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2018年11月28日水曜日

点と線の正義:その間を気体のように埋める信用を取り除く現代資本主義文明

今年1月27日の日付で、別サイトに編集中のまま放置されていた文章を掲載します。

1)表題は、現代社会に於いて「正義は点と線のみで確保されている」との主張を表現している。つまり、我々は、近代国家の内部全体において、法と正義が支配していると考えるのは勘違いであると思うのである。それは、犯罪が現代社会の多くの領域で起こり得るという主張ではない。法と正義に反する行為が存在したとしても、それらが全て行政と司法により然るべく処理されると考えるのは間違いだという主張である。それは、これまで観てきた社会の諸事象から得た結論である。

この事実は、例えば、相撲協会での出来事を考察すれば、一般にも理解出来るだろう。犯罪は隠蔽され、闇に葬られることの方が多かっただろう。そうでなければ、部分的にせよ諦めて泣き寝入りをする人が多い筈がない。(補足1)また、商店街の住人で“みかじめ料”などのトラブルに巻き込まれた人には、上記命題が嫌というほど身に沁みている人が多いだろう。さらに、ネットオークションなどで壊れたものを高い値で買ってしまい、売り主と交渉してもはかどらず、結局泣き寝入りするしか無かった人もその考えに同意するだろう。

警察(行政)も司法も、結局点と線以外には完全には役立たないのである。個人が出来ることは、その点と線の上を歩くように、私的な努力をすることである。ただ、その私的な努力が点と線を動かす様になると、社会全体が法治国家という建前も維持できないことになる。それは独裁国家の入り口である。

点と線の上に乗る努力とは、司法や行政の中に人脈を作り上げることなどだろう。点と線を動かすとは、司法や行政(警察)への介入を意味する。国家の首脳レベルでは、そのような疑惑は歴史の中に多く有るだろう。東アジア諸国では、法と正義の支配する社会の確立そのものが怪しげである一方、西欧ではそれが一応完成しているようである。しかし西欧でも、空間全体の法と正義の支配は建前としてのみ成立しているのであり、現実は理想から遠く乖離しているだろう。

何れにしても、法と正義による社会の支配は、不完全且つ限定的である。

2)以上は国家とその中で生きる個人を対象にした議論であるが、世界とその中で“生きている”国家の関係を考えると、上記現実が一層理解し易いだろう。

近代になって、世界は凄惨な戦争を振り返り、国際的な枠組みを作るようになった。(補足2)現在では、国連憲章、国際司法裁判所、国連軍が国家に類似した枠組みをこの世界に作っている。西欧が中心になって作ったこの仕組は、絵に書いただけのようなものだが、世界政府的なイメージを想像させる。

つまり、国連憲章、国連軍、国際司法裁判所は、国家のシステムから類推すれば、世界の法、行政(警察)、司法ということになる。それを本気というか、あまりにも真面目に考えている(振りをしている)のが、日本政界における革新系野党である。また、与党にもそのように考える人が多く、今は野党に属するが小沢一郎氏がその代表だった。(補足3)

そのように世界のモデルを考えると、直ぐに「法と正義」が成立する「点と線」の上に乗っている国家と、そのような力と知恵のない国家の区別が明確に出来る。「点と線」を自分の上に引き寄せているのが、国連常任理事国と言われる国々であり、その中の最大最強の国は、点と線を自分で描いていると言えるだろう。(補足4)

上記のように、社会における「点と線の正義」というモデルは、国内と世界の両方を見ると理解し易いように思う。

3)文明による文化の破壊: 

そのような世界でどう生きるかだが、国によってもその具体的方法は異なるだろう。例えば、中国なら血縁を大事にして、一族から上級の共産党員を生み出して、そこからの利益誘導を考えるだろう。そのような国で、公務員の利益誘導や汚職を無くすることなど不可能である。「ハエも虎も叩く」の言葉には、その文の主語が大虎であったという“落ち”があることを中国人は知っているだろう。(補足5)

