追捕: 本文中の在米の方のブログ記事はヤフーから以下のサイトに引っ越しをした様ですので、そちらを参照ください。(2020/11/30)
https://ameblo.jp/chuka123/theme-10111394390.html
1)1974年3月、旧日本軍将校の小野田寛郎氏がルバング島ジャングルから約30年ぶりに日本に帰還し、マスコミにより大々的に報道された。敗戦から29年近く経過しての投降帰国は、日本国内では熱烈な歓迎となった。しかし、小野田氏の無事の母国復帰を複雑な気持ち、もっと正確に言うと、怒りをもって知った人はルバング島に多かっただろう。
何故なら、小野田氏らのグループは潜伏中に多数の人を銃撃し、そのうち30人を殺したからである。この小野田氏の帰還劇を評価する際に重要なこの出来事は、当時の厚生省により隠され、国民に広く知られることはなかった。当局は、多くの国民にはその事実を受け止める準備がなされていないと考えたのだろう。
一昨年、NHKが新たに公開された外交資料を元に、 小野田氏のケースを考察する番組を作った。ETV特集「小野田元少尉の帰還:極秘文書が語る日比外交」(2017年3月4日(土) 午後11時00分(90分) )である。https://www.youtube.com/watch?v=b5b98Wm5kiI (NHKは著作権を持ち出して、youtubeに消去させるようなことはしないでもらいたい。)
そこでは客観的事実と小野田氏の証言をそのまま用いて番組を作っている。しかし、その解釈を良としないブロガーが、小野田氏および日本政府の姿勢を批判する記事を書いた。私は、その記事にコメントを書いた。その最後の文章を紹介する:
平和な情況下、つまり、全ての対人行為が法的に解決可能な環境下にある方たちに、極限状況とその下にある人を非難する資格などない。勿論、議論する自由はある。
コメントを書いたものの、その時はこの件について、新聞記事の表題以上の知識はほとんどなかった。今、上記NHKの番組とそのブロガーの記事を読み、ほぼ理解できたので私の推理をブログ記事として書く。
上記ブロガーとは、ヤフーブログで活躍中のハンドル名chuka氏である。その記事とは以下のもの:
https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/folder/593269.html
更に、関連する記事として、
https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/18856784.html および、
https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/15409065.html がある。
このブログ記事では、小野田氏のルバング島での30年間をわかりやすく箇条書きに整理している。恐らく、小野田氏の著書「たった一人の30年戦争」、及び、そのゴーストライターの津田信氏の本「幻想の英雄」などを参照し整理したのだろう。その一部を(補足1)に紹介する。詳細は、直接上に紹介のサイトを訪問していただきたい。
上述のようにそのブログ記事では、小野田氏および日本政府の姿勢を強く批判している。そして、日本政府が寄付した3億円の迷惑料をマルコス大統領への賄賂だとしている。私の推理では、それらは全く間違いである。以下にその理由として、主にNHKの番組で与えられた情報を引用して説明する。
2)文章が長くなるのを避けるため、番組の内容の概略は一部を除いて紹介しない。小野田氏や鈴木氏などの「氏」は、引用時には省略する。
先ず、上記のNHKの番組から、救出の最後の場面を簡単に紹介する。
小野田がグアム島から帰還した1972年、小野田の唯一の部下であった小塚金七がフィリピン警察軍により撃たれ死亡する。事件後、厚生省は小野田の兄姉、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を現地に派遣する。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。(ウィキペディアの「小野田寛郎」の項にも書かれている。)
その後、鈴木紀夫が単身島に渡り、小野田を一人で捜索する。鈴木は、日本人が一人で捜索すれば、小野田の警戒心が和らぐ筈だと考えていた。(補足2)山中にテントを張り、小野田が現れるのを待った。
テントを見つけた小野田は、立ち上がった鈴木に銃を向けた。鈴木は、「日本人だ」と言ったので、「自分は小野田だ」と返答した。その時、鈴木に小野田は、「谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束する。
