ウクライナの人が、安倍総理の対露外交を軟弱外交と言っている。グレンコ・アンドリー氏は、新著『プーチン幻想』(PHP新書)の中でその理由等を書いているという。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190326-00010001-voice-pol
プーチンの巧みな外交と安倍外交とでは比較にならないが、確かに20数回の首脳会談で何も実質的に進展しなかったことを考えれば、この方の考えを傾聴せざるを得ない。ザギトワの秋田犬を可愛がるのも、プーチン外交の一環だという説も納得できる。https://courrier.jp/news/archives/138852/
メドベージェワに続いてザギトワの「一途な日本愛」が、プーチンにより仕組まれたものだと考えることは、インテリジェンスの方々の間では相当初歩的な分析かもしれない。
ところで、あの秋田犬の名前がマサルであることが気にはなっていたのだが、ふと、佐藤優氏の名前と同じことに気づいた。ロシアでもひょっとして比較的良く知られた日本の名前なのかもしれない。
佐藤優氏とは、鈴木宗男事件の時に逮捕された人である。一月の両首脳会談の直前のラジオ番組で、佐藤優氏が2島は帰ってきますということを自身ありげに話していたことを思い出す。佐藤氏は、その時安倍総理が鈴木宗男氏に会ったことも、話していた。
日露平和条約交渉だが、2島返還で合意しようとしても、なかなかできないように見えている。もうすぐプーチンから2島返還で合意しようという提案があるのかもしれないと思うようになった。
つまり、もう一度上記の話を全て思い出し考察すると、この数ヶ月の消えかけた北方領土交渉は、ロシア側による日本側のための移動したゴールポスト(あるいは新たに作った仮のゴール)を定着させるプロセスなのかもしれない。
両方ともが、やったと思って喜ぶのだが、ロシアは日本がゴールキックに失敗した場面を見て喜び、日本はロシアが作ったダンボール製の仮のゴールに入ったと言って喜ぶのである。
グレンコ・アンドリー氏の記事に戻る。2島返還の基礎となる日ソ共同宣言だが、それはシベリア抑留者の早期期間のためにはやむを得ない合意だったと、アンドリー氏は書いているらしい。数十万人の人質をシベリアに抑留されたあの件は、現在の北朝鮮による拉致問題よりも遥かに巨大な問題である。
そのシベリア抑留者の問題と北方領土問題の関連について、政治家の口や、マスコミの北方領土問題の報道で聞いたことがない。私のブログ記事でも補足で議論したに過ぎない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43856541.html
このシベリヤ抑留の件、「約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。」とある記事には書かれている。
帰還は1946年から1956年に亘ってなされたらしいが、1955年に社会党議員が収容所を訪問して、その貧しい食事に驚いたという記述もある。このような両国の関係の下、日ソ共同宣言は結ばれた。アンドリー氏の意見もそれなりの説得力がある。
北方領土問題は、ハーグ陸戦協定に違反したシベリア抑留問題と同時に考え、交渉し解決しなければならない類のものだった。そのことをもう一度思い出すべきである。もし、日ソ共同宣言での2島返還は無効であるというのなら、シベリア抑留問題も議題に登る筈である。 https://ironna.jp/article/2743
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2019年3月27日水曜日
2019年3月26日火曜日
白鵬が優勝インタビューの際、会場の客に対して三本締め音頭をとった件について
1)大相撲春場所は白鵬の全勝優勝で終わった。最後の取り組みでは、鶴竜が横綱の意地を見せ、まさに大相撲となった。その相撲で、白鵬は右腕の筋肉を痛めたようである。優勝カップも自力で持つことができなかった。
その後、優勝インタビューを受けた時、表題の場面となった。客席に向かってお決まりの発言をしたあと、三本締めを行ったのである。この件、そのような立場にない白鵬が、余計なことをしたと再び問題となっている。
大相撲は神への奉納相撲である。世界を支配する神に、奉納の相撲をとるのが相撲取(力士)の役割であり、相撲取には人々を指揮し、その神聖なる場を支配する立場にはない。(補足1)一般には今や形式だけに過ぎないという意見もあるだろうが、大相撲の立場(公益法人の資格を持つ)からすれば、白鵬の行為は大相撲そのものを否定する行為である。
白鵬には前歴がある。2017年の九州場所でも、優勝インタビュー後に万歳三唱の音頭をとり注意をうけた。この時の注意の意味が、白鵬には十分理解できなかったのだと思う。それよりも、大横綱の彼に、横綱審議委員会という訳の分からない連中が偉そうに注意してくる事が、腹立たしく強く記憶に残ったのだろう。
今回、再び横綱審議委員会が注意してくることは想像に難くない。それが分からない白鵬ではない。しかし、今回は「引退」という切り札があると、白鵬は考えただろうと私は思う。横綱審議委員会の厳重注意と白鵬の引退で、釣り合いが取れる。母国モンゴルの人たちも納得してくれるだろう。
単なる推測に過ぎないが、私の“読み”を続ける。今後相撲をとることを考えれば、今回の怪我はかなり深刻である。もう優勝はないだろうと、白鵬は判断したと思う。巡業も厄介なので、やめるだろう。無駄な治療の努力をするために、病院などに行くほどのこともない。日常生活のための回復は、それで可能な筈であると考えたのだろう。
2)上記2017年の九州場所での件は、異文化で育った白鵬には理解できなかっただろう。そして、以下のようにと思ったのかもしれない。
「現在そして歴史上も、トップに君臨する相撲レスラーなのだから、全勝優勝後に万歳三唱の音頭を取って何が悪いのか。しかし、あの時は甘んじて注意を受けた。」 「しかし、今回は短く“引退します”といえば終わりである。朝青龍が“もう帰ってこい”といったのだから、日本のファンにまで非難が広がれば、モンゴルに帰ろう。」
同じ相撲といっても、モンゴルの格闘技である相撲と、横綱審議委員会が神事であると考えている日本の相撲は、外形的には非常に似ていても本質において全く異なる。日本相撲協会は、その異なる文化圏から、金儲けだけを考えて相撲取を勧誘した。これは、大相撲は神事であるという公益法人にふさわしいやり方なのか?
これまでの大相撲における、モンゴル力士のマナー違反など数々の問題事の背景に、この根本的問題がある。私は、その原点から考えもしないで、嘗てのように朝青龍に対して、そして現在白鵬に対して、彼らが理解できないような注意をすることには反対である。(補足2)
つまり、それは相撲協会とそれを取り巻く横綱審議委員会などの人たちの身勝手であると私は思う。
相撲を今後とも、国際的なスポーツとするのなら、神事の部分を廃止し、公益法人の身分も返上して、新時代の大相撲に大変身してはどうか。どう見てもおかしい張り手などの技、怪我をしやすい土俵とその周辺の形、わかりにくい立会い、現代人には滑稽に映るチョンマゲなど、一気に変えればどうか。
もし、伝統行事にこだわるのなら、異文化の外国の人を相撲界に勧誘する事はやめた方が良い。少なくとも、日本国歌を表彰式のときに明確に歌える人のみを、相撲取にするべきだろう。
今回の件、今後問題が大きくなるだろう。大相撲は、モンゴルを世界の中でもっとも友好的な国にした(補足3)。それを相撲協会の、大きな業績として残すべきだろう。その為に、外国人相撲レスラーには、イントロダクション(初期教育)を徹底的に行い、契約書を交換することが大切だろう。更に、上記のように相撲協会の生まれ変わりをすれば、国民の理解が得られるだけでなく、グローバルなスポーツとして成長するだろう。(補足4)
補足:
1)人々を指揮するのは、神の意思にそった正統な人物の仕事である。大相撲という神事の場を仕切るのも、その正統なる人物から委任を受けた者(その場では、日本相撲協会理事長)の仕事である。この古い考えは、東アジアの伝統的思想であるが、それに根拠を持つのが公益法人・日本相撲協会という組織である。
ここで、神の意思に代わって人間を指揮する(つまり国を治める)のは、中国の皇帝や日本の天皇である。中国の史記や日本書紀は、まさにその人々を指揮する最高の立場の人間(皇帝)の正統性を書いた書物である。
2)白鵬の行った万歳三唱や三本締めは、横綱であっても一人の相撲取が行うことではない。それは、補足1のような理屈以前の問題である。ただ、日本文化の中に生まれた相撲取は、特別な教育をしなくても、あの様な場で三本締めなどする筈はない。それが本当の意味での異文化の壁である。異文化の壁は、学校教育や研修などでは克服できない。そもそも、見えない壁であり、その見えない壁は殆ど克服不可能な壁でもある。(今回の新移民法の問題点であり、EUが苦しむ移民問題でもある。その根本は、異文化の壁は見えない壁であるという事である。)
3)モンゴルは、東日本大震災の時、一人当たりのGDP比で、世界でもっとも多くの義援金を送ってくれた。
4)以前のブログ記事で、相撲の近代化と外国人力士の問題を議論している。それらのうち主なものは、以下の二つである。
①相撲と取り口についての考え方: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/03/blog-post_28.html
②国際化への決断を促する: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post_21.html
その後、優勝インタビューを受けた時、表題の場面となった。客席に向かってお決まりの発言をしたあと、三本締めを行ったのである。この件、そのような立場にない白鵬が、余計なことをしたと再び問題となっている。
大相撲は神への奉納相撲である。世界を支配する神に、奉納の相撲をとるのが相撲取(力士)の役割であり、相撲取には人々を指揮し、その神聖なる場を支配する立場にはない。(補足1)一般には今や形式だけに過ぎないという意見もあるだろうが、大相撲の立場(公益法人の資格を持つ)からすれば、白鵬の行為は大相撲そのものを否定する行為である。
白鵬には前歴がある。2017年の九州場所でも、優勝インタビュー後に万歳三唱の音頭をとり注意をうけた。この時の注意の意味が、白鵬には十分理解できなかったのだと思う。それよりも、大横綱の彼に、横綱審議委員会という訳の分からない連中が偉そうに注意してくる事が、腹立たしく強く記憶に残ったのだろう。
今回、再び横綱審議委員会が注意してくることは想像に難くない。それが分からない白鵬ではない。しかし、今回は「引退」という切り札があると、白鵬は考えただろうと私は思う。横綱審議委員会の厳重注意と白鵬の引退で、釣り合いが取れる。母国モンゴルの人たちも納得してくれるだろう。
単なる推測に過ぎないが、私の“読み”を続ける。今後相撲をとることを考えれば、今回の怪我はかなり深刻である。もう優勝はないだろうと、白鵬は判断したと思う。巡業も厄介なので、やめるだろう。無駄な治療の努力をするために、病院などに行くほどのこともない。日常生活のための回復は、それで可能な筈であると考えたのだろう。
2)上記2017年の九州場所での件は、異文化で育った白鵬には理解できなかっただろう。そして、以下のようにと思ったのかもしれない。
「現在そして歴史上も、トップに君臨する相撲レスラーなのだから、全勝優勝後に万歳三唱の音頭を取って何が悪いのか。しかし、あの時は甘んじて注意を受けた。」 「しかし、今回は短く“引退します”といえば終わりである。朝青龍が“もう帰ってこい”といったのだから、日本のファンにまで非難が広がれば、モンゴルに帰ろう。」
同じ相撲といっても、モンゴルの格闘技である相撲と、横綱審議委員会が神事であると考えている日本の相撲は、外形的には非常に似ていても本質において全く異なる。日本相撲協会は、その異なる文化圏から、金儲けだけを考えて相撲取を勧誘した。これは、大相撲は神事であるという公益法人にふさわしいやり方なのか?
これまでの大相撲における、モンゴル力士のマナー違反など数々の問題事の背景に、この根本的問題がある。私は、その原点から考えもしないで、嘗てのように朝青龍に対して、そして現在白鵬に対して、彼らが理解できないような注意をすることには反対である。(補足2)
つまり、それは相撲協会とそれを取り巻く横綱審議委員会などの人たちの身勝手であると私は思う。
相撲を今後とも、国際的なスポーツとするのなら、神事の部分を廃止し、公益法人の身分も返上して、新時代の大相撲に大変身してはどうか。どう見てもおかしい張り手などの技、怪我をしやすい土俵とその周辺の形、わかりにくい立会い、現代人には滑稽に映るチョンマゲなど、一気に変えればどうか。
もし、伝統行事にこだわるのなら、異文化の外国の人を相撲界に勧誘する事はやめた方が良い。少なくとも、日本国歌を表彰式のときに明確に歌える人のみを、相撲取にするべきだろう。
今回の件、今後問題が大きくなるだろう。大相撲は、モンゴルを世界の中でもっとも友好的な国にした(補足3)。それを相撲協会の、大きな業績として残すべきだろう。その為に、外国人相撲レスラーには、イントロダクション(初期教育)を徹底的に行い、契約書を交換することが大切だろう。更に、上記のように相撲協会の生まれ変わりをすれば、国民の理解が得られるだけでなく、グローバルなスポーツとして成長するだろう。(補足4)
補足:
1)人々を指揮するのは、神の意思にそった正統な人物の仕事である。大相撲という神事の場を仕切るのも、その正統なる人物から委任を受けた者(その場では、日本相撲協会理事長)の仕事である。この古い考えは、東アジアの伝統的思想であるが、それに根拠を持つのが公益法人・日本相撲協会という組織である。
ここで、神の意思に代わって人間を指揮する(つまり国を治める)のは、中国の皇帝や日本の天皇である。中国の史記や日本書紀は、まさにその人々を指揮する最高の立場の人間(皇帝)の正統性を書いた書物である。
2)白鵬の行った万歳三唱や三本締めは、横綱であっても一人の相撲取が行うことではない。それは、補足1のような理屈以前の問題である。ただ、日本文化の中に生まれた相撲取は、特別な教育をしなくても、あの様な場で三本締めなどする筈はない。それが本当の意味での異文化の壁である。異文化の壁は、学校教育や研修などでは克服できない。そもそも、見えない壁であり、その見えない壁は殆ど克服不可能な壁でもある。(今回の新移民法の問題点であり、EUが苦しむ移民問題でもある。その根本は、異文化の壁は見えない壁であるという事である。)
3)モンゴルは、東日本大震災の時、一人当たりのGDP比で、世界でもっとも多くの義援金を送ってくれた。
4)以前のブログ記事で、相撲の近代化と外国人力士の問題を議論している。それらのうち主なものは、以下の二つである。
①相撲と取り口についての考え方: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/03/blog-post_28.html
②国際化への決断を促する: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post_21.html
2019年3月24日日曜日
日本文化の創造性について:原点からの思考の重要性
欠点の指摘には二種類ある。改良出来る欠点についての指摘と、どうすることも出来ない欠点の指摘である。前者を歓迎し、後者を無視するのが賢者の知恵である。日本人でありながら、いつも日本の劣った点を記事にしているのは、日本が心配だからである。
日本人の多くはテレビの軽薄な番組のせいで、日本の創造性について過信している可能性があるので、少し反対の見方を書いてみる。その類のテレビ番組とは、日本の道具や伝統技術を外国人に紹介する番組等である。(最初、youは何しに日本へ?が高い人気を獲得して、類似の番組が多くなった。(補足1))
日本文化の創造性における弱点は、受け入れた文明の利器や制度の原点に戻って、その動機を含む歴史を確認しないことだと思う。原点に戻らない文明は、猿真似である。日本には猿真似の類が山程ある。それは、外国を少しでも見た経験があり、相応の感覚を持った人には分かるだろう。
例えば、学校などの時間を知らせる鐘の音は、ほとんど澪標の鐘のメロディーである。電子化された装置では、どんなメロディーでも発生可能である。何故、どこもかしこも同じ鐘の音を用いるのか? https://www.youtube.com/watch?v=cBVUj4CTdnk
この鐘は、子どもたちが不良少年にならないように、せめて午後10時には家に帰るようにと、その時刻を知らせるために設置された。大阪の婦人会が寄付を集めて大阪市庁舎に最初設置されたという。私もこの鐘の音の由来を知らなかった。https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000023621.html
このことに疑問をもったのは、ある米国の大学で開かれたセミナーに一人で参加した時である。その大学の時計台から流れる鐘の音が、いろいろ変化することに気付いた。ある時、その中に聞き慣れた日本のメロディーがあったからである。
この時、もう一つ面白い経験をした。帰りが早朝出発の飛行機となり、シャトルバスでは間に合わないので、タクシーの手配をホテルにしてもらった。
無事タクシーが到着した次の朝、車が日本のようにセダン型でなく、ハッチバック型だったことに先ず驚いた。更に、一直線で空港に行ってくれるものだと思っていたら、途中で客を拾ったので、またびっくり。最終的に4人程の相乗りとなり、空港についた。
そのタクシーにはメーターがない。お前は15ドル、お前は10ドルと、運転手に言われるままに料金を支払った。田舎町の飛行場から早朝発の飛行機に乗る目的だったので、何の不満も無かった。結局、安く飛行場まで運んでもらった。日本にこのような柔軟な発想があるだろうか?
