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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2017年12月11日月曜日

「和の国」で成立しない議論:和は結果であるべき

北朝鮮危機がテレビ等で話題になっているが、日本では誰もそれに備えるほど危機感を抱いていない。政治家はその難問を避けて自己保身に走り、テレビの評論家は大きな声で喋っても、その意見に必死に情報を集め解析したという努力のあとが感じられない。彼らには、利己主義が蔓延している。

声の大きい人に二通りある。知識と自信に基いて明確に喋る人と、知識の有無は分からないが、自分或いは自分の所属する団体の利益を考えて喋る人である。どちらが正しいのか、声の大きさだけでは全くわからない。この国では、互いの主張が矛盾していても、正面衝突することは稀である。

本人達が避けるのか、報道機関などがそのような場面設定を避けるのか分からない。多分両方のメカニズムが、この「和の国」では働くのだろう。「和の国」というのは、議論を避けることを優先する国のことであり、我が国を指している。議論は、問題を洗い出して解決の方法を見つける為にするのが一般的だが、この国では多くの場合議論は口論の始まりであり、口論は喧嘩で終わる場合が多い。無駄に終わり団結を阻害するのなら、最初から議論など始めない方が良いと考えるのだろう。(補足1)

勿論、個人が自分の知識を基に信用できる人を探し出し、その意見を参考にして何事も自己責任で判断するしかないのだが、この国ではそれが一層難しいのではないだろうか。

「和の国」の政治家は能力がないし、官僚やマスコミは利己的である。マスコミは、コスト削減か何か知らないが、何時も評論家の顔ぶれは同じである。(補足2)米国べったりの元官僚や元新聞社の人たちが、何時も同じことを喋っている。

シリアスな政治番組など地上波放送局では出来ないと思ったのか、嘗てかなり聴きごたえのあった政治バラエティー番組が、全編お笑い番組のようになったものもある。(補足3)この危機の時に、三流週刊誌のような番組作りをする神経がわからない。司会者には、放送法一条を読めといいたい。

この国ではまともな意見を述べる人が出演するのは、ミニコミ的番組のみである。(補足4)何故そのようになってしまうのか?この「和の国」の特徴、マスコミなどで意見を述べる資格を得た人(=リーダー的存在)の能力、彼らの選ばれ方、などについて少し考えてみる。前置きが長くなってしまったが、以下本論を始める。

尚、ここで考える日本の特徴は、人間に共通するものである。それを特別に色濃く社会全体で持つのが日本であるというだけである。

[1]

「和の国」の掟は人の非難をしないことである。目の前の人がバカげたことを言ったとしても、この国ではそれを非難をした途端、大衆の刃は非難した人に向かう。正論を提げても、言論意味不明の「人格者」には勝てない。何処の国でも、一番恐ろしいのは大衆の刃である。中国やロシアでもそれは同じである。(補足5)

多くの国では非難は議論の出発点になるが、この国では、非難は「和」の破壊という終着駅である。上述のように、議論は何も産まないからである。

和は大切である。絶対君主が支配する国でも、君主は一定の範囲だが、和の実現を体制維持の為の主要課題と考えるだろう。長期的には、広く国内全体の和が、その体制の命運を決めるだろう。しかし、「和」が社会での最重要な価値として宗教の様に信じられている国、つまり「和」絶対主義の国は日本以外にないだろう。

一般に国家の仕事は、国民の権利保障と福祉実現である。それは、国民の安全及び自由の確保と領土の保全といった国家の枠に関するものと、国内での「富の効率的な創生と公正な分配」に分けられるだろう。そこには和の実現という項目は不要である。何故なら、公正且つ豊かな分配の結果として、和が成り立つからである。表題に書いたように、和は結果であって方法ではなないのである。

つまり、和は目標であり方法ではない。しかし、「和」絶対主義の国では、「和」は方法であり且つ目的でもある。非常に深刻なことだが、この国では国際関係を考える際にも、「和」原理主義が、大手を振っていることである。どこの国が親日的でどこが反日的だとか、誰が親日的で誰が侮日的(反日的)だとかが、関心ごとの中心にある。(補足6)

社会という公の空間で和を中心に置くのは本質的に間違いである。何故なら、和は基本的に1:1の融和的関係の輪の広がりで達成される状態であり、公の(パブリックな)概念でないからである。

一方、議論や評論は、公の空間に投げかけ(パブリッシュし)、社会全体の(公の)空間でブラッシュアップされる。国家の運営は、公の空間でオープンに議論を行って、その方針を決定するのが基本である。(補足7)

[2]

