大昔から現代まで、戦争は生き残るための手段であった。国民国家が出来て以来、国家が敵と味方を分ける境界となった。防衛力を持たない国家は滅び、その民族は生き残っても他民族に隷属することになる。戦争において宗教が登場する場合、それは戦いの目印の意味が大きく、教義に争いにつながるような意味などないだろう。
過去の歴史を少しでも学べば、平和主義を前面に出して滅びた民族はあるが、栄えた民族などない。ヨーローパなどのテロリズムも宗教の戦い(十字軍とイスラムとの戦い)として解釈するのは入り口である。そこで終わっては何もわかっていないことになる。
宗教は、上述のように戦争で生き残るための団結手段であり目印である。宗教戦争は外観であり、その本質は他から奪い取って生き残るという、生命界の掟が具体化した(戦争)のだと思う。
つまり、シーア派とスンニ派の違いが、それほど重大な違いなのではなく、また、キリスト教とイスラム教の教義の違いがそれほど重大なわけではなく、それらは敵と味方の色分けに過ぎないと思うのである。直前の記事を書いた動機は、そのような理解が背景にあってのことである。
平和主義は、味方を募る時には手段になるが、戦う相手には目くらましになる。日本にいる左翼と呼ばれる人たちの平和主義は後者のものである。味方になる相手と戦うことになる相手を見間違わないことが、民族が生き残るためには必須である。第二次世界大戦の時の愚を繰り返してはならないと思う。また、それよりも何よりも大事なことだが、戦う力を持たないことは、この地球上に生きる空間を確保する権利を放棄することに等しいことである。
日本の憲法改正と適当な軍備保持を、軍国主義の復活として非難する国があるとしたら、その国は日本を将来侵略すべき国、戦う予定の国と考えているのである。
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