交通の件で、もう一つその時から四半世紀前の経験を書く。(自分の大きな欠点として、心理的スケールが小さいことがある。その結果、外国に出るのを嫌う傾向があるので、乏しい経験から拾うことになる。)それはポスドクで滞在した国の市内バスでの経験である。
ある路線から別の路線に乗り換える時、Transfer pleaseと言って、乗り換えチケットをもらう。そうすると、一回の市バス運賃で、別の路線も利用して目的地に行けるのである。この制度は今生きているかどうかはしらない。
路線図は、最も適当と思われるところに最初設計するが、個人の目的とは必ずしも一致しない。つまり、同じ交通機関を使い、同程度の距離を移動するにも係わらず、料金の上で個人の間に大きな差別が生じることになる。その差別が、この乗換チケットで解消されるのである。日本国内での同様の差別に日本人は気づくだろうか?
2)個人の間で様々な不平等が生じていても、我慢すれば良いという日本人の習性は、集団で何かを成し遂げるときには大きな力となるだろう。しかし、高度に発展した文明の世界で、更にそれを変更修正して新しい時代の変化に順応し或いは主導するには、全ての個人(政治的経済的実権者)が原点からの思考を身につける必要があると思う。
みおつくしの鐘には、最初明確な目的があった。単に時間を知らせる目的で鐘を設置する時、メロディー可変型にするか固定型にするか、後者なら何をメロディーとするか、などは原点に戻って考えるべきである。その原点をたどること無く、日本の多くの小学校の朝の鐘の音に、同じメロディーの鐘の音を用いているのである。
これと同様のことは、これまで取り入れた西欧文明全てについて言えるだろう。そもそも、憲法とは何か、議会とは何か、民主主義とはなにか、それらはどのような経緯で採用され、何を目的にどのように運用されているか? 今でも遅くないから、それらも原点に戻って考えるべきである。 この原点に戻る習慣が日本にないのは、日本では明確な目的を以て専門家を育て、上手く使うという文化に欠けるからである。(補足2)これはアジア全体について言える可能性が高い。つまり、明治の時代から西欧文化を猿真似しているのである。そして、現代の非常に危険な傾向として、大衆の支配下に入った世界の政治は素人化していることである。
米国のトランプ、フランスのマクロン、イタリアのマッタレッラなど、更に、韓国や日本のトップも同様である。今朝のヤフーニュースでは、イタリアが一帯一路で中国の借金外交を受け入れるというニュースが流れている。専門家のプーチンや習近平には(何を専門とするかは夫々が考えてほしい)、素人集団のG7は敵わない可能性が高い。
補足:
1)この「youは何しに日本へ」に続くのは、「来たのですか?」である。https://www.tv-tokyo.co.jp/youhananishini/ 日本が世界から興味を持たれているという、視聴者大衆の優越意識をくすぐる目的の愚かな番組である。
2)広範な現代文明では、専門家をそだて専門家を上手く利用しなければ、国家の運営はできない。憲法には憲法の、歴史には歴史の、糖尿病には糖尿病の専門家が必要である。これらの間に無数の専門家が存在する。それらを育て、使い、適当な待遇を与えるシステムを作るのが、国家の大事な仕事である。
昨日のテレビ番組で、iPS細胞でノーベル賞を受賞者した山中教授が出演され(辛坊治郎司会の番組)、日本の大学教員の50%以上が非定期雇用の身分であり、研究補助員の80%以上が同様であると紹介されていた。専門家を軽視する日本の文化を象徴している。
その一方、先日東京都23区内にある、留学生を集めるビジネスに組み込まれた三流大学から数百名の外国人留学生が失踪しているとのニュースがある。そこにも多額の私学助成金が国庫より支払われている。https://www.businessinsider.jp/post-187740
この政治の貧困が現在の日本の姿である。日本が明治以降取り入れた政治システムの原点は一体何なのか?目的は何なのか?そんなこと考えもしない国会議員は全議員の95%以上だろう。本当に情けない。日本も韓国(昨日の記事)も似たり寄ったりであり、目くそ鼻くそを笑うの愚を冒している人が、独創性のない日本の評論家には多い。(因みに、日本の主な大学には、政治学科は有っても政治学部はない。)
日本人の多くはテレビの軽薄な番組のせいで、日本の創造性について過信している可能性があるので、少し反対の見方を書いてみる。その類のテレビ番組とは、日本の道具や伝統技術を外国人に紹介する番組等である。(最初、youは何しに日本へ?が高い人気を獲得して、類似の番組が多くなった。(補足1))
日本文化の創造性における弱点は、受け入れた文明の利器や制度の原点に戻って、その動機を含む歴史を確認しないことだと思う。原点に戻らない文明は、猿真似である。日本には猿真似の類が山程ある。それは、外国を少しでも見た経験があり、相応の感覚を持った人には分かるだろう。
例えば、学校などの時間を知らせる鐘の音は、ほとんど澪標の鐘のメロディーである。電子化された装置では、どんなメロディーでも発生可能である。何故、どこもかしこも同じ鐘の音を用いるのか? https://www.youtube.com/watch?v=cBVUj4CTdnk
この鐘は、子どもたちが不良少年にならないように、せめて午後10時には家に帰るようにと、その時刻を知らせるために設置された。大阪の婦人会が寄付を集めて大阪市庁舎に最初設置されたという。私もこの鐘の音の由来を知らなかった。https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000023621.html
このことに疑問をもったのは、ある米国の大学で開かれたセミナーに一人で参加した時である。その大学の時計台から流れる鐘の音が、いろいろ変化することに気付いた。ある時、その中に聞き慣れた日本のメロディーがあったからである。
この時、もう一つ面白い経験をした。帰りが早朝出発の飛行機となり、シャトルバスでは間に合わないので、タクシーの手配をホテルにしてもらった。
無事タクシーが到着した次の朝、車が日本のようにセダン型でなく、ハッチバック型だったことに先ず驚いた。更に、一直線で空港に行ってくれるものだと思っていたら、途中で客を拾ったので、またびっくり。最終的に4人程の相乗りとなり、空港についた。
そのタクシーにはメーターがない。お前は15ドル、お前は10ドルと、運転手に言われるままに料金を支払った。田舎町の飛行場から早朝発の飛行機に乗る目的だったので、何の不満も無かった。結局、安く飛行場まで運んでもらった。日本にこのような柔軟な発想があるだろうか?
交通の件で、もう一つその時から四半世紀前の経験を書く。(自分の大きな欠点として、心理的スケールが小さいことがある。その結果、外国に出るのを嫌う傾向があるので、乏しい経験から拾うことになる。)それはポスドクで滞在した国の市内バスでの経験である。
ある路線から別の路線に乗り換える時、Transfer pleaseと言って、乗り換えチケットをもらう。そうすると、一回の市バス運賃で、別の路線も利用して目的地に行けるのである。この制度は今生きているかどうかはしらない。
路線図は、最も適当と思われるところに最初設計するが、個人の目的とは必ずしも一致しない。つまり、同じ交通機関を使い、同程度の距離を移動するにも係わらず、料金の上で個人の間に大きな差別が生じることになる。その差別が、この乗換チケットで解消されるのである。日本国内での同様の差別に日本人は気づくだろうか?
2)個人の間で様々な不平等が生じていても、我慢すれば良いという日本人の習性は、集団で何かを成し遂げるときには大きな力となるだろう。しかし、高度に発展した文明の世界で、更にそれを変更修正して新しい時代の変化に順応し或いは主導するには、全ての個人(政治的経済的実権者)が原点からの思考を身につける必要があると思う。
みおつくしの鐘には、最初明確な目的があった。単に時間を知らせる目的で鐘を設置する時、メロディー可変型にするか固定型にするか、後者なら何をメロディーとするか、などは原点に戻って考えるべきである。その原点をたどること無く、日本の多くの小学校の朝の鐘の音に、同じメロディーの鐘の音を用いているのである。
これと同様のことは、これまで取り入れた西欧文明全てについて言えるだろう。そもそも、憲法とは何か、議会とは何か、民主主義とはなにか、それらはどのような経緯で採用され、何を目的にどのように運用されているか? 今でも遅くないから、それらも原点に戻って考えるべきである。 この原点に戻る習慣が日本にないのは、日本では明確な目的を以て専門家を育て、上手く使うという文化に欠けるからである。(補足2)これはアジア全体について言える可能性が高い。つまり、明治の時代から西欧文化を猿真似しているのである。そして、現代の非常に危険な傾向として、大衆の支配下に入った世界の政治は素人化していることである。
米国のトランプ、フランスのマクロン、イタリアのマッタレッラなど、更に、韓国や日本のトップも同様である。今朝のヤフーニュースでは、イタリアが一帯一路で中国の借金外交を受け入れるというニュースが流れている。専門家のプーチンや習近平には(何を専門とするかは夫々が考えてほしい)、素人集団のG7は敵わない可能性が高い。
補足:
1)この「youは何しに日本へ」に続くのは、「来たのですか?」である。https://www.tv-tokyo.co.jp/youhananishini/ 日本が世界から興味を持たれているという、視聴者大衆の優越意識をくすぐる目的の愚かな番組である。
2)広範な現代文明では、専門家をそだて専門家を上手く利用しなければ、国家の運営はできない。憲法には憲法の、歴史には歴史の、糖尿病には糖尿病の専門家が必要である。これらの間に無数の専門家が存在する。それらを育て、使い、適当な待遇を与えるシステムを作るのが、国家の大事な仕事である。
昨日のテレビ番組で、iPS細胞でノーベル賞を受賞者した山中教授が出演され(辛坊治郎司会の番組)、日本の大学教員の50%以上が非定期雇用の身分であり、研究補助員の80%以上が同様であると紹介されていた。専門家を軽視する日本の文化を象徴している。
その一方、先日東京都23区内にある、留学生を集めるビジネスに組み込まれた三流大学から数百名の外国人留学生が失踪しているとのニュースがある。そこにも多額の私学助成金が国庫より支払われている。https://www.businessinsider.jp/post-187740
この政治の貧困が現在の日本の姿である。日本が明治以降取り入れた政治システムの原点は一体何なのか?目的は何なのか?そんなこと考えもしない国会議員は全議員の95%以上だろう。本当に情けない。日本も韓国(昨日の記事)も似たり寄ったりであり、目くそ鼻くそを笑うの愚を冒している人が、独創性のない日本の評論家には多い。(因みに、日本の主な大学には、政治学科は有っても政治学部はない。)
2019年3月23日土曜日
韓国の反日の正体:韓国の反日ステッカー
1)驚くべき条例案が韓国で出された。韓国の京畿道(補足1)議会で、一部日本企業を「戦犯企業」と規定し、学校が保有している製品に「本製品は日本の戦犯企業が生産した製品である」と記したステッカーを貼り付けることを義務付ける条例案である。
https://www.youtube.com/watch?v=jOgP1p9gkuA
第1条で「強制動員などで韓国国民に被害を与えたにもかかわらず、公式謝罪、賠償をしない日本の戦犯企業の対応を明確に認識し、児童や生徒の正しい歴史認識を確立することなどを目的としている」と趣旨を説明している。この条例案は与党道議会議員が共同発議し、4月初めに本会議に上程される見通しだという。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032000510&g=int
時事通信社外信部編集委員・前ソウル支局長の吉田健一氏が、韓国の日本軽視の背景を解説する際に引用したのが、左派系新聞・ハンギョレのパク・ビョンス論説委員のコラムであり、氏の記事はその一部を引用している。
https://www.jiji.com/jc/v4?id=20190115world0001
「韓日間の65年体制を可能にした環境と条件は、とっくに変わった。普遍的人権意識が高まり、過去の日帝による野蛮な暴力は、普遍的人権の脈絡で再び照明を当てられている。一方、両国を緊密に縛ってきた経済・安保協力は、韓国の経済成長と南北関係改善などにより、その重要性が大幅に低下した」
ここで65年体制とは、日韓基本条約とそれを基礎にする日韓関係である。つまり、朴論説委員は、日本との政治経済関係の重要性が小さくなったので、「文在寅帝国には、新しい歴史書が必要である。周辺国とは、その歴史の延長上で外交をするべきだ」と言っているに等しい。
開いた口が塞がらないとは、このような時に使う言葉だろう。野蛮な植民地支配というのは、どのような植民地支配なのか? 野蛮なのは、韓国の何の根拠もないご都合主義の歴史修正だろう。
李氏朝鮮時代に5%台だった識字率が1910年からの10年間に10倍近くなったことを、現在の韓国人はどう思うのか? 日本が名古屋や大阪に国立大学を創立する前に、ソウルに国立大学を創立したことをどう思うのか? 日韓基本条約のときに、韓国の国家予算の2年分以上の経済協力金を支払ったのが、野蛮な行為だというのか?
勿論、上記動画でも紹介されているように、このような動きが韓国メディアにより批判的に受け取られる例も多い。しかし、この批判は韓国政治において主なる動きにならないことを知った上での、ご都合主義でしかない。(補足2)
2)上記戦犯企業とは、旧日本の朝鮮半島南部からの徴用工を雇用した企業のことである。この新たに湧き出た徴用工問題についても、日本政府は猛反発して韓国政府に抗議している。
日本の抗議など、理解できる文化を持っていないのだから、全く無駄な努力をしていることになる。1965年の日韓基本条約など、更には、1910年の日韓併合条約なども、現在の韓国には不要だから、無効であるという韓国政府に、何を抗議するのか?