この場面と情況が、以下の推理を思いつく大きなヒントになった。小野田氏の本心を以下のように推理する。
小野田氏は、既に戦争が終わっていることを大分前に知っていただろう。最初の捜索隊がルバング島に行った時(1952年)には、敵の謀略の可能性が高いと思っただろうが、その数年後競馬放送を聞いたりしていた頃には、戦争は終わっているが、捜索隊に身を任せることは危険であると思うようになっていた可能性が高い。つまり、既に何人も島民を殺していたので、無事帰還が叶うとおもわなかったと推測する。(補足3)
更に、1973年からの捜索の時には、殺されずに投降することは可能だと思うに至ったと、私は推測する。しかし、その頃には、自分はどのような顔をして日本に帰れば良いのか分からなくなっていたと思う。グアム島から帰還した横井庄一氏は、自給自足で生活をし、発見されても住民に殺される危険性は小さかった。そして、帰還の際には「恥ずかしながら、帰って参りました」という言葉で、なんとか自分の心理と折り合いがついた。
しかし、小野田氏の場合は、情況が全く異なる。戦争後の数年間は、戦争は続いていると思ったとしても不思議ではない。その戦場諜報員としての活動中に、島民を何人も殺している。
小野田氏の場合、戦争が終わり自分も投降すれば帰国できる可能性が高いと気が付いた時には、「恥ずかしながら」では帰国出来なくなっていた。それまで、自分達が国家の為(と考え)、任務として行って来たこと、更に、その後は自分達が生存のために行って来たこと、それらの行為は平穏な世界の物差しでは重罪であり、自分たちは重罪人に該当するのである。
大規模捜索隊に投降する場合には、その瞬間に、重罪人の顔から、一人の普通の1945年8月の旧陸軍少尉の顔にならなければならない。それは不可能である。
しかし、一人で近くにテントを張っていた鈴木紀夫氏とは、全く何の前提条件もなく話すことができた。その結果、20年ほどの自分たちの活動を完全否定することなく、当時の日本に帰国したときの自分の姿に接続する方法を探すことができた。それが、上官の命令があれば投降し帰国するということである。(補足4)
その儀式の重要性を理解できない人は多いだろう。しかし、上官命令による投降の儀式は、小野田氏にとって十分に命がけの儀式だったと私は思う。(補足5)更に、マルコス大統領によるマラカニアン宮殿での盛大な投降式は、フィリピンでの犯罪を許すための儀式であった。
この二つの儀式に小野田氏は救われたのである。上官の命令解除による投降は、軍人としての本来の姿ではある。平穏な世界に慣れた人には、敗走28年の後のこれら儀式は取って付けた欺瞞のような印象を持つだろう。しかし、必死で生きた28年は長くもあり、一瞬のようでもある。それが人の時間の特徴だと私は思う。
小野田氏が、その道を選ぶことができたのは、そして、それによりマルコス大統領の深い考えを導きだしたのは、神の配慮なのかもしれない。
その結果、小野田氏は英雄として日本に迎えられた。NHKの放送にあるように、帰国後の予定は政府により決められた。小野田氏が一番望んでいた戦友の墓参りは後ろに廻されてしまった。一人の諜報活動を任務とする少尉に過ぎない小野田氏にとって、その英雄としての待遇は心地よいものではなかった。それで、一年後のブラジルに移住するのである。
以上が私の推理である。何か間違いがあれば指摘してほしい。最後に、一言追加したい。小野田氏に殺された30人を含めて、怪我などの被害を受けたルバング島の100人の方々への補償が、日本政府により(フィリピン政府の協力を得て)なされなかったことも残念である。この問題は、「外交問題としての小野田氏帰還」を書く場合には、触れたい。
追補:
1)(4月20日午前7時)小野田氏は自分の行動を正当化するために多くの嘘をついただろう。しかし、戦争が終わったと気づいた時、投降は命がけだったのだろう。1949年に小野田グループから逃げた赤津元一等兵が生きて日本に帰還したことを知った時、自分のミスに気付いた筈である。つまり、赤津氏の判断が正しかったのである。小野田の判断ミスの結果として、島田氏、小塚氏の部下2名が射殺されてしまう。おそらく、彼らの遺族の方々は手放しで小野田氏の日本帰還を喜べない筈である。その意味では、重罪を背負って生きていたのだろう。
その様な小野田氏を批判する気持ちは十分わかるのだが、その資格は多くの人にはないだろう。無条件でその資格を持っているのは3名のグループ構成員たちだけだろう。気になるのが、その一人赤津勇一氏が日本に帰って国会で証言し、且つ、1972年の捜索に加わりながら、ほとんど日本国内で発言の機会が与えられなかったことである。その点について、何か明らかになれば、私も小野田批判側(同時に日本政府批判側だろう)に廻る可能性がある。
