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2018年11月4日日曜日

人の幼児期が長いことと、言葉と道徳とを学ぶこととの関係について

人は言葉を話し、人の言葉を信じる動物である。どのようにして人は言葉を話すことになったのか?人は何故、他人の言葉を信じることができるのだろうか。以下、断定的に「である」で終わる言葉は、学説を確認したという訳ではなく、単に自分の考えを述べたにすぎないことをお断りしておく。(補足1)

人は長じて嘘をつくようになる。嘘が社会生活の上で一定の効果を持つのは、その嘘の言葉を人は信じるからである。人は、全く前提を置かずに言葉を聞き、その後言葉の意味と信ぴょう性を判断するのではなく、信じることを前提としてその言葉を聞くのである。人が「止まれ」と言えば、それを聞いた人は先ず止まるだろう。そのことからも、上記命題は明らかである。

言葉は幼児期に人の頭に埋め込まれるのだろう。その段階では、まわりの人は皆その幼児の味方である。従って、自分が聞いた言葉と自分の体験が常に一致する。その一致により、幼児は言葉を学習すると同時に“言葉を信じる性質”を獲得するのである。人の乳幼児の期間が長いのは、道具としての言葉の学習と、それを用いた人との情報交換の方法を学習するためだろう。

人が草食動物のように、早期に自分の足で歩いたり走ったりできれば、生存に有利だと思うだろうが、人間としてはそうではない。

生まれてすぐに歩き出せば、言葉の習得前に、幼児は自分の味方以外の人物と出会うことになる。その結果、幼児は言葉が信じられないことを学ぶと言うより、言葉そのものの学習が出来ないことになる。言葉を学ぶには、頭脳が完成したとしても少なくとも2年程かかるだろう。従って3-4歳までは、完全に信頼できる母親とその家庭の下で育たなければ、言葉の習得と言語文化の基本がまともに習得出来ないことになるだろう。

「駄々をこねる」のも、言葉を学ぶ一環である。それに対する、親の反応を見ることで、幼児は言葉が人に何かを要求する時の道具となることや、その際の限度などを学ぶだろう。道徳とは、個人が要求できる範囲の自覚であると考えると、言葉と道徳は一体として幼児期に習得されることも理解できるだろう。

以上の説明で、幼児教育の大切さ、特に、母親と家庭が言葉と道徳の学習に如何に大事かが理解できるだろう。現在、男女平等や女性の自立が議論されている。また、それを助ける保育施設の拡充が課題だと考えられている。心配なのは、その様な議論をする人たちは、人の言語習得や道徳学習などにとって非常に大事な幼児期を対象にしていることを、十分考えているのではないことである。

何故なら、人類は未だ自分自身を理解していないからである。

補足:
1)ネット検索をしても、人の幼児期が長い理由についての議論が見当たらない。多分定説はないのだろう。

追補:今回の議論の基礎は、ダーウィンの進化論である。つまり、言葉でのコミュニケーション能力のある人が、肉体的に丈夫な人よりも人間社会に適応できること、それに適者生存の原理を仮定している。やや禁句に近いことを言うと、豊かさと平等は、人の平均としての社会的能力を低下させる。また、男女が分業的に生きてきた過去の歴史を否定し、同じことを権利として主張することも同様である。
(補足と追補は、11月5日早朝追加)

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