ここで、韓国の反日の原点を探ってみる。先ず、韓国の歴史と関連した祝祭日(休日)を見ると面白い。それらは、3月1日の独立運動記念日(三一節)、6月6日の戦没者慰霊日(顕忠日)、8月15日の解放記念日(光復節)、10月3日の建国記念日(開天節)である。
https://www.jetro.go.jp/world/asia/kr/holiday.html
三一節は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した日本からの独立運動に由来する記念日である。ただ、この運動で死刑や無期懲役に処せられた人は居ないことに注目すべきである。しかし、そのデモを誇張して本に書くのは、以下の述べる韓国の文化の下なら想像に難くない。三一独立運動の後、独立運動を進めていた活動家の李承晩(補足3)らにより、上海に亡命政府がつくられた。
旧宗主国の中国で独立運動をするところが李承晩らしい。亡命政府というが、承認した国は一つもない。
光復節は、日本のポツダム宣言受諾を天皇が全国民に告知した日である。10月3日の建国記念日は神話的な日で、その意味では日本の建国記念日に似ている。これら祝祭日を見る限り、韓国の過去の歴史において、14世紀から20世紀まで統治した李氏朝鮮やその中国による支配などの存在感は低いようだ。それに対して、日本統治の存在感が異常に誇張され、大きい。
以上の事実などを元に考えれば、韓国の反日姿勢の原因として本質的なのは、蒙古の支配、清の支配、(補足4)ロシアの支配など、他国に支配された歴史の中で、「もっとも新しい過去の支配が日本によるものだったこと」だと分かる。
韓国の反日は韓国の自発意思に基づくものではなく、現在或いは将来において支配下に入る重要な国の意思を忖度した結果なのである。それに気がついている韓国人がどれ程いるか、わからない。自分自身を知ることの難しさは、目が外に向いているからであり、自身を知るには知性と想像力が必要である。
被支配の歴史しか無かった韓国には、現在或いは将来の支配国と考える国の意思を忖度して、旧支配国の統治を能力の限りを尽くして貶すという習性が、文化として定着しているのだろう。これは大きな声では言えないが、上念司氏大きな声で言っている。https://www.youtube.com/watch?v=WUb_JSOqvgI(補足5)
論理とか法を用いて交渉することなど、この様な国を対象には、最初から意味がないのである。国際的な環境において、諸外国の理解を得ることに努力するしかない。韓国野党の理解を得る努力をする方法もあるが、韓国野党も背景に持つ文化は同じなので、通じない可能性が高い。兎に角、直接文在寅政権と交渉するのは全く無駄である。
補足:
1)韓国の行政区は、ソウル特別市、釜山など6つの広域市、世宗特別自治市、京畿道など8つの道、済州特別自治道がある。
2)韓国でも、物事を深く考える層では、このバカバカしい動きに本心から批判的だろう。しかし、メディアの大半の批判は、八代弁護士の言葉の通り信用できない。
3)その後米国に亡命し、日本の敗戦後1948年、米国の力により初代韓国大統領になった。
4)元寇は、高麗が蒙古の考えを忖度して、日本を侵略しようとした戦争である。日本を攻撃した兵の殆どは、高麗軍兵士だった。ロシアとの関係においては、李氏朝鮮が清の命令でロシアとの戦いに参加させられた(羅禅征伐)。また、一時期、朝鮮で親露派が権力を握り、高宗がロシア公使館に居住する(露館播遷)という異常事態となった。そして日露戦争の後、日本に併合されたのである。(ウィキペディア、“ロシアと朝鮮の関係”参照)
5)上念氏はたくさんの動画で韓国の心理を、S症候群という医学用語を用いて説明している。ただ、上記動画ではその原因国を北朝鮮だと言っているが、私は中国だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=jOgP1p9gkuA
第1条で「強制動員などで韓国国民に被害を与えたにもかかわらず、公式謝罪、賠償をしない日本の戦犯企業の対応を明確に認識し、児童や生徒の正しい歴史認識を確立することなどを目的としている」と趣旨を説明している。この条例案は与党道議会議員が共同発議し、4月初めに本会議に上程される見通しだという。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032000510&g=int
時事通信社外信部編集委員・前ソウル支局長の吉田健一氏が、韓国の日本軽視の背景を解説する際に引用したのが、左派系新聞・ハンギョレのパク・ビョンス論説委員のコラムであり、氏の記事はその一部を引用している。
https://www.jiji.com/jc/v4?id=20190115world0001
「韓日間の65年体制を可能にした環境と条件は、とっくに変わった。普遍的人権意識が高まり、過去の日帝による野蛮な暴力は、普遍的人権の脈絡で再び照明を当てられている。一方、両国を緊密に縛ってきた経済・安保協力は、韓国の経済成長と南北関係改善などにより、その重要性が大幅に低下した」
ここで65年体制とは、日韓基本条約とそれを基礎にする日韓関係である。つまり、朴論説委員は、日本との政治経済関係の重要性が小さくなったので、「文在寅帝国には、新しい歴史書が必要である。周辺国とは、その歴史の延長上で外交をするべきだ」と言っているに等しい。
開いた口が塞がらないとは、このような時に使う言葉だろう。野蛮な植民地支配というのは、どのような植民地支配なのか? 野蛮なのは、韓国の何の根拠もないご都合主義の歴史修正だろう。
李氏朝鮮時代に5%台だった識字率が1910年からの10年間に10倍近くなったことを、現在の韓国人はどう思うのか? 日本が名古屋や大阪に国立大学を創立する前に、ソウルに国立大学を創立したことをどう思うのか? 日韓基本条約のときに、韓国の国家予算の2年分以上の経済協力金を支払ったのが、野蛮な行為だというのか?
勿論、上記動画でも紹介されているように、このような動きが韓国メディアにより批判的に受け取られる例も多い。しかし、この批判は韓国政治において主なる動きにならないことを知った上での、ご都合主義でしかない。(補足2)
2)上記戦犯企業とは、旧日本の朝鮮半島南部からの徴用工を雇用した企業のことである。この新たに湧き出た徴用工問題についても、日本政府は猛反発して韓国政府に抗議している。
日本の抗議など、理解できる文化を持っていないのだから、全く無駄な努力をしていることになる。1965年の日韓基本条約など、更には、1910年の日韓併合条約なども、現在の韓国には不要だから、無効であるという韓国政府に、何を抗議するのか?
ここで、韓国の反日の原点を探ってみる。先ず、韓国の歴史と関連した祝祭日(休日)を見ると面白い。それらは、3月1日の独立運動記念日(三一節)、6月6日の戦没者慰霊日(顕忠日)、8月15日の解放記念日(光復節)、10月3日の建国記念日(開天節)である。
https://www.jetro.go.jp/world/asia/kr/holiday.html
三一節は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した日本からの独立運動に由来する記念日である。ただ、この運動で死刑や無期懲役に処せられた人は居ないことに注目すべきである。しかし、そのデモを誇張して本に書くのは、以下の述べる韓国の文化の下なら想像に難くない。三一独立運動の後、独立運動を進めていた活動家の李承晩(補足3)らにより、上海に亡命政府がつくられた。
旧宗主国の中国で独立運動をするところが李承晩らしい。亡命政府というが、承認した国は一つもない。
光復節は、日本のポツダム宣言受諾を天皇が全国民に告知した日である。10月3日の建国記念日は神話的な日で、その意味では日本の建国記念日に似ている。これら祝祭日を見る限り、韓国の過去の歴史において、14世紀から20世紀まで統治した李氏朝鮮やその中国による支配などの存在感は低いようだ。それに対して、日本統治の存在感が異常に誇張され、大きい。
以上の事実などを元に考えれば、韓国の反日姿勢の原因として本質的なのは、蒙古の支配、清の支配、(補足4)ロシアの支配など、他国に支配された歴史の中で、「もっとも新しい過去の支配が日本によるものだったこと」だと分かる。
韓国の反日は韓国の自発意思に基づくものではなく、現在或いは将来において支配下に入る重要な国の意思を忖度した結果なのである。それに気がついている韓国人がどれ程いるか、わからない。自分自身を知ることの難しさは、目が外に向いているからであり、自身を知るには知性と想像力が必要である。
被支配の歴史しか無かった韓国には、現在或いは将来の支配国と考える国の意思を忖度して、旧支配国の統治を能力の限りを尽くして貶すという習性が、文化として定着しているのだろう。これは大きな声では言えないが、上念司氏大きな声で言っている。https://www.youtube.com/watch?v=WUb_JSOqvgI(補足5)
論理とか法を用いて交渉することなど、この様な国を対象には、最初から意味がないのである。国際的な環境において、諸外国の理解を得ることに努力するしかない。韓国野党の理解を得る努力をする方法もあるが、韓国野党も背景に持つ文化は同じなので、通じない可能性が高い。兎に角、直接文在寅政権と交渉するのは全く無駄である。
補足:
1)韓国の行政区は、ソウル特別市、釜山など6つの広域市、世宗特別自治市、京畿道など8つの道、済州特別自治道がある。
2)韓国でも、物事を深く考える層では、このバカバカしい動きに本心から批判的だろう。しかし、メディアの大半の批判は、八代弁護士の言葉の通り信用できない。
3)その後米国に亡命し、日本の敗戦後1948年、米国の力により初代韓国大統領になった。
4)元寇は、高麗が蒙古の考えを忖度して、日本を侵略しようとした戦争である。日本を攻撃した兵の殆どは、高麗軍兵士だった。ロシアとの関係においては、李氏朝鮮が清の命令でロシアとの戦いに参加させられた(羅禅征伐)。また、一時期、朝鮮で親露派が権力を握り、高宗がロシア公使館に居住する(露館播遷)という異常事態となった。そして日露戦争の後、日本に併合されたのである。(ウィキペディア、“ロシアと朝鮮の関係”参照)
5)上念氏はたくさんの動画で韓国の心理を、S症候群という医学用語を用いて説明している。ただ、上記動画ではその原因国を北朝鮮だと言っているが、私は中国だと思う。
2019年3月21日木曜日
西欧的組織運営に適合しない日本文化
一週間程前に「身の程を知る日本人」と題して記事を書いた。しかし、その考え方は若い世代や外国文化圏の方には分かりにくいだろう。そこで、もう一度自分でも考えを整理しようと思い、この文章を書くことになった。後半では、日本における組織運営の欠陥について、その延長上で考えてみた。(以下は、あくまで素人のメモとして書いたものです。)
1)日本人の多くは、大自然の中の小さい自分を自覚している。そして、そのように自分を観察する視点を持っている。それが前回言及した日本人の心に定着している「身の程を知る」道徳文化である。この典型的な日本人は、自分が外部に働きかけることよりも、外部世界への調和に高い価値を置く。
この文化は、神道に由来すると私は考えている。日本人は、自分ではあまり気が付いていないのだが、神道に根ざした文化の中で生活している。そして、世界の中の自分を、自身の外から眺める習性を強く持っている。
神道は、外国の方には分かりにくいだろうが、それを理解するには深沢七郎の「楢山節考」という小説が助けになるだろうと思う。簡単に粗筋を補足に書く。(補足1)自分の誕生から死までのすべてを大自然の神に委ねる信仰だと、私は理解する。
この「身の程を知る」という生きる上での規範は、富者と貧者の区別なく、社会的地位も超えたもので、大自然を司る神の意思の下ですべての人間は生きるという信仰であり、道徳文化である。この「自己主張よりも周囲との調和を重視する」民族は、日本人以外には、大きな集団としてはないかもしれない。(補足2)
日本では、この道徳規範のために、他人を批判することは勧められない。自分も他人も所詮小さい存在であり、他人の批判は身の程を知る人間のすることではないからである。これは美点のように見えるが、西欧規準で設計運営される組織の世界では、大きな弱点となると思う。
競争が人間世界の本質であれば、この考え方では、未来の生存が困難になる可能性が高い。批判とその応酬がが議論であり、個人にしても組織にしても、生き残りの為には必要である。「身の程を知る」規範は、神が本当に全てを支配するのなら、或いは、世界が進歩の限界に達し定常的になったとすれば、賢明な考え方だろうが、そうでない場合は弱点となる。
2)その弱点について、以下具体例をあげる。
議論による合意形成の困難:
日本人は立場の異なる相手との話し合いを嫌う。競争や闘争が始まる可能性が高いからである。これは、議論の習慣が日本人の中に無いことと等価である。
議論は、言葉は道具であるという考え方が出来ないと難しい。しかし、日本人は言葉には、霊が宿るという信仰をもっている。言霊信仰である。(補足3)その言葉の重み故、有り難い言葉(お経や定着した標語の類)以外は、口に出すことをためらう。その結果、議論なき合意を目指すのである。(補足4)
日本人の発する言葉の中で「私は」とか「あなたは」という主語のない文章が多い。「私は」で始まる言葉を公衆の門前で言うことは、神への挑戦のように受け取られる。「代議士の選挙演説ならともかく、そんなことを言う身分か?」という視線を受けるだろう。(言葉には出さないだろう。) 言葉の重みと、身の程を知る謙虚さ故、自分の考えを言葉に出すことを怖れるのである。(補足5)
西欧型組織への不適合:
文明の発展は、人間を組織化して成し遂げられてきた。現在の世界は、会社から国家まで、西欧的組織で形成されている。そのプロセスで、自然と調和する人間の姿は無くなっていく。文明は人工的環境であり、そこで生きるには精神的順応が必要である。
組織の運営は、弱点克服(弱者及びマイノリティの切り捨て)と新規発展の両方を議論し、その実行によりなされる。組織の最終意思決定は、そのトップが行う。この人間集団の組織化と、組織内での議論で進行方向を決定する戦術は、「身の程を知る」日本文化とは調和しない。(補足6)
グローバルな競争の世界において生き残る為には、この日本文化との不適合を自覚し、克服しなければならない。それは、自分たちだけでは無理かもしれない。
この組織における不適合な日本人の姿は、日常的にテレビ等で放映されている。何かの問題が生じた時、その原因が追求されることを嫌い、組織の責任者数名が揃って頭を下げる光景である。この様子を滑稽だとか、ふざけているとか思う人間は、日本にはあまりいないのである。
事件や自己の責任を個人に特定することを好まず、組織の連帯責任として希薄化し、最終的に逃れる方法を模索するのである。この連帯責任で話を終わらせては、組織は腐敗し潰れてしまう。そしてことの本質が明らかにならず、失敗に学ぶことができない。
重大な事件等の場合、日本でも個人がむき出しにされ調査されるだろう。それでも、特定の個人の失敗や犯罪として、明確に原因を洗い出せない場合が多い。多くの者が各段階で“印鑑を押している”場合でも、それだけ精査されたという訳ではない。それら書類は、学校の骨格標本のようなもので、本質はそこには残っていない。
このようなケースが国家の最高のレベルでも起こる。最近裁判が始まっている森友問題においても、残された書類だけでは西欧的国家組織において組織の系統にそって判断が積み重ねられている様に見えるだろうが、それは本質ではない。実際はトップの意向か威光が、組織全体の”空気”を創り、その空気に支配された組織が決定したことであり、一個人の責任とするのは酷である。
従って、日本の官庁では決済書類の保存期間を極めて短くしている。出来るだけ具体的な書類は廃棄して、骨組み的な書類のみを残すのだろう。更に、歴史の捏造や隠蔽をし、異常事態は天災的な出来事として話を収束させるのである。事件や事故、或いはもっと大きな戦争も、全て天災のように民族の歴史に記述される。(補足7)
結論:
日本の汎ゆる組織の運営が、西欧のように上手く運ばないのは、その日本文化と西欧型の組織とその運営方法が調和的でないからである。この日本は人類の文明が進化する中で滅びゆくだろう。上手く行っも、ギリシャやローマ(失礼だが)のような遺跡的国家になるだろう。
補足:
