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2019年4月1日月曜日

「刺青」(谷崎潤一郎の小説)の感想

「刺青」は谷崎潤一郎の最初の小説だという。原稿用紙20枚にも満たない短編であるが、小説の面白さを教えてくれる作品だろう。谷崎は明治19年生まれであり、活動時期は20世紀であったが、小説の描く時代は絢爛たる町人文化の江戸時代だろう。私の理解した概略とその感想を書く。

物語の概略:

主人公清吉は、豊国国貞のような浮世絵師を目指したが、その目的は達せずに刺青師となった男である。自分の刺青師としての能力の限りを尽くして、それに相応しい美女の背中に女郎蜘蛛の刺青を入れるという物語である。その思いに駆られて数年の後に、清吉の命を懸けるほどの欲望に相応しい美女を見出す。しかし、その際見えたのは駕籠の簾のかげから溢れたように見える素足だけであった。

以下のように書かれている。小説家の文章とはこのようなものかと思わせる描写である。

その女の足は、彼に取っては貴き肉の宝玉であった。拇指から起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れる薄紅色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。

その時は後を追うものの見逃してしまうのだが、半年ほどして、色街の芸者の使いとして、羽織の裏地に何か絵を描くようにという依頼の手紙をもって清吉を訪ねてきた。そこで、清吉はその娘の深層に眠る心理を呼び覚ますために、二つの巻物を見せる。欄にもたれて生贄の男を眺める紂王の寵妃の絵巻物と、多くの男たちの屍骸を見つめて居る女と凱歌を歌うような小鳥の群を描いた「肥料(こやし)」と云う巻物である。

娘の心に自分の本性を知る切掛を与えた後に麻酔を嗅がして、清吉は仕事に取り掛かる。 丸1日程して、娘の背中に女郎蜘蛛の刺青ができあがる。(補足1)その仕事を成し終えた清吉の心は虚となるが、その一方で、娘の背中に彫られた女郎蜘蛛が命を得るかのごとくに、麻酔から覚めた娘の苦しみの中でうごめく。

その後湯に浸かり、彫り込まれた色を肌に馴染ませて、刺青は完成する。その苦痛に耐えることで、刺青として彫り込まれた女郎蜘蛛と娘は一体となり、座敷に出る前の娘を紂王の寵妃の末喜の様な女に変身させた。

帰る前にその女は言った。
「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。———お前さんは真先に私のこやしになったんだねえ」と、女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひゞいて居た。(補足2)

以下感想文:

1)この小説を読み、最初はくだらないことに命を掛ける姿を見た気持ちになった。そして、次に私的な世界にのみ生きるタイプの人間が、生活に余裕ができた時、どのように自分の生命を消費するのだろうかと考えた。

その人間の本性の現れ方は、時代背景などにより変化するだろう。この小説は、江戸時代の町人文化の中に生きる、私的な世界に沈んだ人間の究極の姿を描く名作だと思うことになった。並外れた才能と美貌が出会い、私的な小さな世界を追求する姿を描いているのだと思う。(補足3)

江戸時代、この国には拡張の余地はなかった。文明も、そして、それにより拓かれる文化も、飽和状態であった。そのような世界では、多くの人は私的な世界に入り込み、原始的な姿に戻るのだろう。つまり、この小説はエロティシズムの中で、人生の全てを消費する文明社会の中での原始的人間の姿を描いている。

足先だけを見て、その美しい女性の全身を知ることができる清吉の姿は、研ぎ澄まされたエロティシズムの結果である。そして、女郎蜘蛛を背中に持ち、今後、世の中の男どもを餌食とする女の姿も同様である。勿論、それらは小説の世界でしか書けない話なのかもしれない。優れた小説家が、狭い江戸町人文化の片隅を見事というか、誇張して描いていると思う。

人間には他の動物にない想像力や自分の姿を見る目が備わっている。更に、有史以来数千年以上の間に作り上げた社会と文化を持っている。それらを表現のキャンパスにして、原始的な生物としての人間の生態を描くのなら、この小説のような世界となるだろう。

2)現代人は、江戸時代の人と比較して、遥かに大きく広がった空間を持っている。しかし、その文化は停滞的であり、多くの人に何らかの形でより文化的方向に前進する社会の姿は見えていない。つまり、江戸時代の町人文化のような停滞感や成熟感があるのではないだろうか。

彫り師の清吉と、女郎蜘蛛を背中に持つ女の世界は、江戸時代を背景に描かれた世界である。一方、高度に発達した資本主義文明の中で、停滞し腐敗の領域に入ろうとしている文化の下、類似の世界がある様に思える。テレビなどで、芸能界の隅の薬物と性で象徴される退廃した世界を垣間見る時、そのように考えてしまう。

この小説は、停滞した文明化社会の中で、人が生命としての本質に戻った時、どのような姿になるかに関して、一つの例を提供している。これは単に、一つの小さい世界に住処つまり巣窟(英語のnest)を求める人間の姿なのかもしれない。(補足4)

上に原始的な姿に戻ると書いたが、それは人間の本来の姿ではない筈と思いたい。人が単に知的能力に優れた哺乳動物(アニマル)でないのなら、原始的な姿=本質的な姿、ではない。人の本来あるべき姿は、隣の人や見ず知らずの人にも親和力を持つ「人間」という文化的な姿である。

もしそれが、仮の宿の仮の姿であるとしても、(補足5)それにこだわることに人間としての義務がある。私はエホバ神の信者ではないが、創世記の始めの方に「神は自らの姿に似せて人を作り賜うた」という記述を印象深く記憶している。それは、単なる知的なアニマルであるだけでは人ではないという戒めである。

(前日一旦投稿しましたが、不十分な内容だったため、書き直しました。2019/4/2)

補足:

1)丸一日麻酔の下で刺青をするようなことは実際にはあり得ない。しかし、そこに拘る解説をネットでみたが、それは小説の読み方ではないと思う。以前、芥川龍之介の藪の中を評した際、法医学を持ち出して小刀を刺したのは多襄丸ではないという議論を紹介したが、それも同様に滑稽である。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/08/iii.html

2)この文章中の「こやし」は、清吉が娘に見せた2本目の巻物の画題「肥料」である。

3)人間が文化的存在だとすれば、そのような人間の姿は停滞した社会の中での大いなる無駄を表している。

4)この小さい世界を住処とする人の性質は、又吉直樹著の芥川賞作品「火花」にも描かれている。4年前に、この作品の感想文を書き、「漫才」も一つの文化のフロンティアであり、そこを住処と決めて生きる人の姿を描いていると、高く評価したことがある。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/08/blog-post_18.html

5)「仮の宿」という言葉は、曽野綾子さんの本の題名からお借りしました。

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