に入っていることが、狡い人間の出世のコツであるという現実も腹立たしい。そして、そのようなネットワーク的な関係は、そこから疎外される人を多くつくる。
今後、日本国が経済的に力を無くしていった場合、そのような任意的なネットワークからも漏れた、孤独で経済的にも恵まれない人は、社会を不安定なものにするだろう。人は元々孤独であり、その克服の処方箋として歴史的な偉人といえども、無常とか空とか当たり前のことしか言わないし、言ったとしても誰も救われない。
創世記には人は智慧の木の実を食ってエデンの園を追放されたと書かれている。つまり、智慧の木の実は、実は苦い味がするのだ。法然と親鸞の専修念仏は、色即是空の諦めと念仏とを同封して安心の境地に導くものだろう。それは、智慧の木の実を食べたことを忘れる様に暗示をかけることであり、ひとかじりだけの人は救われるかもしれない。しかし、智慧の木の実を半分以上食べてしまったヒトは、両上人の企みを見抜いてしまい、救われないだろう。
どうすれば良い?差し当たり、不必要な人の移動を無くする様、経済圏を一極集中から多極化すべきである。そして、人と土地との親和性を高め、自然人としての立場を部分的であっても回復する。人も他の動植物と同様、土地から生まれ土地に帰る。その自然人としての重要な一部分を人間が回復するためにも(注3)、道州制が必要だといっているのである。経済的な悪影響を最小にするために、日本国を道州制つまりThe United States of Japanに改造することだと思う(注4)。中央集権的な制度は人間的でなく、歴史の中に送るべきである。ただ、中央集権は主として軍事的な意味が重要な時代のものであるから、そして世界は未だに抜けきれていないため、軍事だけは中央に残せば良い。
坂道を下りながら、そんなことを考えた。
注釈:
1)ジャレド・メイスン・ダイアモンド著、『銃・病原菌・鉄』
2)宗教は多くの場合過去の優れた思想家やリーダーの言葉を説く。そこには一定の重みがあり、たぶん、自己暗示が得意な人たちの間で共同体的意識を醸成するかもしれない。ただ、そこでの失敗は心理的重傷を伴う可能性があり危険かもしれない。
3)啄木の歌の「ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」が共感を産むのは、生まれたところの土に帰るという想いがあるからだろう。
4)橋下さんは、経済的な面での道州制の必要性を説いているのであり、この文章は単なる橋下支援のものではない。
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