1)深沢七郎の名作「楢山節考」は、主人公のおりんという70歳を迎えた老婆が、死を人生の成就として受け入れる姿を描いている。家の跡継ぎに背おられ、信仰の対象である“楢山”の頂上付近に行き、そこで座り凍死する。その“楢山参り”の前日には、その集落の人々と伴に小さな宴を開いて、門出を祝うのである。
つまり、自然の中に生まれ自然の恩恵で生きた人間が、自然に帰るのである。この風習は、作者の創作だろうと言われている。しかし、それが理解されるのは、日本人の心に神道が深く根ざしていることを証明している。(繰り返すが、その神道は伊勢神道ではない。)
2)仏教と神道は調和的関係にあるので、仏教圏の中小国にそのような国があるかもしれない。仏教は、「生病老死」の四苦の本質を理解し、そこからの開放(つまり解脱)を目的とする宗教だと理解する。この世(現世)の悩みは、全てその形ある自分の身体に関係する。しかし、自分の本質は精神にあるので、その精神の救いは形ある身体とその欲望を否定することにあるはずと考えるだろう。 その身体を虐める修行の果に、自然の中に消滅する自分を感じるトランス状態を解脱というのなら、上に紹介した楢山参りの目指すことと同じである。鎌倉時代から仏教の殿堂である比叡山の千日回峰行もその一つだろうし、四国88ヶ所の巡礼参りもその大衆版だろう。
3)受験生のいる家庭では、落ちるという言葉を口に出さないようにする。多分、老人のいる家庭では、4月2日には祝の行事は行わないだろう。42は「死に」と読めるからである。般若心経は意味がわからなくても、ありがたく聞く。例は山程あるが、それでも「言葉に霊が宿る」という指摘を受け入れる人は殆ど居ない。
4)西欧的交渉においては、双方が論理に基づき自己の正当性を主張する。一方、日本人同志の交渉では、双方が中間点(落とし所)を探す。
5)因みに、私自身も専門外のことをブログ記事に書くにあたって、かつての同業の先生方の「専門家でも無いくせに・・・」という嘲笑を意識した。しかし、その昔の専門分野での一定の自信と、権威筋から遠い存在であったので、その圧力は跳ね除けることが出来たのである。
6)日産の経営が傾いた時、カルロス・ゴーン氏がルノーから派遣された。彼が行ったことは会社内の弱者(非採算部門)の切り捨てである。日本人経営者がそれを出来なかったのである。シャープも多分同様だろう。今回はスキップするが、この日本文化では、汎ゆる組織でミニ天皇が生まれる可能性がある。東芝が傾いたのは、ミニ天皇が米国ウエスティングハウスを買収したからだろう。 尚、現在西欧社会がマイノリティーの権利保障を問題視しているのは、元々の弱者切り捨ての社会における反作用である。
7)第二次大戦も終わってしまえば、天災のように記憶されるのみである。責任者は居ないし、失敗の理由も公的には明らかにされない。「平和のありがたさ」を後世に語り継ぐことしか出来ない。一般国民は、軍備は戦争をするものであり平和の敵であると考える。「平和が軍備とそれによる外交によりもたらされる」という論理は、まさにコペルニクス的転回というべきである。与党と官僚は、ごまかしと隠蔽により、ミサイル開発するしか方法がないのである。
1)日本人の多くは、大自然の中の小さい自分を自覚している。そして、そのように自分を観察する視点を持っている。それが前回言及した日本人の心に定着している「身の程を知る」道徳文化である。この典型的な日本人は、自分が外部に働きかけることよりも、外部世界への調和に高い価値を置く。
この文化は、神道に由来すると私は考えている。日本人は、自分ではあまり気が付いていないのだが、神道に根ざした文化の中で生活している。そして、世界の中の自分を、自身の外から眺める習性を強く持っている。
神道は、外国の方には分かりにくいだろうが、それを理解するには深沢七郎の「楢山節考」という小説が助けになるだろうと思う。簡単に粗筋を補足に書く。(補足1)自分の誕生から死までのすべてを大自然の神に委ねる信仰だと、私は理解する。
この「身の程を知る」という生きる上での規範は、富者と貧者の区別なく、社会的地位も超えたもので、大自然を司る神の意思の下ですべての人間は生きるという信仰であり、道徳文化である。この「自己主張よりも周囲との調和を重視する」民族は、日本人以外には、大きな集団としてはないかもしれない。(補足2)
日本では、この道徳規範のために、他人を批判することは勧められない。自分も他人も所詮小さい存在であり、他人の批判は身の程を知る人間のすることではないからである。これは美点のように見えるが、西欧規準で設計運営される組織の世界では、大きな弱点となると思う。
競争が人間世界の本質であれば、この考え方では、未来の生存が困難になる可能性が高い。批判とその応酬がが議論であり、個人にしても組織にしても、生き残りの為には必要である。「身の程を知る」規範は、神が本当に全てを支配するのなら、或いは、世界が進歩の限界に達し定常的になったとすれば、賢明な考え方だろうが、そうでない場合は弱点となる。
2)その弱点について、以下具体例をあげる。
議論による合意形成の困難:
日本人は立場の異なる相手との話し合いを嫌う。競争や闘争が始まる可能性が高いからである。これは、議論の習慣が日本人の中に無いことと等価である。
議論は、言葉は道具であるという考え方が出来ないと難しい。しかし、日本人は言葉には、霊が宿るという信仰をもっている。言霊信仰である。(補足3)その言葉の重み故、有り難い言葉(お経や定着した標語の類)以外は、口に出すことをためらう。その結果、議論なき合意を目指すのである。(補足4)
日本人の発する言葉の中で「私は」とか「あなたは」という主語のない文章が多い。「私は」で始まる言葉を公衆の門前で言うことは、神への挑戦のように受け取られる。「代議士の選挙演説ならともかく、そんなことを言う身分か?」という視線を受けるだろう。(言葉には出さないだろう。) 言葉の重みと、身の程を知る謙虚さ故、自分の考えを言葉に出すことを怖れるのである。(補足5)
西欧型組織への不適合:
文明の発展は、人間を組織化して成し遂げられてきた。現在の世界は、会社から国家まで、西欧的組織で形成されている。そのプロセスで、自然と調和する人間の姿は無くなっていく。文明は人工的環境であり、そこで生きるには精神的順応が必要である。
組織の運営は、弱点克服(弱者及びマイノリティの切り捨て)と新規発展の両方を議論し、その実行によりなされる。組織の最終意思決定は、そのトップが行う。この人間集団の組織化と、組織内での議論で進行方向を決定する戦術は、「身の程を知る」日本文化とは調和しない。(補足6)
グローバルな競争の世界において生き残る為には、この日本文化との不適合を自覚し、克服しなければならない。それは、自分たちだけでは無理かもしれない。
この組織における不適合な日本人の姿は、日常的にテレビ等で放映されている。何かの問題が生じた時、その原因が追求されることを嫌い、組織の責任者数名が揃って頭を下げる光景である。この様子を滑稽だとか、ふざけているとか思う人間は、日本にはあまりいないのである。
事件や自己の責任を個人に特定することを好まず、組織の連帯責任として希薄化し、最終的に逃れる方法を模索するのである。この連帯責任で話を終わらせては、組織は腐敗し潰れてしまう。そしてことの本質が明らかにならず、失敗に学ぶことができない。
重大な事件等の場合、日本でも個人がむき出しにされ調査されるだろう。それでも、特定の個人の失敗や犯罪として、明確に原因を洗い出せない場合が多い。多くの者が各段階で“印鑑を押している”場合でも、それだけ精査されたという訳ではない。それら書類は、学校の骨格標本のようなもので、本質はそこには残っていない。
このようなケースが国家の最高のレベルでも起こる。最近裁判が始まっている森友問題においても、残された書類だけでは西欧的国家組織において組織の系統にそって判断が積み重ねられている様に見えるだろうが、それは本質ではない。実際はトップの意向か威光が、組織全体の”空気”を創り、その空気に支配された組織が決定したことであり、一個人の責任とするのは酷である。
従って、日本の官庁では決済書類の保存期間を極めて短くしている。出来るだけ具体的な書類は廃棄して、骨組み的な書類のみを残すのだろう。更に、歴史の捏造や隠蔽をし、異常事態は天災的な出来事として話を収束させるのである。事件や事故、或いはもっと大きな戦争も、全て天災のように民族の歴史に記述される。(補足7)
結論:
日本の汎ゆる組織の運営が、西欧のように上手く運ばないのは、その日本文化と西欧型の組織とその運営方法が調和的でないからである。この日本は人類の文明が進化する中で滅びゆくだろう。上手く行っも、ギリシャやローマ(失礼だが)のような遺跡的国家になるだろう。
補足:
1)深沢七郎の名作「楢山節考」は、主人公のおりんという70歳を迎えた老婆が、死を人生の成就として受け入れる姿を描いている。家の跡継ぎに背おられ、信仰の対象である“楢山”の頂上付近に行き、そこで座り凍死する。その“楢山参り”の前日には、その集落の人々と伴に小さな宴を開いて、門出を祝うのである。
つまり、自然の中に生まれ自然の恩恵で生きた人間が、自然に帰るのである。この風習は、作者の創作だろうと言われている。しかし、それが理解されるのは、日本人の心に神道が深く根ざしていることを証明している。(繰り返すが、その神道は伊勢神道ではない。)
2)仏教と神道は調和的関係にあるので、仏教圏の中小国にそのような国があるかもしれない。仏教は、「生病老死」の四苦の本質を理解し、そこからの開放(つまり解脱)を目的とする宗教だと理解する。この世(現世)の悩みは、全てその形ある自分の身体に関係する。しかし、自分の本質は精神にあるので、その精神の救いは形ある身体とその欲望を否定することにあるはずと考えるだろう。 その身体を虐める修行の果に、自然の中に消滅する自分を感じるトランス状態を解脱というのなら、上に紹介した楢山参りの目指すことと同じである。鎌倉時代から仏教の殿堂である比叡山の千日回峰行もその一つだろうし、四国88ヶ所の巡礼参りもその大衆版だろう。
3)受験生のいる家庭では、落ちるという言葉を口に出さないようにする。多分、老人のいる家庭では、4月2日には祝の行事は行わないだろう。42は「死に」と読めるからである。般若心経は意味がわからなくても、ありがたく聞く。例は山程あるが、それでも「言葉に霊が宿る」という指摘を受け入れる人は殆ど居ない。
4)西欧的交渉においては、双方が論理に基づき自己の正当性を主張する。一方、日本人同志の交渉では、双方が中間点(落とし所)を探す。
5)因みに、私自身も専門外のことをブログ記事に書くにあたって、かつての同業の先生方の「専門家でも無いくせに・・・」という嘲笑を意識した。しかし、その昔の専門分野での一定の自信と、権威筋から遠い存在であったので、その圧力は跳ね除けることが出来たのである。
6)日産の経営が傾いた時、カルロス・ゴーン氏がルノーから派遣された。彼が行ったことは会社内の弱者(非採算部門)の切り捨てである。日本人経営者がそれを出来なかったのである。シャープも多分同様だろう。今回はスキップするが、この日本文化では、汎ゆる組織でミニ天皇が生まれる可能性がある。東芝が傾いたのは、ミニ天皇が米国ウエスティングハウスを買収したからだろう。 尚、現在西欧社会がマイノリティーの権利保障を問題視しているのは、元々の弱者切り捨ての社会における反作用である。
7)第二次大戦も終わってしまえば、天災のように記憶されるのみである。責任者は居ないし、失敗の理由も公的には明らかにされない。「平和のありがたさ」を後世に語り継ぐことしか出来ない。一般国民は、軍備は戦争をするものであり平和の敵であると考える。「平和が軍備とそれによる外交によりもたらされる」という論理は、まさにコペルニクス的転回というべきである。与党と官僚は、ごまかしと隠蔽により、ミサイル開発するしか方法がないのである。
2019年3月17日日曜日
日本復活の処方箋:日本の中の隠れた境界線を破壊すべき
1)人間の歴史は、一緒に生きる仲間の範囲を決めて、その外との間に境界線を引く行為の物語だと考えられる。人は農業を覚えてから、その仲間の範囲が地図上の境界線に一致する場合が多くなったが、そうではない境界も依然として大きな存在である。
ニュージーランドでの銃撃事件の報道を見て、そのように考えた。同じ国に住んでも、仲間の範囲を決める境界線が複雑に入り組む状況を、20世紀後半から21世紀の世界は人為的に作ってしまったのである。その結果、意図的、恣意的、偶発的な境界線上の争い、殺し合いの頻度が増加するは、当たり前である。
イスラム教信者とキリスト教信者の間の境界線は、それらを固く信じる人達にとって、地理上の境界よりも明確だと思う。経済が上手く行かなくなると、ガス爆発のようにあのような事件が起こる可能性がある。防止策としては経済状況の改善と、地理上の境界線のみを残して、他の境界線が出来ないように、国家の指導者が政策立案するしかない。
その様に考えると、安倍政権は大きな犯罪的行為をしたことになる。新入管法である。頭の悪い人が政界を牛耳る我が国の未来は暗い。そのそもそもの原因は、日本の政界が隠れた特別区の人物に独占されているからである。
2)日本復活の処方箋:
上記の明確に境界線が見える場合は、その対策や予防の方法は比較的簡単に考えつく。経済的弱者を作らないことと、異質の文化を持つ地方からの移民は受け入れないことなどである。
一方、偏光グラスや透視メガネなどを用いないと見えない類の境界があり、それが現実の政治を左右する場合もある。あのような新入管法(移民法)が簡単に日本の国会で可決されるのは、日本の政界が非常に狭い範囲の無能な連中によって支配されているからである。
それは、代々政治を職業とする田舎の人たち、元官僚の権威に従順な人たち、そして、明治革命を行った薩長土肥の人脈にある人たちの複合体である。それを守る為に彼らが利用する法的手段は、2倍以上ある一票の格差と小選挙区制、更に当該選挙区の住民でなくても立候補可能な選挙制度である。東京に住みながら、中国地方や四国地方の小さい選挙区から立候補できるのである。(補足1)
つまり、江戸末期に天皇家を利用して実権を握った薩長土肥の人たちは、殆どが東京に移り住んだ。そこから群馬など周辺諸県に移った人(例:楫取素彦群馬県令)も多かったと思うが、それらの人脈にある比較的優秀な人物が東大文系卒から官僚になり、その後“政界に天下り”をして日本を牛耳ることになった。日本(或いは東アジア全体)では、其の種の支配層的人脈にある人物は、将来の成功を80%程度それに依存して決めることが可能である。(補足2)
改善方法は、見えない人脈で作られた境界を破壊することである。例えば、これまで似たことを何度も書いてきたが、選挙区を道州制中選挙区制に替えて、立候補資格をその住民に限定し、更に一票の格差を完全撤廃することである。日本を10位の道州に分割して選挙区とし、現在の都道府県単位の選挙区を廃止するのである。勿論、選挙区だけでなく将来的には現在の都道府県を廃止すべきである。(補足3)それは第二の廃藩置県的改革である。
面白みの全く無い東大文系卒から官僚になった人間の天下り先でしかない日本政界と、東京一極集中の日本に未来などある訳はない。(補足4)政界には、もっと広い範囲で人材を送り込む必要がある。
官僚にはリーダーシップに従属する性質の人物が適する。一方、政治家はその反対側の性質が適している。つまり、政治家はリーダーシップを発揮する人間でなくてはならない。
土佐の家系から出た吉田茂は元内務官僚であり、日本国のリーダーシップをとる立場にありながら、マッカーサーの権威の蛇口となってマッカーサー内閣の筆頭官僚となった様に見える。その後の自民党長期政権を担った、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘など多くの元首相は、全て同様の経歴を持つ米国の傀儡政権の筆頭官僚だったに過ぎない。(補足5)
それを無批判に支持してきたのは、全く無能な田舎出身の自民党議員と、理想家なのか他国の利益代表なのかわからない野党議員である。前者は、東京の元官僚政治家たちが全国の田舎に作り上げた人脈の出身だろうと思う。
小中高の18歳までの教育において、明治以降の日本史はそのエッセンスを抜いて駆け足で教育されるのは、その歴史を隠すためだろう。未だに日本の内閣が、岸信介の孫が首相で吉田茂の孫が副首相兼財務大臣という、薩長土肥支配であることを、もっと深刻に日本人は考えるべきである。
補足:
1)現在の総理大臣安倍晋三氏は、東京生まれであるが、本籍地を山口県に置いている。そこから立候補するためだろう。