正当なる分配は、分配の規則は何かという公の議論で決められるだろう。それが、社会への寄与と同じ社会に生を受けた人間の既得権の二つであるとして、それをどう評価しどう足し合わせるかするか。その方針決定には、解析的議論が不可欠である。議論が始まれば、複数の考え方が衝突し、方針はブラッシュアップされるだろう。その議論の場が公という空間の役割である。相撲で言えば土俵である。そして、その議論の積み重ねは、その社会の問題解決能力を育て、対外問題などが生じた時は能力の高い力の基礎となる。

しかし、残念なことに日本では、「和」は自己目的化しており、正当なる分配を議論するよりも、目で見える「横並び」で達成しようとする。

与党の国会議員らは、大臣ポストのバラ巻きで実現し、政党という社会での和を実現しようとする。そこには、公を向いた姿勢など存在しない。国権の最高機関にしてこのような非常にみっともない状況にある。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201708/CK2017080602000109.html 

同じ団地で、周囲の人が国産車に乗っているのなら、「和」の実現を考えて経済的に余裕のある人でもBMWやベンツは避けようとする。(補足8)個の自立して居ない人たちは、孤立とイジメをおそれ、社会で思いのままに振る舞う自由を無くしている。

横並びには“苦手な議論”は不要であり、偽りの平衡点に忍耐を持って立ち止まることで偽りの和が達成できる。「和」とは偽りの和である。その文化により、日本人は精神まで染め上げられている。小学生のランドセル、高校までの制服など、幼少期から極めて高い統一された姿に安心し、周囲に叛かないように教育される。それを明確に指摘したのは、山本七平だろう。

その「和の文化」の下、大金持ちでも質素に生活すること、能力があっても謙虚寡黙に徹する姿勢が、高く評価される。議論をする人間は、横並びから脱して高みを目指す理屈屋として嫌われる。明治の「万機公論に決すべし」は、日本に欠けたところを指摘したのだろう。

一方、文明国では組織がなければ社会は成り立たない。そして、その組織のリーダーや運営者の人選は必要である。自分が適当だと考えても、「和の国」では自薦より他薦が望ましい。その推薦は、「人格」と「能力」を基準になされる。人格者とは「和の社会」に適合した人の意味である。そして、能力は「人格」というブースターがなければ、他者に伝わらない。「能力」は本当の意味での能力ではない。

「人格」は一次元の物差し(高低)で測られる。これまでの「和の文化」での実績と、家柄、人脈、学歴、專門分野での実績などに基いて、周辺の人が作る。その人格という一次元の物差しで測った値が、これまでの所属した分野に関係なく人選の指標となる。

わかり易い例を挙げると、花を活けるのが得意な人が、日本相撲協会の評議員会議長になっていることが、最近の相撲界での事件で知れわたった。議長はテレビでこの事件について話をしているが、説得力は皆無である。法治国家の基本さえわかって居ない。その人は、家柄とその家で磨いた生け花の実績で、高い人格と評価されたのだろう。
http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20171129-OHT1T50079.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43485858.html

補足:
1)私は、この原因の一つとして日本語が議論に向かない、出来の悪い言語であると考えている。“日本語と日本教について” http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html “日本語と日本文化について”http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)例えば、日曜の朝の時事放談という番組があるが、そこに出た評論家は必ずと言っていいほど、その日の別の局に出演する。録画を両方で同日(金曜日)に済ませるのだろう。
3)日曜午後のSIIKというお笑い政治番組は、嘗て、勝谷誠彦や橋下徹などの議論で相当面白かった。しかし、自衛隊に命を救われた人が司会者になって以降、お笑い番組になってしまった。不愉快な顔を見たくないので、現在観て居ない。
4)現在もっとも面白いのは、西部邁と伊藤貫両氏の議論であり、youtubeで観ている。右寄りだと意識して観れば面白いのは、3時間番組のチャネル桜の水島社長司会の番組である。社長が人選をするのは当然だとしても、佐藤健志氏ら意見が異る人を出さないのは度量不足だろう。
5)唯一、大衆の刃を矯める力を持った例外は米国である。ブレジンスキー(今年5月死去)の言葉がそれを物語っている。https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html 米国程恐ろしい国はない。従って、日本も米国とは喧嘩をしないほうが良い。それを理解しなかった過去の日本のリーダーは、無能であった。
6)何処かで誰かが、米国には日本人と比べて中国人の方が話しが通じるという人が多いと言って居た。
7)森友問題や加計問題には、公という概念に疎い人たちの醜態が隠れている。
8)近くに住んで居ても「和」の満たすグループではない場合、その違いを強調する意味でなされるのが、ネグレクトや誇示的消費である。「和」を考える範囲の外にあると見なされる場合、その境界は憎しみや蔑みの感情で明確に色分けされる。

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