日本では血縁とともに地縁が大きな役割をしてきた。地縁は血縁を超える繋がりであり、全体として公正な社会構築の素地となり得る。それが、日本国民が米国の押し付けた憲法前文にそれほど違和感を感じない理由の一つだろう。また、野党の幼稚な正義論が未だに力を持つ背景にあるのだろう。

しかし、近代資本主義は血縁も地縁も破壊してしまい、現在ではこの国も荒涼とした社会になりつつある。(補足6)正義の社会が映る様な“レントゲン撮影”をすれば、この国の風景も砂漠のなかにオアシスと舗装道路だけ存在するようなものだろう。オアシスを離れたところにあるテント村が日本相撲協会だと考えれば、今回の春日野部屋での障害事件が理解できる。 https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12144-319617/

信用が空間を満たすことが、法と正義の支配が点と線ではなく面と体で成立する為の条件である。今朝も話題になっていた成人式用の貸衣装を業とする「はれのひ」の詐欺的商法や、最近多くなった企業による不正事件の増加は、日本的な“信用を重視する文化”の崩壊を示している。

それは単に歴史の出来事の一つではなく、人類史の必然の流れだろうと思う。つまり、文明と文化が並行して発展してきた近代史は終わり、現代以降は文明による文化の破壊のフェーズなのだろう。経済的に一定以上豊かになった人間は、思考する人間の特技を錆びつかせ、本能のみの存在に還るのである。

それを先送りできるとしたら、政治というサービス業の革新と効率化のみだろう。つまり、行政(警察)、司法、立法の三分野全ての効率を飛躍的に高くし、人知を超えた全く新しいタイプの社会主義の確立が必要だろう。それが出来るのは、天才かAGI(統合的な人工頭脳)である。

シンギュラリティー(補足7)というのは、ひょっとして人類史における明治維新的なものかもしれない。つまり、それは排除(攘夷)すべき対象ではなく、それにより新しい世界を開くということになるかもしれない。勿論、人間が人口頭脳の奴隷にならぬよう、注意が必要である。

(文章語句などかなりの編集あり、22:00)

補足:
1)1)琴光喜の追放などは、たまたま点の上に琴光喜が乗ってしまった結果だろう。ここで補足したいのは、点と線の上の正義でも、その他の分野や地域での不正義の発生を不完全ながら抑止する働きは存在する。
2)“歴史には無知”の領域に入る筆者だが、ウエストファリア条約(1648年)やパリ不戦条約(1928年)などが近代になって作られた、国際的枠組みの基本的なものだと思う。戦争のルールに関しては、ハーグ陸戦条約が知られている。
3)小沢一郎氏が国連中心主義を掲げる代表である。しかし小沢氏は、日本が世界の覇権を握る場合にのみ、国連中心主義が日本の外交姿勢になり得ることを知らないのか、知らないふりをしているのだろう。https://yoshiko-sakurai.jp/2007/10/25/633 宮沢喜一らを面接して、総理大臣を選んだと言われている小沢一郎にしてこの程度なのだ。
4)点と線の近くに居ると表現したのは、彼等常任理事国が正義を定義するのだから、正義は彼等の近くに存在する筈という位の意味である。
5)汚職追放を大々的に担ぎ出したのは、薄煕来である。彼は中国での権力闘争で、それを看板に勝ち抜こうとしたが、自身の不正やスキャンダルで失脚した。不正蓄財は温家宝など殆どの共産党幹部や元幹部で行われていると言われる。
6)経済発展で豊かになることは、人と人が協力する基本的文化を破壊する方向にも働く。更に、農村や山村から都市部への人口流動が全国的に生じ、それを受け入れる大規模団地が各地に作られ、地縁的協力の文化も破壊した。それは防寒のための体毛喪失と、服や着物の文化が同時進行的に人という動物に起こったことと重なって見える。
7)技術的特異点(Technological Singularity)、またはシンギュラリティ(Singularity)とは、人工知能(AGI)の発明が急激な技術の成長を引き起こし、人間文明に計り知れない変化をもたらすという仮説である。ウィキペディア参照。

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