2)研究者として全く無能な人物(筆頭論文が主要研究論文誌に全く無い人)が、日本最大の理系研究所の首脳として出世したケースを知っている。それは、人脈登用の結果であり、其の人は同様の人脈の上にあった上司によって引き上げられた様だ。同様な現象が、自民党二階幹事長の人物登用に見られるだけでなく、恐らく汎ゆる日本の組織に見られるだろう。
因みに、人脈による登用は人材の劣化を伴う。それを見事に表現した言葉がある。 First-rate people hire first-rate people;second-rate people hire third-rate people.(Leo Calvin Rosten)。
3)現在の都道府県の区割りは、記者も自動車も殆どなかった時代に作られた。その区割りが、新幹線や高速道路が日本全国を走り、一つの県に一つ以上の飛行場がある時代にふさわしい筈がない。この何もしない行政を放置して、日本が来世紀に一応の体裁をとって残存できる筈がない。
4)大阪維新の会の大阪都構想を攻撃する人が多いが、これも東京一極集中の日本を改善する一つの方向上にある。
5)福田赳夫、宮沢喜一、大平正芳なども同様である。或る人が初めて宮沢喜一に政治に関する意見を求めた時、先ず「君は何期?」と聞いたそうである。多分、その人が自己紹介で「大蔵省の出身です」とでも言ったのだろう。「何期?」とは、東大法学部の何期卒業なのか?という意味である。東大法学部の卒業生以外は彼の頭になく、その学生となり優秀な成績で卒業したことが人生最大のachievementだったのだろう。面白くない人物の代表だ。
ニュージーランドでの銃撃事件の報道を見て、そのように考えた。同じ国に住んでも、仲間の範囲を決める境界線が複雑に入り組む状況を、20世紀後半から21世紀の世界は人為的に作ってしまったのである。その結果、意図的、恣意的、偶発的な境界線上の争い、殺し合いの頻度が増加するは、当たり前である。
イスラム教信者とキリスト教信者の間の境界線は、それらを固く信じる人達にとって、地理上の境界よりも明確だと思う。経済が上手く行かなくなると、ガス爆発のようにあのような事件が起こる可能性がある。防止策としては経済状況の改善と、地理上の境界線のみを残して、他の境界線が出来ないように、国家の指導者が政策立案するしかない。
その様に考えると、安倍政権は大きな犯罪的行為をしたことになる。新入管法である。頭の悪い人が政界を牛耳る我が国の未来は暗い。そのそもそもの原因は、日本の政界が隠れた特別区の人物に独占されているからである。
2)日本復活の処方箋:
上記の明確に境界線が見える場合は、その対策や予防の方法は比較的簡単に考えつく。経済的弱者を作らないことと、異質の文化を持つ地方からの移民は受け入れないことなどである。
一方、偏光グラスや透視メガネなどを用いないと見えない類の境界があり、それが現実の政治を左右する場合もある。あのような新入管法(移民法)が簡単に日本の国会で可決されるのは、日本の政界が非常に狭い範囲の無能な連中によって支配されているからである。
それは、代々政治を職業とする田舎の人たち、元官僚の権威に従順な人たち、そして、明治革命を行った薩長土肥の人脈にある人たちの複合体である。それを守る為に彼らが利用する法的手段は、2倍以上ある一票の格差と小選挙区制、更に当該選挙区の住民でなくても立候補可能な選挙制度である。東京に住みながら、中国地方や四国地方の小さい選挙区から立候補できるのである。(補足1)
つまり、江戸末期に天皇家を利用して実権を握った薩長土肥の人たちは、殆どが東京に移り住んだ。そこから群馬など周辺諸県に移った人(例:楫取素彦群馬県令)も多かったと思うが、それらの人脈にある比較的優秀な人物が東大文系卒から官僚になり、その後“政界に天下り”をして日本を牛耳ることになった。日本(或いは東アジア全体)では、其の種の支配層的人脈にある人物は、将来の成功を80%程度それに依存して決めることが可能である。(補足2)
改善方法は、見えない人脈で作られた境界を破壊することである。例えば、これまで似たことを何度も書いてきたが、選挙区を道州制中選挙区制に替えて、立候補資格をその住民に限定し、更に一票の格差を完全撤廃することである。日本を10位の道州に分割して選挙区とし、現在の都道府県単位の選挙区を廃止するのである。勿論、選挙区だけでなく将来的には現在の都道府県を廃止すべきである。(補足3)それは第二の廃藩置県的改革である。
面白みの全く無い東大文系卒から官僚になった人間の天下り先でしかない日本政界と、東京一極集中の日本に未来などある訳はない。(補足4)政界には、もっと広い範囲で人材を送り込む必要がある。
官僚にはリーダーシップに従属する性質の人物が適する。一方、政治家はその反対側の性質が適している。つまり、政治家はリーダーシップを発揮する人間でなくてはならない。
土佐の家系から出た吉田茂は元内務官僚であり、日本国のリーダーシップをとる立場にありながら、マッカーサーの権威の蛇口となってマッカーサー内閣の筆頭官僚となった様に見える。その後の自民党長期政権を担った、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘など多くの元首相は、全て同様の経歴を持つ米国の傀儡政権の筆頭官僚だったに過ぎない。(補足5)
それを無批判に支持してきたのは、全く無能な田舎出身の自民党議員と、理想家なのか他国の利益代表なのかわからない野党議員である。前者は、東京の元官僚政治家たちが全国の田舎に作り上げた人脈の出身だろうと思う。
小中高の18歳までの教育において、明治以降の日本史はそのエッセンスを抜いて駆け足で教育されるのは、その歴史を隠すためだろう。未だに日本の内閣が、岸信介の孫が首相で吉田茂の孫が副首相兼財務大臣という、薩長土肥支配であることを、もっと深刻に日本人は考えるべきである。
補足:
1)現在の総理大臣安倍晋三氏は、東京生まれであるが、本籍地を山口県に置いている。そこから立候補するためだろう。
2)研究者として全く無能な人物(筆頭論文が主要研究論文誌に全く無い人)が、日本最大の理系研究所の首脳として出世したケースを知っている。それは、人脈登用の結果であり、其の人は同様の人脈の上にあった上司によって引き上げられた様だ。同様な現象が、自民党二階幹事長の人物登用に見られるだけでなく、恐らく汎ゆる日本の組織に見られるだろう。
因みに、人脈による登用は人材の劣化を伴う。それを見事に表現した言葉がある。 First-rate people hire first-rate people;second-rate people hire third-rate people.(Leo Calvin Rosten)。
3)現在の都道府県の区割りは、記者も自動車も殆どなかった時代に作られた。その区割りが、新幹線や高速道路が日本全国を走り、一つの県に一つ以上の飛行場がある時代にふさわしい筈がない。この何もしない行政を放置して、日本が来世紀に一応の体裁をとって残存できる筈がない。
4)大阪維新の会の大阪都構想を攻撃する人が多いが、これも東京一極集中の日本を改善する一つの方向上にある。
5)福田赳夫、宮沢喜一、大平正芳なども同様である。或る人が初めて宮沢喜一に政治に関する意見を求めた時、先ず「君は何期?」と聞いたそうである。多分、その人が自己紹介で「大蔵省の出身です」とでも言ったのだろう。「何期?」とは、東大法学部の何期卒業なのか?という意味である。東大法学部の卒業生以外は彼の頭になく、その学生となり優秀な成績で卒業したことが人生最大のachievementだったのだろう。面白くない人物の代表だ。
2019年3月11日月曜日
米国は、米軍駐留を同盟国相手の商売にしようとしているのか?
1)3月8日(2019年)のブルンバーグの記事によると、米国は同盟国に駐留する米軍の経費を100%駐留相手国に要求するだけでなく、更に50%のプレミアムを上乗せして、米国の商売にすることを考えているという。
(TrumpSeeks Huge Premium From Allies Hosting U.S. Troops By Nick Wadhams and Jennifer Jacobs;2019年3月8日 14:00 JST)
このニュースは、国際政治評論家の田中宇氏のメルマガで初めて知ったのだが、検索すると、他にもジャパンタイムズを含めて、多くのメディアで報じられている。
米軍駐留費の増額は、既にニュースになっていたが、それは実際に必要な経費と駐留相手国の負担分との差額を、現在よりも小さくするというレベルの話だと思っていた。この線での話として、既に米国と合意している韓国の駐留経費8%増がある。
日本は、他国に比べて負担率が非常に大きいが、それでもトランプ大統領は駐留経費の多少の増額を言ってくるだろうと思われていた。
しかし、ブルンバーグの報じるトランプの考えは、米国の赤字解消のため相手国に米軍駐留経費の全額負担だけでなく、50%の儲け分をのせて払わせようというのである。トンデモナイ話である。
この話に関して、田中氏はメルマガの中で、韓国は将来的に米軍の撤退を考えるだろうし、ドイツもEU全体の防衛構想の中で、米軍の駐留をなくする方向で解決するだろうと書いている。つまり、日本だけがこれまでの”思いやり予算”などの経緯にお構いなしに、倍額近い駐留費増を要求する米国に従順だろうと書いている。
トランプは、そんな考えを持つトンデモナイ大統領であるが、もし田中氏の分析通りなら、同様に日本政府もトンデモナイ政府である。
トランプ外交をマッドマン理論で解釈する向きが多かったが、完全に間違っているのかもしれない。つまり、マッドマンを演じているのではなく、本当にマッドマンなのだ。米軍の駐留に至った過去の経緯などお構いなしに、駐留経費を大幅増加しなければ、後は野となれ山となれというのだろう。
2)田中宇氏は、「隠れ多極主義」という言葉で、ずっと以前から米国は世界の多極化を考えていると言ってきた。そのとおりなら、トランプの考えはオリジナルではない可能性もある。米国支配層は、丁度良い時期に良い大統領が就任したので、荒療治はトランプにやってもらおうと考えているかもしれない。
トランプは、米国と他国との貿易不均衡問題でも、二国間で輸入と輸出が釣り合わないと、もっと米国製品を買うべきだと喚いている。これでは物々交換の古代の経済と同じではないのか。
金正恩と恋におちいったとか、訳の分からないことを言ったり、無茶な要求を同盟国に押し付けたりと、本当に厄介な大統領である。トランプ大統領をグローバリズムと対決する偉大な大統領だと持ち上げている馬渕大使に、この話に対して是非コメントしてもらいたいものだ。
(TrumpSeeks Huge Premium From Allies Hosting U.S. Troops By Nick Wadhams and Jennifer Jacobs;2019年3月8日 14:00 JST)
このニュースは、国際政治評論家の田中宇氏のメルマガで初めて知ったのだが、検索すると、他にもジャパンタイムズを含めて、多くのメディアで報じられている。
米軍駐留費の増額は、既にニュースになっていたが、それは実際に必要な経費と駐留相手国の負担分との差額を、現在よりも小さくするというレベルの話だと思っていた。この線での話として、既に米国と合意している韓国の駐留経費8%増がある。
日本は、他国に比べて負担率が非常に大きいが、それでもトランプ大統領は駐留経費の多少の増額を言ってくるだろうと思われていた。
しかし、ブルンバーグの報じるトランプの考えは、米国の赤字解消のため相手国に米軍駐留経費の全額負担だけでなく、50%の儲け分をのせて払わせようというのである。トンデモナイ話である。
この話に関して、田中氏はメルマガの中で、韓国は将来的に米軍の撤退を考えるだろうし、ドイツもEU全体の防衛構想の中で、米軍の駐留をなくする方向で解決するだろうと書いている。つまり、日本だけがこれまでの”思いやり予算”などの経緯にお構いなしに、倍額近い駐留費増を要求する米国に従順だろうと書いている。
トランプは、そんな考えを持つトンデモナイ大統領であるが、もし田中氏の分析通りなら、同様に日本政府もトンデモナイ政府である。
トランプ外交をマッドマン理論で解釈する向きが多かったが、完全に間違っているのかもしれない。つまり、マッドマンを演じているのではなく、本当にマッドマンなのだ。米軍の駐留に至った過去の経緯などお構いなしに、駐留経費を大幅増加しなければ、後は野となれ山となれというのだろう。
2)田中宇氏は、「隠れ多極主義」という言葉で、ずっと以前から米国は世界の多極化を考えていると言ってきた。そのとおりなら、トランプの考えはオリジナルではない可能性もある。米国支配層は、丁度良い時期に良い大統領が就任したので、荒療治はトランプにやってもらおうと考えているかもしれない。
トランプは、米国と他国との貿易不均衡問題でも、二国間で輸入と輸出が釣り合わないと、もっと米国製品を買うべきだと喚いている。これでは物々交換の古代の経済と同じではないのか。
金正恩と恋におちいったとか、訳の分からないことを言ったり、無茶な要求を同盟国に押し付けたりと、本当に厄介な大統領である。トランプ大統領をグローバリズムと対決する偉大な大統領だと持ち上げている馬渕大使に、この話に対して是非コメントしてもらいたいものだ。
身の程を知る日本人
1)「身の程を知る」ことは、日本人社会では常識だと思う。しかし、それは良い面と良くない面の両方を持つ。善良なる社会人を産む背景としては、理想的かもしれないが、その一方で国のリーダーや大企業の創業者などを産む背景と考えた場合、貧しい結果しか得られないということである。
日本の中で、“身の程を知らない人”を初めて観たと記憶するのは、テレビの画面で「金儲けは悪いことですか?」と言い放った村上世彰氏や、村上氏にインサイダー情報を与えたと言われた堀江貴文氏の事件である。勿論、一般に金儲けは悪いことではないが、決算書虚偽記載やインサイダー取引は悪いことである。更に、社会や法の弱点を突いての金儲けは、犯罪としては成立しないが、強欲的として批判されるだろう。
その真相はわからないものの、有罪とされ多額の追徴金を支払わされたことは事実である。昨日のTV番組「そこまで言って委員会」でも、この事件は話題になっていたが、真相は闇の中にあるという印象だった。その村上氏は、現在も日本での金融取引等で儲け、シンガポールに住み節税しているらしい。やはり、この人は“身の程を知らぬ強欲人間”(補足1)であることは事実だろう。
この事件、厳密な意味での法治国家であれば、有罪になっていたかどうか疑わしいのかもしれない。過去の刑事事件の顛末を見ると、そう考えてしまう。つまり、日本では検察や司法が時代劇の水戸黄門的裁きをしている可能性が高い。この件は別途議論する予定である。(補足2)
今回のカルロス・ゴーン氏の逮捕劇も、上記事件やライブドア事件の時と同様の感覚で観た。ただし、ゴーン氏は外国人であり、この国の文化の中で育った訳ではない。国際的な意味で、優秀な経営者に過ぎないのだろう。あの時と同様の感覚で逮捕が為されたのなら、検察は負ける可能性があると思う。(補足3)現在の犯罪捜査と裁判のあり方は、「身の程を知る日本文化」に頼った人治国家のものであると思う。
2)日本人以外の大陸系の多くの人たちには、「身の程を知る」という考えなどあまり無いようだ。その差は、生存に要求される視野の広さと時間スケールにおいて、大陸と日本では全く異なるからだと思う。 「身の程を知る文化」は、自分の近傍のグループが調和的であれば、あとは自然の偉大な力が全体の調和を約束してくれると信じる文化である。この文化の背景には、自然崇拝(古来の神道)があると思う。(これは伊勢神道とは異なる。2月の記事「天皇家と国家神道について」参照:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/02/blog-post_22.html)
日本人は、この偉大な自然の中に生きる人間であるから、個人は集団の中に調和すれば(埋もれることを考えれば)、生き残ることが可能である。そして、専ら隣近所と過去が視野である。その視野を超えた世界は、観測の世界ではなく想像の世界である。この文化は、日本人の島国根性の正体だと考える。
日本独特の「箱庭や盆栽」は、その文化の中で生まれた。それらは、自然を想像し模倣したものであり、観測した結果ではない。そこにあるのは、事実としての自然ではなく、あるべき姿の自然である。自然は限りなく大きく、その視点からは巨木も小さな存在として想像される。箱庭や大自然を模した庭園の中に、主人公である自分たち小さな人間を想像するのである。
