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2017年12月31日日曜日

清濁併せ呑む日本文化と善悪を峻別する西欧文化

1)中部大学の武田邦彦氏が、日馬富士の暴行事件に関する話をしていたが、その中で日本の相撲、そして日本文化について語った部分が印象に残ったので、その延長の形で日本文化を考えてみた。武田氏の動画から得た文章はイタリックで書いた。それ以外は今回のオリジナルな分析である。https://www.youtube.com/watch?v=JSIHkwix5ME&t=533s

大横綱の双葉山は「待った」をしなかったという。相手が幾分早く立ったとしても、待ったをせず、堂々と横綱らしく受けて立つ相撲だったのである。

西洋の対決型のスポーツでは、試合の場では格の上下などはなく、細かく定められた同じルールの下で試合をする。そして、ルール違反に当たらない技を総動員して双方が戦い、その結果としての評価は勝ち負けが全てである。しかし相撲の場合、力士に細かく別れた格があり、試合の前に紹介される。試合は、ルール違反の判別には同じルールが適用されるが、格上の力士は格上らしく戦わなければ、評価が落ちる。つまり、評価は勝ち負けだけでなく、独特の“美学”が持ち込まれる。

西欧のスポーツでは、スタートは審判が宣言するが、相撲では対決姿勢を取るところまでは審判つまり行司に足されるが、試合の開始は対決者同士で決める。行司は、その後対決が正当かどうかを審判する。(補足1)つまり、相撲は西洋のスポーツに似ているが、しかし、ルールが全てではない日本的スポーツである。相撲の歴史を考えれば、神へ奉納する真剣勝負的な伝統行事なのだろう。

その原点から考えれば、現在の日本相撲協会は営業を重視した会社的経営に徹している。そして、モンゴル出身の力士に対して、上記の日本相撲のエッセンスを殆ど敎育していない。何故なら、白鵬は横綱になりながら、そして、圧倒的な強さを誇りながら、奉納相撲にふさわしくない相撲の美学に反する勝ち方をしているからである。

立ち会いに“エルボー”で相手を失神させるような技や、殆ど毎回の様に顔面パンチを用いて、自分優位の体制を取ろうとする。それは双葉山の受けて立つ相撲とは180度異なる。また、真剣勝負であるべきにも拘らず、モンゴル力士を含めてかなりの力士たちが、八百長相撲(モンゴル語でナイラ)を疑われている。(補足2)日本の古い奉納相撲を全く無視したような相撲を取らせる協会の姿勢は、この際厳しく批判されるべきである。このあたりで、公益法人という資格は剥奪すべきだと思う。

2)武田氏のその話の中で、日本文化の「清濁併せ呑む」という特徴が紹介されていた。中でも印象的だったのは、動画の6分10秒位から始まるインドの社会学者の話の紹介である。その社会学者が、「日本には性産業が無い様に見えて在り、それでいて社会は健全に見えるのが素晴らしい」と発言したというのである。

武田氏はこのインドの学者の話について、それ以上は言及しなかったが、上記双葉山の相撲なども合わせ考えると、日本文化の特徴が見えてくるように思うのである。つまり、近代日本は、個人を同一のルールで縛ることを建前上取り入れているが、それは日本文化の世界とは本質的に矛盾するのである。

日本文化の特徴は、人は分をわきまえて行動し、社会が全体として調和的に動くことをよしとしているのだと思う。ナチスの全体主義とは全くことなる、全体主義的文化と言えなくもない。別の表現を用いれば、日本は国家でありながら一つの生命体を構成するのである。インド学者の指摘した様に社会全体が、生物として必然としている人間の全てを、各個人がその”分”を弁えて行動することで受け入れるのだろう。

一方、西洋社会のあり方は、人間の中の汚い部分を違法の中に押し込め、犯罪者を同時に生み出すことで処理している。つまり、人を善人と悪人の二種類にわけて、この世を神の子である善人の棲家として、醜悪なる部分を悪人或いは異教徒の仕業として罰するのである。それは、全体から美しい部分或いは上澄み(“表社会”)を取り、その“人工社会”を正義の支配する社会、神の意志を実現した社会と定義するのである。その正義や平和は、その上澄み社会のみでは永続的に実現可能でないなどとは、およそ想像すらできないだろう。

3)西欧の社会で語られる人権、平等、自由、自然保護、動物愛護などは、その人工社会の概念であり、それを振りかざして異なったタイプの社会の国家を攻撃する姿は、まさに中世の異教徒弾圧的風景である。善悪は神の領域であり、従って、かれらには迷いはない。つまり、社会が表と裏で全体を為し、表だけでは安定に存在できないという考えは、想像すらできないだろう。

一方、日本社会では“悪人”に対しても一定の棲家を与えている。日本には「盗人にも三分の理」という言葉がある。また、幡随院長兵衛に始まるとされる侠客やヤクザなどは、西洋の悪人とはかなり実体が異なるだろう。ヤクザは西洋的観点からは、現代法に反する行為を日常的に行う悪人という範疇に入るが、しかし現在でも“裏社会”を仕切っているようである。

現在、日本は西欧的法治国家を標榜している。その一方で、上記インド人学者が素晴らしいとして評価したことや、例えば都市部再開発などにおいて、地上げと悪の汚名をセットで受け持つそれらの人々(裏社会の人々)を、単に処罰するだけで良いのかという疑問が残る。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40

21世紀の世界は混乱の世界だろう。そこで、行き詰まるのは西欧型社会である。神の論理と人間の本質の間の”ずれ”を、強引に退けるには犠牲者(生贄)が必要である。人の力が科学の力を借りて非常に大きくなった現在、その考え方では多大な犠牲者が必要となるかもしれない。それは人類の破滅に繋がる可能性すらあると思う。

インド人の学者が感心した日本の風俗などは、西欧の論理を用いれば二枚舌を用いているとか、悪に対する姿勢が毅然としていないなどの非難の標的となる。それは、人を全て同じ平面に並べた上で、人の性質を善と悪に分けるという、西欧の信仰に毒されているということではないのか?西欧的神の論理を原理としないで、人の“醜悪なる部分”も含めて全人格を受け入れる日本型社会(東洋型社会?)を世界が考えるとしたら、21世紀の世界を考える良い材料、或いは刺激になるのではないだろうか。

補足:

1)始まる前なら、力士は対決姿勢を一旦解除することを提案できる。それが「待った」である。双葉山は、相手が先に両手をついて試合を一方的にスタートしても、遅れを承知で手を付いてその試合開始に同意したのである。何れにしても手をつかなければ、試合は始まらない。
2)そもそも貴ノ岩暴行の原因(或いは誘因)に、横綱白鵬をボスとするモンゴル力士グループが、真剣勝負をする貴ノ岩に反感を持っていたことと、その真剣勝負で白鵬を破り稀勢の里の優勝をアシストした相撲があったという。

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