参考文献の追加:斎藤充功著、「小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか」(学研パブリッシング 2015)
2)上記の件についての秀逸なブログ記事を見つけました。この記事は私の上記推論を支持していると思います。「実録小野田少尉② 赤津勇一一等兵 消された存在」です。 https://blogs.yahoo.co.jp/phuchan_n/18243192.html
(一部編集、補足4と追補2の追加;21日早朝)
補足:
1)小野田氏の残留兵としての28年:
・ 小野田グループ4名は、1945年には投降勧告のビラを見ている。12月には2度目のビラに、山下奉文名による降伏命令をみる。
・ 1946年2月には、拡声器により日本語で投降を呼びかけに応じて、3月下旬までに日本兵41名が投降している。
・ 1949年に小野田グループの赤津一等兵が投降した。そこで小野田、島田、小塚の3人が未だ潜伏中であることがわかる。
・ 1952年(この年、フィリピンとの賠償交渉が始まった)フィリピン空軍の飛行機に乗って島の上空を旋回し、拡声器で元陸軍中佐が呼びかける。3名の家族から託された手紙や写真を載せたビラをまいた。
・ 辻豊朝日新聞記者がフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
・ 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊に、小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
・ 島田伍長の遺体確認のために厚生省の係官と小野田少尉の長兄、小塚一等兵の弟が島に入り、呼びかけや、ビラ撒を行ったが誰も出てこなかった。
・ 1959年小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、二人は現れなかった。
・ 同年11月 日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
・ 1972年1月横井庄一氏がグアム島から帰還。
・ 同年の10月 小塚金七氏がフィリピン警察軍により撃たれ死亡する。警察軍出動の原因は、小野田・小塚が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだという。
これらは抜粋であるので、最初に引用のサイトのリストは、ウイキペディアの記述やNHKで放送された番組などよりは相当詳しい。
2)厚生省の組織した捜索隊は、陸軍中野学校で諜報員として教育された小野田氏を、スピーカーと肉親による日本語の呼びかけを大々的に行うという、単純な発想で救出作戦を立てた。それは、小野田氏を救出する為だろうが、救出作戦を大々的に実行すること自体が目的のようにも思える。一方、鈴木青年は、小野田氏の心理を考えて捜索方法を考え実行した。似たケースが昨年夏にあった。山口県周防大島町で行方不明になった2歳前の子供を、地元消防は350人規模で捜索したが発見出来なかった。それを一人のボランティアが、子供の心理を考えて方向を決めて捜索した結果、20分ほどで発見したのである。
3)NHKの番組によると、小野田氏がルバング島を再訪した際、そのルートを島民関係者と相談して決めた。そこで当時30代だった父親を殺された人の地域の訪問を打診されたその人の長男は、NHKの取材者に「自分には小野田を見た時、自制する自信がなかったので、断った」と発言している。
4)それは平時の感覚では、非常に狡猾&卑怯なやり方である。
5)映画「レミゼラブル」のラストシーンである。教会で強盗を働いたジャンバルジャンを何十年間追いかけるのが、ジャベール警部のライフワークとなった。しかし、ジャベール警部はその犯行の際、教会の神父がジャンバルジャンを許したことを十分考えなかった。30年ほどの捜査だったと思うが、最後にジャンバルジャンに手錠をかけることは出来た。その際、ジャンバルジャンとの会話の後、これまで確信できなかったが、それが意味のないことだと明確に知る。数十年の自分の仕事が空虚になったジャベール警部は、ジャンバルジャンの手錠を外して、自分自身は運河に身を投げることになった。
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