身の程を知る文化、つまり「箱庭文化」は、神道的自然崇拝の結果である。一方、箱庭や盆栽は、偉大な神の視点を得るために作ると考える人もいるだろう。それも事実だと思う。つまり、自然に調和した自分は、自然という神との合一を意味しているからである。
日本人は、自然に調和する一環として、周囲に調和しているのだろう。巨大な自然の中の小さな存在として生き、そして自然の中に消滅するのが日本人の一生のあるべき姿である。小さな箱庭や盆栽を見て、その人のあるべき姿を想像するのだろう。小説「楢山節考」は、常に貧困の中にあった昔の日本における、自然調和を信仰とした人間の姿を描いていると思う。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/09/blog-post_4.html
一方、大きく優秀な村上氏や堀江氏は、そのままの自分をテレビの画面に出してしまった。それらは、身の程を知らない外国人の姿だったのである。
3)現在老齢の域に達した日本人には、この神道的な考え方が身にしみている。そして、自分は、自然という大きな存在の中に含まれる小さい存在だという自覚を持つ。自覚というが誇りなのかもしれない。それは不思議な感覚:「箱庭感覚」である。
その「箱庭文化」(=身の程を知る文化)が、日本人の集団としての性質を作っている。集団の中で、違和感のある存在にならない様に、外にある目は自分を眺めている。「列を整然とつくる日本人」はその結果である。
この従順でおとなしい日本人の姿は、列に並ばない大きな集団を見た時、従順さを失って凶暴になる可能性を秘めている。それは、列に並ぶことで列の外に居る人間を軽蔑しているからである。その可能性がミクロに現実化したのが、イジメである。戦前の日本軍の強さも、ひょっとしてこの解釈で説明可能かもしれない。
別の表現では、日本人の視点は殆ど自分の外にある。そこから自分を一つの対象として見、自分とその周囲の人間の関係をシミュレートする。その結果、日本人の個は集団の中で縮小し、その周囲をゲル状の空気(山本七平の本にある)が覆うだろう。外国人が見る集団化した日本人の姿だろう。
我々日本人は、この特性を理解して、その限界を超える工夫をしなければ21世紀末まで生き残れないだろう。
補足:
1)村上氏は、西欧社会なら有能な会社経営者として迎えられた可能性が高い。このタイプの人を受け入れることができないのは、日本社会の“懐の狭さ”であり、日本経済低迷の原因の主要なる一部だろう。
2)日本の犯罪に関する捜査は、明確な証拠を抑える以前に、犯罪のシナリオが作られるようだ。そのシナリオとそれまでに掴んだ証拠らしきものとで、裁判所は簡単に逮捕状を出すのではないだろうか。その後、シナリオの補強と証拠の精査及び追加の探索がなされる。裁判もそのシナリオ通りに進み、結審するのである。名張毒ぶどう酒事件や高知白バイ死事件を考えた時、その印象を強めた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/03/blog-post_5.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_26.html
3)無罪請負人或いはカミソリ弁護人という異名を持つ方が弁護に付き、無罪の可能性があると明言していた。
日本の中で、“身の程を知らない人”を初めて観たと記憶するのは、テレビの画面で「金儲けは悪いことですか?」と言い放った村上世彰氏や、村上氏にインサイダー情報を与えたと言われた堀江貴文氏の事件である。勿論、一般に金儲けは悪いことではないが、決算書虚偽記載やインサイダー取引は悪いことである。更に、社会や法の弱点を突いての金儲けは、犯罪としては成立しないが、強欲的として批判されるだろう。
その真相はわからないものの、有罪とされ多額の追徴金を支払わされたことは事実である。昨日のTV番組「そこまで言って委員会」でも、この事件は話題になっていたが、真相は闇の中にあるという印象だった。その村上氏は、現在も日本での金融取引等で儲け、シンガポールに住み節税しているらしい。やはり、この人は“身の程を知らぬ強欲人間”(補足1)であることは事実だろう。
この事件、厳密な意味での法治国家であれば、有罪になっていたかどうか疑わしいのかもしれない。過去の刑事事件の顛末を見ると、そう考えてしまう。つまり、日本では検察や司法が時代劇の水戸黄門的裁きをしている可能性が高い。この件は別途議論する予定である。(補足2)
今回のカルロス・ゴーン氏の逮捕劇も、上記事件やライブドア事件の時と同様の感覚で観た。ただし、ゴーン氏は外国人であり、この国の文化の中で育った訳ではない。国際的な意味で、優秀な経営者に過ぎないのだろう。あの時と同様の感覚で逮捕が為されたのなら、検察は負ける可能性があると思う。(補足3)現在の犯罪捜査と裁判のあり方は、「身の程を知る日本文化」に頼った人治国家のものであると思う。
2)日本人以外の大陸系の多くの人たちには、「身の程を知る」という考えなどあまり無いようだ。その差は、生存に要求される視野の広さと時間スケールにおいて、大陸と日本では全く異なるからだと思う。 「身の程を知る文化」は、自分の近傍のグループが調和的であれば、あとは自然の偉大な力が全体の調和を約束してくれると信じる文化である。この文化の背景には、自然崇拝(古来の神道)があると思う。(これは伊勢神道とは異なる。2月の記事「天皇家と国家神道について」参照:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/02/blog-post_22.html)
日本人は、この偉大な自然の中に生きる人間であるから、個人は集団の中に調和すれば(埋もれることを考えれば)、生き残ることが可能である。そして、専ら隣近所と過去が視野である。その視野を超えた世界は、観測の世界ではなく想像の世界である。この文化は、日本人の島国根性の正体だと考える。
日本独特の「箱庭や盆栽」は、その文化の中で生まれた。それらは、自然を想像し模倣したものであり、観測した結果ではない。そこにあるのは、事実としての自然ではなく、あるべき姿の自然である。自然は限りなく大きく、その視点からは巨木も小さな存在として想像される。箱庭や大自然を模した庭園の中に、主人公である自分たち小さな人間を想像するのである。
身の程を知る文化、つまり「箱庭文化」は、神道的自然崇拝の結果である。一方、箱庭や盆栽は、偉大な神の視点を得るために作ると考える人もいるだろう。それも事実だと思う。つまり、自然に調和した自分は、自然という神との合一を意味しているからである。
日本人は、自然に調和する一環として、周囲に調和しているのだろう。巨大な自然の中の小さな存在として生き、そして自然の中に消滅するのが日本人の一生のあるべき姿である。小さな箱庭や盆栽を見て、その人のあるべき姿を想像するのだろう。小説「楢山節考」は、常に貧困の中にあった昔の日本における、自然調和を信仰とした人間の姿を描いていると思う。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/09/blog-post_4.html
一方、大きく優秀な村上氏や堀江氏は、そのままの自分をテレビの画面に出してしまった。それらは、身の程を知らない外国人の姿だったのである。
3)現在老齢の域に達した日本人には、この神道的な考え方が身にしみている。そして、自分は、自然という大きな存在の中に含まれる小さい存在だという自覚を持つ。自覚というが誇りなのかもしれない。それは不思議な感覚:「箱庭感覚」である。
その「箱庭文化」(=身の程を知る文化)が、日本人の集団としての性質を作っている。集団の中で、違和感のある存在にならない様に、外にある目は自分を眺めている。「列を整然とつくる日本人」はその結果である。
この従順でおとなしい日本人の姿は、列に並ばない大きな集団を見た時、従順さを失って凶暴になる可能性を秘めている。それは、列に並ぶことで列の外に居る人間を軽蔑しているからである。その可能性がミクロに現実化したのが、イジメである。戦前の日本軍の強さも、ひょっとしてこの解釈で説明可能かもしれない。
別の表現では、日本人の視点は殆ど自分の外にある。そこから自分を一つの対象として見、自分とその周囲の人間の関係をシミュレートする。その結果、日本人の個は集団の中で縮小し、その周囲をゲル状の空気(山本七平の本にある)が覆うだろう。外国人が見る集団化した日本人の姿だろう。
我々日本人は、この特性を理解して、その限界を超える工夫をしなければ21世紀末まで生き残れないだろう。
補足:
1)村上氏は、西欧社会なら有能な会社経営者として迎えられた可能性が高い。このタイプの人を受け入れることができないのは、日本社会の“懐の狭さ”であり、日本経済低迷の原因の主要なる一部だろう。
2)日本の犯罪に関する捜査は、明確な証拠を抑える以前に、犯罪のシナリオが作られるようだ。そのシナリオとそれまでに掴んだ証拠らしきものとで、裁判所は簡単に逮捕状を出すのではないだろうか。その後、シナリオの補強と証拠の精査及び追加の探索がなされる。裁判もそのシナリオ通りに進み、結審するのである。名張毒ぶどう酒事件や高知白バイ死事件を考えた時、その印象を強めた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/03/blog-post_5.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_26.html
3)無罪請負人或いはカミソリ弁護人という異名を持つ方が弁護に付き、無罪の可能性があると明言していた。
2019年3月9日土曜日
小西洋之議員の国会での暴言と憲法の規定との関係
国会は議論する場である。参議院の金子予算委員長は、首相に対して暴言を吐いた小西洋之議員に厳重注意し、議場から退席させてもよかった。
1)立憲民主党の小西洋之議員が参議院予算委員会において、安倍総理にたいし「幼稚園児以下だ」という暴言を吐いた。そのことに対し、答弁にたった横畠内閣法制局長官が「国会の行政監視機能は、このような場で声を荒らげて発言することまで含むとは考えていない」と述べた。
この発言について、国会軽視だといって立憲民主党など野党議員が騒いだため、金子予算委員長が横畠氏に厳重注意をした。(毎日新聞配信)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190308-00000095-mai-pol
おそらくこの注意は、余計なことを言わなくても良いという注意だろうが、それ以前に小西議員に厳重注意すべきであった。国会は国政に関して議論をするところであり、喧嘩をするところではない。従って、感情に走らず走らせず、言葉はあくまで論理的に用いるべきである。
立憲民主党の小西議員は、その原則を踏みにじり、総理を感情に走らせる為か、自分が本当に怒ってしまったのか分からないが、上記暴言を吐いた。小西議員は、安倍総理が感情的になり易い性格だと考え、たぶん揚げ足取りのために暴言を吐いたのだろう。どちらにせよ、国会議員にあるまじき行為である。
この件、彼ら野党議員の他に、しっかりと仕事をしなかった人がいる。それは金子参議院予算委員長である。国会の機能を暴言で麻痺させようとする行為は、国会を軽視し、国会の機能を妨害する行為なのだから、小西洋之という議員を、厳重注意の上で退場させても良かった。
2)「国会は国権の最高機関である」という憲法41条の規定がある。(補足1)野党議員は、これを三文ドラマ「水戸黄門」の印籠のようにかざして、総理大臣やその下の行政官を攻撃しているのである。法制局長官ごとき官僚が、国会議員である我々に偉そうなことを言うのは我慢ならないというのが、上記発言を問題視する野党議員たちの感情だろう。
この小西議員の暴言、そして国会審議の場ではないが、枝野議員の同じ議事堂内での挨拶での暴言(補足2)などの根拠は、この憲法41条の曲解にある。実際、以下のサイトにあるように、小西議員は行政軽視の発言をしている。https://www.youtube.com/watch?v=JWFotTuPajU
しかし、日本国の基本理念は三権分立である。小西議員の行政軽視の発言は、この基本理念に反している。憲法のGHQ原案は、国家元首として天皇を明記しなくて良いように、憲法41条にこの曲解されかねない言葉を挿入したのである。(補足3)
つまり、枝野氏たち野党議員は、憲法41条の規定を利用し、国会において故意に暴言を吐くことで、日本の三権分立を破壊しようとしているのである。本来冷静な彼らが、このような暴言を吐くのは、すでに書いたが、時として感情的になる安倍総理の癖に付け込むためだと思う。
もし三権分立の原則を重視するのなら、国家、行政、司法の3つの間でのやりとりにおいて、暴言など有ってはならない。そもそも独立した人格の間の会話等において、暴言など有ってはならない。(補足4)
私は、憲法のこの部分を是正すべきだと思う。そのためには、米国の大統領選のように首相選挙人を国民が選び、選挙人の投票で内閣総理大臣を選出する様に、憲法改正すべきである。この首相公選制を実現した上で、憲法41条の上記部分を削除する他、他の法令等との整合性をとるのである。
日本の国会議員たちは、河野太郎氏が提案したように、品位ある国会を目指すべきである。戦後(戦前は知らない)の日本の国会は異常であった。乱闘騒ぎとか、牛歩戦術、そして今回のような暴言騒動である。これまで冷静にあくまで腰を低くして国会で答弁をしていたのが、明らかに国会議員の平均よりも頭の良い官僚たちである。今回たまたま、官僚の一人が不適切な発言をしたかもしれないが、その背景を国民は真剣に考えるべきである。
3)話は変わるが、立憲民主と言う政党は、本当に日本の国益を考えて国会で議論などをしているのかわかりにくい。彼らを当選させた人たちがどのような人たちなのかある程度は想像できる。小西議員のような暴言を吐く者を国会に送り込む人たちが、同じ日本国民の中にいるのだから、もしや、日本国も分断が進んでいると憂慮せざるを得ない。
この小西議員の暴言等に腹立たしく思ったある自衛官が、国会議事堂前で小西国会議員様に“国民の敵”とか何とか言った。それが暴言だと言って、再び野党議員が騒いだ。自衛隊は、その自衛官を戒告処分にすることで事態の収拾に努力した。https://www.sankei.com/politics/news/180424/plt1804240038-n1.html
更に、戒告処分されたこの自衛官に何かもっと大きな存在が背後にあるかもしれないと、火事場に風を送る新聞がある。「背後をもっと調査すべきである」とわざわざ社説で書いた毎日新聞である。https://mainichi.jp/articles/20180509/ddm/005/070/029000c
この新聞の動きは、野党議員と連携しているようにも見える。日本の新聞は、戦前戦後を通して国家を異常な方向に導いくためのプロパガンダ機関の役割を果たしてきたことを、日本国民である我々は復習すべきである。(補足5)そして、急激に変化している日本国と内外の情勢に即応できる体制を、真剣に我々は考えるべきである。
補足:
1)「第41条:国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」この規定を、国会は司法に優先すると解釈すると、日本は法治国家でなくなる。あくまで三権分立を日本国の中心理念とすべきである。この点に関する議論は、以下のサイトにこの問題について議論がある:http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0103-1.htm(尚、geocitiesは間も無く廃止になるので4月には、転送サイトが示されなければネットから消える。)
2)“「日本の総理、小学6年生並みで情けない」立憲・枝野氏”と題して、朝日新聞デジタルが報じている。 https://www.asahi.com/articles/ASM2G3SQDM2GUTFK00D.html
3)Article XL. The Diet shall be the highest organ of state power and shall be the sole law-making authority of the State.
