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2019年3月11日月曜日

身の程を知る日本人

1)「身の程を知る」ことは、日本人社会では常識だと思う。しかし、それは良い面と良くない面の両方を持つ。善良なる社会人を産む背景としては、理想的かもしれないが、その一方で国のリーダーや大企業の創業者などを産む背景と考えた場合、貧しい結果しか得られないということである。

日本の中で、“身の程を知らない人”を初めて観たと記憶するのは、テレビの画面で「金儲けは悪いことですか?」と言い放った村上世彰氏や、村上氏にインサイダー情報を与えたと言われた堀江貴文氏の事件である。勿論、一般に金儲けは悪いことではないが、決算書虚偽記載やインサイダー取引は悪いことである。更に、社会や法の弱点を突いての金儲けは、犯罪としては成立しないが、強欲的として批判されるだろう。

その真相はわからないものの、有罪とされ多額の追徴金を支払わされたことは事実である。昨日のTV番組「そこまで言って委員会」でも、この事件は話題になっていたが、真相は闇の中にあるという印象だった。その村上氏は、現在も日本での金融取引等で儲け、シンガポールに住み節税しているらしい。やはり、この人は“身の程を知らぬ強欲人間”(補足1)であることは事実だろう。

この事件、厳密な意味での法治国家であれば、有罪になっていたかどうか疑わしいのかもしれない。過去の刑事事件の顛末を見ると、そう考えてしまう。つまり、日本では検察や司法が時代劇の水戸黄門的裁きをしている可能性が高い。この件は別途議論する予定である。(補足2)

今回のカルロス・ゴーン氏の逮捕劇も、上記事件やライブドア事件の時と同様の感覚で観た。ただし、ゴーン氏は外国人であり、この国の文化の中で育った訳ではない。国際的な意味で、優秀な経営者に過ぎないのだろう。あの時と同様の感覚で逮捕が為されたのなら、検察は負ける可能性があると思う。(補足3)現在の犯罪捜査と裁判のあり方は、「身の程を知る日本文化」に頼った人治国家のものであると思う。

2)日本人以外の大陸系の多くの人たちには、「身の程を知る」という考えなどあまり無いようだ。その差は、生存に要求される視野の広さと時間スケールにおいて、大陸と日本では全く異なるからだと思う。 「身の程を知る文化」は、自分の近傍のグループが調和的であれば、あとは自然の偉大な力が全体の調和を約束してくれると信じる文化である。この文化の背景には、自然崇拝(古来の神道)があると思う。(これは伊勢神道とは異なる。2月の記事「天皇家と国家神道について」参照:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/02/blog-post_22.html)

日本人は、この偉大な自然の中に生きる人間であるから、個人は集団の中に調和すれば(埋もれることを考えれば)、生き残ることが可能である。そして、専ら隣近所と過去が視野である。その視野を超えた世界は、観測の世界ではなく想像の世界である。この文化は、日本人の島国根性の正体だと考える。

日本独特の「箱庭や盆栽」は、その文化の中で生まれた。それらは、自然を想像し模倣したものであり、観測した結果ではない。そこにあるのは、事実としての自然ではなく、あるべき姿の自然である。自然は限りなく大きく、その視点からは巨木も小さな存在として想像される。箱庭や大自然を模した庭園の中に、主人公である自分たち小さな人間を想像するのである。

身の程を知る文化、つまり「箱庭文化」は、神道的自然崇拝の結果である。一方、箱庭や盆栽は、偉大な神の視点を得るために作ると考える人もいるだろう。それも事実だと思う。つまり、自然に調和した自分は、自然という神との合一を意味しているからである。

日本人は、自然に調和する一環として、周囲に調和しているのだろう。巨大な自然の中の小さな存在として生き、そして自然の中に消滅するのが日本人の一生のあるべき姿である。小さな箱庭や盆栽を見て、その人のあるべき姿を想像するのだろう。小説「楢山節考」は、常に貧困の中にあった昔の日本における、自然調和を信仰とした人間の姿を描いていると思う。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/09/blog-post_4.html

一方、大きく優秀な村上氏や堀江氏は、そのままの自分をテレビの画面に出してしまった。それらは、身の程を知らない外国人の姿だったのである。

3)現在老齢の域に達した日本人には、この神道的な考え方が身にしみている。そして、自分は、自然という大きな存在の中に含まれる小さい存在だという自覚を持つ。自覚というが誇りなのかもしれない。それは不思議な感覚:「箱庭感覚」である。

その「箱庭文化」(=身の程を知る文化)が、日本人の集団としての性質を作っている。集団の中で、違和感のある存在にならない様に、外にある目は自分を眺めている。「列を整然とつくる日本人」はその結果である。

この従順でおとなしい日本人の姿は、列に並ばない大きな集団を見た時、従順さを失って凶暴になる可能性を秘めている。それは、列に並ぶことで列の外に居る人間を軽蔑しているからである。その可能性がミクロに現実化したのが、イジメである。戦前の日本軍の強さも、ひょっとしてこの解釈で説明可能かもしれない。

別の表現では、日本人の視点は殆ど自分の外にある。そこから自分を一つの対象として見、自分とその周囲の人間の関係をシミュレートする。その結果、日本人の個は集団の中で縮小し、その周囲をゲル状の空気(山本七平の本にある)が覆うだろう。外国人が見る集団化した日本人の姿だろう。

我々日本人は、この特性を理解して、その限界を超える工夫をしなければ21世紀末まで生き残れないだろう。

補足:

1)村上氏は、西欧社会なら有能な会社経営者として迎えられた可能性が高い。このタイプの人を受け入れることができないのは、日本社会の“懐の狭さ”であり、日本経済低迷の原因の主要なる一部だろう。

2)日本の犯罪に関する捜査は、明確な証拠を抑える以前に、犯罪のシナリオが作られるようだ。そのシナリオとそれまでに掴んだ証拠らしきものとで、裁判所は簡単に逮捕状を出すのではないだろうか。その後、シナリオの補強と証拠の精査及び追加の探索がなされる。裁判もそのシナリオ通りに進み、結審するのである。名張毒ぶどう酒事件や高知白バイ死事件を考えた時、その印象を強めた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/03/blog-post_5.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_26.html

3)無罪請負人或いはカミソリ弁護人という異名を持つ方が弁護に付き、無罪の可能性があると明言していた。

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