翻訳:40条・国会は国権の最高機関であり、国に唯一の立法権威である。 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076a_e/076a_etx.html
4)この種の暴言に類する言葉は、指導する立場にある先生とその生徒との間、或いは、親とその養育中の成人前の子の間などであれば、一応成立するだろう。パワハラに当たるとして反対する向きもあるが、緊急の事態や非常に重要な事態においては、許されるだろう。
5)現在、百田尚樹氏の「日本国紀」を読んでいる。その中に、戦前戦後の新聞の煽りについて相当詳しく言及されている。
1)立憲民主党の小西洋之議員が参議院予算委員会において、安倍総理にたいし「幼稚園児以下だ」という暴言を吐いた。そのことに対し、答弁にたった横畠内閣法制局長官が「国会の行政監視機能は、このような場で声を荒らげて発言することまで含むとは考えていない」と述べた。
この発言について、国会軽視だといって立憲民主党など野党議員が騒いだため、金子予算委員長が横畠氏に厳重注意をした。(毎日新聞配信)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190308-00000095-mai-pol
おそらくこの注意は、余計なことを言わなくても良いという注意だろうが、それ以前に小西議員に厳重注意すべきであった。国会は国政に関して議論をするところであり、喧嘩をするところではない。従って、感情に走らず走らせず、言葉はあくまで論理的に用いるべきである。
立憲民主党の小西議員は、その原則を踏みにじり、総理を感情に走らせる為か、自分が本当に怒ってしまったのか分からないが、上記暴言を吐いた。小西議員は、安倍総理が感情的になり易い性格だと考え、たぶん揚げ足取りのために暴言を吐いたのだろう。どちらにせよ、国会議員にあるまじき行為である。
この件、彼ら野党議員の他に、しっかりと仕事をしなかった人がいる。それは金子参議院予算委員長である。国会の機能を暴言で麻痺させようとする行為は、国会を軽視し、国会の機能を妨害する行為なのだから、小西洋之という議員を、厳重注意の上で退場させても良かった。
2)「国会は国権の最高機関である」という憲法41条の規定がある。(補足1)野党議員は、これを三文ドラマ「水戸黄門」の印籠のようにかざして、総理大臣やその下の行政官を攻撃しているのである。法制局長官ごとき官僚が、国会議員である我々に偉そうなことを言うのは我慢ならないというのが、上記発言を問題視する野党議員たちの感情だろう。
この小西議員の暴言、そして国会審議の場ではないが、枝野議員の同じ議事堂内での挨拶での暴言(補足2)などの根拠は、この憲法41条の曲解にある。実際、以下のサイトにあるように、小西議員は行政軽視の発言をしている。https://www.youtube.com/watch?v=JWFotTuPajU
しかし、日本国の基本理念は三権分立である。小西議員の行政軽視の発言は、この基本理念に反している。憲法のGHQ原案は、国家元首として天皇を明記しなくて良いように、憲法41条にこの曲解されかねない言葉を挿入したのである。(補足3)
つまり、枝野氏たち野党議員は、憲法41条の規定を利用し、国会において故意に暴言を吐くことで、日本の三権分立を破壊しようとしているのである。本来冷静な彼らが、このような暴言を吐くのは、すでに書いたが、時として感情的になる安倍総理の癖に付け込むためだと思う。
もし三権分立の原則を重視するのなら、国家、行政、司法の3つの間でのやりとりにおいて、暴言など有ってはならない。そもそも独立した人格の間の会話等において、暴言など有ってはならない。(補足4)
私は、憲法のこの部分を是正すべきだと思う。そのためには、米国の大統領選のように首相選挙人を国民が選び、選挙人の投票で内閣総理大臣を選出する様に、憲法改正すべきである。この首相公選制を実現した上で、憲法41条の上記部分を削除する他、他の法令等との整合性をとるのである。
日本の国会議員たちは、河野太郎氏が提案したように、品位ある国会を目指すべきである。戦後(戦前は知らない)の日本の国会は異常であった。乱闘騒ぎとか、牛歩戦術、そして今回のような暴言騒動である。これまで冷静にあくまで腰を低くして国会で答弁をしていたのが、明らかに国会議員の平均よりも頭の良い官僚たちである。今回たまたま、官僚の一人が不適切な発言をしたかもしれないが、その背景を国民は真剣に考えるべきである。
3)話は変わるが、立憲民主と言う政党は、本当に日本の国益を考えて国会で議論などをしているのかわかりにくい。彼らを当選させた人たちがどのような人たちなのかある程度は想像できる。小西議員のような暴言を吐く者を国会に送り込む人たちが、同じ日本国民の中にいるのだから、もしや、日本国も分断が進んでいると憂慮せざるを得ない。
この小西議員の暴言等に腹立たしく思ったある自衛官が、国会議事堂前で小西国会議員様に“国民の敵”とか何とか言った。それが暴言だと言って、再び野党議員が騒いだ。自衛隊は、その自衛官を戒告処分にすることで事態の収拾に努力した。https://www.sankei.com/politics/news/180424/plt1804240038-n1.html
更に、戒告処分されたこの自衛官に何かもっと大きな存在が背後にあるかもしれないと、火事場に風を送る新聞がある。「背後をもっと調査すべきである」とわざわざ社説で書いた毎日新聞である。https://mainichi.jp/articles/20180509/ddm/005/070/029000c
この新聞の動きは、野党議員と連携しているようにも見える。日本の新聞は、戦前戦後を通して国家を異常な方向に導いくためのプロパガンダ機関の役割を果たしてきたことを、日本国民である我々は復習すべきである。(補足5)そして、急激に変化している日本国と内外の情勢に即応できる体制を、真剣に我々は考えるべきである。
補足:
1)「第41条:国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」この規定を、国会は司法に優先すると解釈すると、日本は法治国家でなくなる。あくまで三権分立を日本国の中心理念とすべきである。この点に関する議論は、以下のサイトにこの問題について議論がある:http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0103-1.htm(尚、geocitiesは間も無く廃止になるので4月には、転送サイトが示されなければネットから消える。)
2)“「日本の総理、小学6年生並みで情けない」立憲・枝野氏”と題して、朝日新聞デジタルが報じている。 https://www.asahi.com/articles/ASM2G3SQDM2GUTFK00D.html
3)Article XL. The Diet shall be the highest organ of state power and shall be the sole law-making authority of the State.
翻訳:40条・国会は国権の最高機関であり、国に唯一の立法権威である。 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076a_e/076a_etx.html
4)この種の暴言に類する言葉は、指導する立場にある先生とその生徒との間、或いは、親とその養育中の成人前の子の間などであれば、一応成立するだろう。パワハラに当たるとして反対する向きもあるが、緊急の事態や非常に重要な事態においては、許されるだろう。
5)現在、百田尚樹氏の「日本国紀」を読んでいる。その中に、戦前戦後の新聞の煽りについて相当詳しく言及されている。
2019年3月5日火曜日
カルロス・ゴーン氏の長期勾留を考える:司法機関と検察は互いに牽制的関係を持つべきである
1)カルロス・ゴーン氏の件:
日産の前CEOのカルロス・ゴーン氏が、保釈されそうだ。100日も勾留しながら、更に勾留を続けようとする検察に呆れる。この件、裁判所は安易に逮捕状を発行した可能性が高く、批判されそうである。この上は、冤罪を産まないように、司法は慎重な判断をすべきである。日本の司法の国際的信頼感を損なう可能性がある。
今後、外国人犯罪が増加するだろう。その裁判のプロセスと結果が国際問題化しては、国益を損なうことになる。公正な裁判では、行政機関である検察と司法機関である裁判所が明確に独立していなければならない。一市民としての考えだが、私は過去に検察と裁判所が癒着したケースがあるのではないかと疑っている。
犯人として逮捕されても裁判前は推定無罪なのだから、100日も拘束することは人権軽視であると非難されても仕方がないだろう。日本の法律に従って拘束されているのだから問題はないと強弁をする評論家が多いが、本当に解って言っているのか怪しい。
冤罪が生まれる背景には、安易に検察に迎合して裁判所が逮捕状を出すことがあるだろう。日本の司法機関は、いい加減な証拠で逮捕状を出し、検察のシナリオに従って判決を出しているのではないかという疑いが強い。
今回のケースに関して知識はほとんどないのだが、長期の勾留と更にそれを延長したいという検察側の姿勢から、見込み捜査と逮捕だった可能性があると思う。また、それを未然に防がなかった司法の怠慢が疑われる。
2)過去の例:
例えば、1961年の名張毒ぶどう酒事件では、検察による不十分な証拠に基づく逮捕、脅迫による自白、事実に基づかない犯行のストーリーが、高裁や最高裁で無批判に支持された可能性が大きいと思う。地方裁判所が証拠不十分として無罪判決を出したにも係わらず、高裁が逆転死刑の判決を出し、最高裁も何も考えずに上告を退けて死刑が確定した。一人の人間とその家族の人生を破壊したのである。
それ以降、度重なる請求にも係わらず、再審決定には至らなかった。その理由は、司法が自分たちの間違いを認めたくないからだろう。その際、よく用いられるのが「自白の信憑性が高い」という理由である。
死刑にあたるような犯罪で逮捕された被告の自白が、日本国の裁判では重要な意味を持つのである。その後、自白が強制されたものだと被告が主張しても、「自白の信憑性が高い」と言って、突っぱねるのである。驚くべきことである。
因みに、最高裁で上告棄却した裁判長は、勲一等の栄誉に輝いた。もし、この上告審での判断が間違っていたとなった場合、そのような栄誉は与えられただろうか。答えはNOの筈である。日本は法治国家とは言えない。
冤罪の疑いが濃いことは、司法も行政も気づいていた。何故なら、死刑は最後まで執行されなかったからである。毒物の不純物分析の結果に関する鑑定(補足1)が出て、冤罪が確実視されるに至っても、裁判所や検察はミスを認める代わりに、奥西死刑囚の人権無視を選んだのである。
2002年に第七次再審請求が成され、2005年4月5日、名古屋高裁(第1刑事部・小出錞一裁判長)は再審開始を決定した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。しかし不思議なのは、その決定を出した小出錞一氏は2006年2月に依願退官したことである。依願退職はこの国では体の良い解雇である。その理由を外国人に説明することは、非常に困難だろう。(補足2)
3)上記事件では、検察に基本的なミスがあったと考えられる。それは奥西死刑囚を支援する会のサイトに詳しく書かれている。犯行に使われたとされる毒ぶどう酒から分離された毒物のペーパークロマトのパターンが、説明出来ないのである。(補足1)
それはぶどう酒中の毒物が、奥西死刑囚が混入したとされる物と同一だとする鑑定が、捏造或いは重大なミスだったことを意味しており、重要な物的証拠を検察は失ったことになる筈である。それでも判決は覆らない。何故、このようなことになるのか?
検察や裁判所の人たちは殆ど法学部出身であり、理系の知識に乏しく、且つ、真実に対して謙虚な姿勢がないからだと思う。(補足3)また、文系公務員の人間には殆ど国際感覚がなく、人と人の連携が全てを決する日本村特有の文化に完全に染まっているのだろう。
例えば共同体内で犯罪が発生した場合、有力者は犯人ではないとする無言の圧力が働く。同じ力学で、検察が出した判断を裁判所がミスだと決定することは、日本村の仁義に反するのだろう。既に言及したように、2005年の名古屋高裁で再審決定をした裁判長が依願退職させられる羽目となったのも、その日本村の掟なのだろう。(補足2)
証拠が乏しいケースでは、非科学的な検察のシナリオが判決を決める可能性が高くなる。日本では、逆転有罪の率が非常に高いという報告がある。それは、上級審に行くほど行政と司法の癒着がひどくなることを意味している。http://www.asyura2.com/13/senkyo145/msg/834.html
日本の最高裁などの司法公務員は、何も仕事をしないで高給をもらっているように見える。その結果は、下の追補を見てもらいたい。三権分立の原則など、自分の出世と比較すれば、どこ吹く風という感覚なのだ。
追補: ①日本の最高裁判所がまともに機能しないことが、日本の政治の弱体化にも根幹部分で関わっている。例えば砂川事件での判決で、自衛隊違憲判決を出さなかったことが、日本の憲法改正を間接的に妨害したことになる。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/10/blog-post_24.html
②日本政府は数年前、横田めぐみさんのものとして北朝鮮から渡された火葬された遺骨のDNA鑑定をしたと結果、別人だと判明したと発表した。火葬してしまえば、DNAを構成する有機物は、殆ど全て酸化物となる筈であり、DNA鑑定などできないだろう。国際的に日本政府の理系音痴を宣伝する事になったと思う。その鑑定をした人は、その後行政により出世の道を与えられたようである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/11/blog-post_2.html
補足:
1)毒物は化学薬品である。同じロット(同時に同じところで合成された製品)の薬物は、同じ不純物を同じ割合で持つ。通常有機物の成分分析で使われるのが、クロマトグラフィーという手法である。1961年、クロマトグラフィーの手法は既に確立しており、特にペーパークロマト(吸着媒として濾紙を用いる方法)は、学生実験でも行われていた基本的分析手法である。
http://enzai-shikei.com/blog/226/ 2)実質的に首になっても、依願退職という形を取るのが、後々組織の和を乱さないためには大事な儀式である。「和を以て尊しとなす」という宗教に毒された日本人は、自由と独立を恐怖する民族のようだ。
3)ぶどう酒から分離された毒物のクロマトグラムは、一つの不純物の有無という点で一致しないのである。この濾紙の上の斑点の有無という科学的に重要な意味を持つことが、日本のトップ大学の法学部卒の人たちには理解不能なのである。
尚、日本では理系と文系という不思議な人種分別が高校の段階でなされる。その結果、論理的思考が苦手でも暗記力抜群の学生だった人たちが、日本の行政、立法、司法の重要なポストを独占する。また、理系人間にとって、人としての常識に全く無知であっても、何の恥にもならない。それは、理系人間はこの国では道具の一種であり、政治経済文化などを考える立場にはないからである。
日産の前CEOのカルロス・ゴーン氏が、保釈されそうだ。100日も勾留しながら、更に勾留を続けようとする検察に呆れる。この件、裁判所は安易に逮捕状を発行した可能性が高く、批判されそうである。この上は、冤罪を産まないように、司法は慎重な判断をすべきである。日本の司法の国際的信頼感を損なう可能性がある。
今後、外国人犯罪が増加するだろう。その裁判のプロセスと結果が国際問題化しては、国益を損なうことになる。公正な裁判では、行政機関である検察と司法機関である裁判所が明確に独立していなければならない。一市民としての考えだが、私は過去に検察と裁判所が癒着したケースがあるのではないかと疑っている。
犯人として逮捕されても裁判前は推定無罪なのだから、100日も拘束することは人権軽視であると非難されても仕方がないだろう。日本の法律に従って拘束されているのだから問題はないと強弁をする評論家が多いが、本当に解って言っているのか怪しい。
冤罪が生まれる背景には、安易に検察に迎合して裁判所が逮捕状を出すことがあるだろう。日本の司法機関は、いい加減な証拠で逮捕状を出し、検察のシナリオに従って判決を出しているのではないかという疑いが強い。
今回のケースに関して知識はほとんどないのだが、長期の勾留と更にそれを延長したいという検察側の姿勢から、見込み捜査と逮捕だった可能性があると思う。また、それを未然に防がなかった司法の怠慢が疑われる。
2)過去の例:
例えば、1961年の名張毒ぶどう酒事件では、検察による不十分な証拠に基づく逮捕、脅迫による自白、事実に基づかない犯行のストーリーが、高裁や最高裁で無批判に支持された可能性が大きいと思う。地方裁判所が証拠不十分として無罪判決を出したにも係わらず、高裁が逆転死刑の判決を出し、最高裁も何も考えずに上告を退けて死刑が確定した。一人の人間とその家族の人生を破壊したのである。
それ以降、度重なる請求にも係わらず、再審決定には至らなかった。その理由は、司法が自分たちの間違いを認めたくないからだろう。その際、よく用いられるのが「自白の信憑性が高い」という理由である。
死刑にあたるような犯罪で逮捕された被告の自白が、日本国の裁判では重要な意味を持つのである。その後、自白が強制されたものだと被告が主張しても、「自白の信憑性が高い」と言って、突っぱねるのである。驚くべきことである。
因みに、最高裁で上告棄却した裁判長は、勲一等の栄誉に輝いた。もし、この上告審での判断が間違っていたとなった場合、そのような栄誉は与えられただろうか。答えはNOの筈である。日本は法治国家とは言えない。
冤罪の疑いが濃いことは、司法も行政も気づいていた。何故なら、死刑は最後まで執行されなかったからである。毒物の不純物分析の結果に関する鑑定(補足1)が出て、冤罪が確実視されるに至っても、裁判所や検察はミスを認める代わりに、奥西死刑囚の人権無視を選んだのである。
2002年に第七次再審請求が成され、2005年4月5日、名古屋高裁(第1刑事部・小出錞一裁判長)は再審開始を決定した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。しかし不思議なのは、その決定を出した小出錞一氏は2006年2月に依願退官したことである。依願退職はこの国では体の良い解雇である。その理由を外国人に説明することは、非常に困難だろう。(補足2)
3)上記事件では、検察に基本的なミスがあったと考えられる。それは奥西死刑囚を支援する会のサイトに詳しく書かれている。犯行に使われたとされる毒ぶどう酒から分離された毒物のペーパークロマトのパターンが、説明出来ないのである。(補足1)
それはぶどう酒中の毒物が、奥西死刑囚が混入したとされる物と同一だとする鑑定が、捏造或いは重大なミスだったことを意味しており、重要な物的証拠を検察は失ったことになる筈である。それでも判決は覆らない。何故、このようなことになるのか?
検察や裁判所の人たちは殆ど法学部出身であり、理系の知識に乏しく、且つ、真実に対して謙虚な姿勢がないからだと思う。(補足3)また、文系公務員の人間には殆ど国際感覚がなく、人と人の連携が全てを決する日本村特有の文化に完全に染まっているのだろう。
例えば共同体内で犯罪が発生した場合、有力者は犯人ではないとする無言の圧力が働く。同じ力学で、検察が出した判断を裁判所がミスだと決定することは、日本村の仁義に反するのだろう。既に言及したように、2005年の名古屋高裁で再審決定をした裁判長が依願退職させられる羽目となったのも、その日本村の掟なのだろう。(補足2)
証拠が乏しいケースでは、非科学的な検察のシナリオが判決を決める可能性が高くなる。日本では、逆転有罪の率が非常に高いという報告がある。それは、上級審に行くほど行政と司法の癒着がひどくなることを意味している。http://www.asyura2.com/13/senkyo145/msg/834.html
日本の最高裁などの司法公務員は、何も仕事をしないで高給をもらっているように見える。その結果は、下の追補を見てもらいたい。三権分立の原則など、自分の出世と比較すれば、どこ吹く風という感覚なのだ。
追補: ①日本の最高裁判所がまともに機能しないことが、日本の政治の弱体化にも根幹部分で関わっている。例えば砂川事件での判決で、自衛隊違憲判決を出さなかったことが、日本の憲法改正を間接的に妨害したことになる。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/10/blog-post_24.html
②日本政府は数年前、横田めぐみさんのものとして北朝鮮から渡された火葬された遺骨のDNA鑑定をしたと結果、別人だと判明したと発表した。火葬してしまえば、DNAを構成する有機物は、殆ど全て酸化物となる筈であり、DNA鑑定などできないだろう。国際的に日本政府の理系音痴を宣伝する事になったと思う。その鑑定をした人は、その後行政により出世の道を与えられたようである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/11/blog-post_2.html
補足:
1)毒物は化学薬品である。同じロット(同時に同じところで合成された製品)の薬物は、同じ不純物を同じ割合で持つ。通常有機物の成分分析で使われるのが、クロマトグラフィーという手法である。1961年、クロマトグラフィーの手法は既に確立しており、特にペーパークロマト(吸着媒として濾紙を用いる方法)は、学生実験でも行われていた基本的分析手法である。
http://enzai-shikei.com/blog/226/ 2)実質的に首になっても、依願退職という形を取るのが、後々組織の和を乱さないためには大事な儀式である。「和を以て尊しとなす」という宗教に毒された日本人は、自由と独立を恐怖する民族のようだ。
3)ぶどう酒から分離された毒物のクロマトグラムは、一つの不純物の有無という点で一致しないのである。この濾紙の上の斑点の有無という科学的に重要な意味を持つことが、日本のトップ大学の法学部卒の人たちには理解不能なのである。
尚、日本では理系と文系という不思議な人種分別が高校の段階でなされる。その結果、論理的思考が苦手でも暗記力抜群の学生だった人たちが、日本の行政、立法、司法の重要なポストを独占する。また、理系人間にとって、人としての常識に全く無知であっても、何の恥にもならない。それは、理系人間はこの国では道具の一種であり、政治経済文化などを考える立場にはないからである。
2019年3月3日日曜日
辺野古埋め立て反対の投票結果とそれに対するある憲法学者の考えについての反論
1)中日新聞3月2日の3面、移設断念が憲法の要請と題した記事が掲載されている。関口という記者が、憲法学専攻の小林節慶応大学名誉教授氏に聞き取って記事としたのである。
その本文の書き出し「県民投票で、辺野古移設の反対票は7割を超えた。」からして、事実を曲げている。これが憲法学専攻の学者の意見なのだから、日本の大学は狂っている。それが、日本の病気の重大な症状の一つである。
今回の県民投票とその結果を利用した県知事の行動や、それを報じる新聞などの報道は、多くの誤魔化しを含む。この記事もその一つである。住民投票は、「辺野埋め立てに反対」「賛成」「どちらでもない」の三択で行われた。7割を超えたのは「辺野古埋め立て反対」の票であり、「辺野古移設反対」の票ではない。
言葉の上では些細な違いのようだが、この違いに今回の投票の本質が現れている。
一旦埋め立てを仲井真県知事の時に許可している。まだ工事開始前なら、今回の住民投票を利用して、辺野古埋め立て許可の取り消しを行うことは可能だろう。しかし、既に事業は開始されており、その国家事業の中断を要求する「辺野古移設反対」という選択肢を立てた県民投票はできないのである。
地方自治体が、国家行政を妨害するのは違法であり、従ってそれを要求する類の住民投票は実施できない。県民投票の選択肢は、県知事の権限内の地方行政にふさわしいものにしながら、それを利用して辺野古への基地移設妨害を企てたのが、今回の知事の行動であり、それは法の範囲を超えて国家行政を妨害するテロリズムに似た行為である。その事実を新聞等は全く報道しない。
翁長知事が、仲井真知事の「辺野古埋め立て許可」の決定に瑕疵があるという根拠で一度国に対する埋め立て許可を取り消そうとしたが、裁判で敗訴して取り消すことに失敗している。それでこの件は、結論が出ている。
2)小林節氏が、上記記事にあるとおり喋ったのなら小林氏は憲法学者というより政治プロパガンダをするのが商売のようだ。
小林氏が問題としているのは、憲法95条の規定:「特定の地方に関する特別法を制定する場合、住民投票で過半数の同意をえなければならない」である。小林氏は、「普天間飛行場の辺野古移設は法律によるものではないが」と言いながら、今回の投票と憲法95条は無関係という反論を形式論だとして退ける。
そして、この憲法の規定を無理矢理、「辺野古埋め立て反対」住民投票の結果と結びつけ、政府は「普天間を辺野古に移設すべきでない」とおっしゃる。(補足1)小林氏は、住民投票の選択肢の文言「辺野古埋め立て反対」と、政治的主張の文言「普天間を辺野古に移設すべきでない」の違いなど、素知らぬ顔で無視するのである。
更に、憲法13条の「国民が幸福追求の権利」に照らしても、その考え方が正しいとおっしゃるのだ。憲法95条の地方自治と政府の法令に関する条文と、憲法13条の幸福追求権に関する条文の「精神」に、辺野古への基地移設は反するという驚きの主張である。
小林慶応大名誉教授の、「法は条文を厳密に解釈して適用するのではなく、法の精神に照らして適用すべき」という発言は、法学者として正気の沙汰ではないと思う。「法の拡大解釈は厳に慎むべきである」という人間文化の根幹すら、どこ吹く風である。
勿論、「法の解釈は立法者意思に沿ってすべき」という指針はある。しかし、それも言葉の壁(言葉の意味)を超えてはならない。つまり、「辺野古移設が法律によるものではないが」と言っているのだから、当然憲法95条を適用して、移設は中止すべきという話はトンデモナイ無理筋解釈である。
憲法13条の精神「個人の幸福追求権」だが、その条文の後半に「公共の福祉に反しない限り」を完全に無視している。(補足2)政府は、日本の防衛のために、そして、普天間での重大事故を警戒して、辺野古移設を決定したのである。それは公共の福祉の向上に寄与し、もし沖縄に他の多くの基地がないならば沖縄県民にも反対の理由は無いはずである。
憲法13条の前半だけと、沖縄に過剰に負担をかけるべきではないという一般論でもって、国家の安全保障政策を邪魔しようというのは、憲法学者の解説ではなく、左翼の政治運動そのものである。
沖縄の基地負担が重くなるのは、その地政学的位置の所為であり、沖縄県民に対する差別意識があってのことではない。どうしてもその重い基地負担に我慢がならないという人には、県や国に何か別の対策をとってもらうしか無い。(補足3)それは沖縄に特別の事情であるから、それこそ沖縄県に関係する特別法つくり、特別の経済的援助の措置を国はとるべきである。沖縄県民は、国家への要求をそのように変えればどうか。
補足:
1)辺野古移設反対の根拠として、以前テレビで盛んに流されたのは、サンゴ礁の保護であった。サンゴ礁の保護という考えで埋め立て反対に投じた票の全てを、基地移設反対の票として、彼ら左翼の人たちは利用している。
2)憲法13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
3)沖縄県民のなかで、基地の多く在る島に住みたくないと考える方は、日本国の何処にでも移住は可能である。我々も多くは故郷に住みたいが、仕事などの事情で遠く離れて住んでいる。故郷に住むことと仕事の両方を同時に選択する幸せを、憲法13条をたてに要求するようなことはしない。また、本土から老後は沖縄に移住するという人が増えても良い。
その本文の書き出し「県民投票で、辺野古移設の反対票は7割を超えた。」からして、事実を曲げている。これが憲法学専攻の学者の意見なのだから、日本の大学は狂っている。それが、日本の病気の重大な症状の一つである。
今回の県民投票とその結果を利用した県知事の行動や、それを報じる新聞などの報道は、多くの誤魔化しを含む。この記事もその一つである。住民投票は、「辺野埋め立てに反対」「賛成」「どちらでもない」の三択で行われた。7割を超えたのは「辺野古埋め立て反対」の票であり、「辺野古移設反対」の票ではない。
言葉の上では些細な違いのようだが、この違いに今回の投票の本質が現れている。
一旦埋め立てを仲井真県知事の時に許可している。まだ工事開始前なら、今回の住民投票を利用して、辺野古埋め立て許可の取り消しを行うことは可能だろう。しかし、既に事業は開始されており、その国家事業の中断を要求する「辺野古移設反対」という選択肢を立てた県民投票はできないのである。
地方自治体が、国家行政を妨害するのは違法であり、従ってそれを要求する類の住民投票は実施できない。県民投票の選択肢は、県知事の権限内の地方行政にふさわしいものにしながら、それを利用して辺野古への基地移設妨害を企てたのが、今回の知事の行動であり、それは法の範囲を超えて国家行政を妨害するテロリズムに似た行為である。その事実を新聞等は全く報道しない。
翁長知事が、仲井真知事の「辺野古埋め立て許可」の決定に瑕疵があるという根拠で一度国に対する埋め立て許可を取り消そうとしたが、裁判で敗訴して取り消すことに失敗している。それでこの件は、結論が出ている。
2)小林節氏が、上記記事にあるとおり喋ったのなら小林氏は憲法学者というより政治プロパガンダをするのが商売のようだ。
小林氏が問題としているのは、憲法95条の規定:「特定の地方に関する特別法を制定する場合、住民投票で過半数の同意をえなければならない」である。小林氏は、「普天間飛行場の辺野古移設は法律によるものではないが」と言いながら、今回の投票と憲法95条は無関係という反論を形式論だとして退ける。
そして、この憲法の規定を無理矢理、「辺野古埋め立て反対」住民投票の結果と結びつけ、政府は「普天間を辺野古に移設すべきでない」とおっしゃる。(補足1)小林氏は、住民投票の選択肢の文言「辺野古埋め立て反対」と、政治的主張の文言「普天間を辺野古に移設すべきでない」の違いなど、素知らぬ顔で無視するのである。
更に、憲法13条の「国民が幸福追求の権利」に照らしても、その考え方が正しいとおっしゃるのだ。憲法95条の地方自治と政府の法令に関する条文と、憲法13条の幸福追求権に関する条文の「精神」に、辺野古への基地移設は反するという驚きの主張である。
小林慶応大名誉教授の、「法は条文を厳密に解釈して適用するのではなく、法の精神に照らして適用すべき」という発言は、法学者として正気の沙汰ではないと思う。「法の拡大解釈は厳に慎むべきである」という人間文化の根幹すら、どこ吹く風である。
勿論、「法の解釈は立法者意思に沿ってすべき」という指針はある。しかし、それも言葉の壁(言葉の意味)を超えてはならない。つまり、「辺野古移設が法律によるものではないが」と言っているのだから、当然憲法95条を適用して、移設は中止すべきという話はトンデモナイ無理筋解釈である。
憲法13条の精神「個人の幸福追求権」だが、その条文の後半に「公共の福祉に反しない限り」を完全に無視している。(補足2)政府は、日本の防衛のために、そして、普天間での重大事故を警戒して、辺野古移設を決定したのである。それは公共の福祉の向上に寄与し、もし沖縄に他の多くの基地がないならば沖縄県民にも反対の理由は無いはずである。
憲法13条の前半だけと、沖縄に過剰に負担をかけるべきではないという一般論でもって、国家の安全保障政策を邪魔しようというのは、憲法学者の解説ではなく、左翼の政治運動そのものである。
沖縄の基地負担が重くなるのは、その地政学的位置の所為であり、沖縄県民に対する差別意識があってのことではない。どうしてもその重い基地負担に我慢がならないという人には、県や国に何か別の対策をとってもらうしか無い。(補足3)それは沖縄に特別の事情であるから、それこそ沖縄県に関係する特別法つくり、特別の経済的援助の措置を国はとるべきである。沖縄県民は、国家への要求をそのように変えればどうか。
補足:
1)辺野古移設反対の根拠として、以前テレビで盛んに流されたのは、サンゴ礁の保護であった。サンゴ礁の保護という考えで埋め立て反対に投じた票の全てを、基地移設反対の票として、彼ら左翼の人たちは利用している。
2)憲法13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
3)沖縄県民のなかで、基地の多く在る島に住みたくないと考える方は、日本国の何処にでも移住は可能である。我々も多くは故郷に住みたいが、仕事などの事情で遠く離れて住んでいる。故郷に住むことと仕事の両方を同時に選択する幸せを、憲法13条をたてに要求するようなことはしない。また、本土から老後は沖縄に移住するという人が増えても良い。
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