日本では、一度出来上がった社会の枠組みを変更するのが非常に困難な国である。超保守的或いは超惰性の国のようである。誰かが現行制度を替えたらどうかと発言した場合、既に集団の一部には定着した制度なので、発言者はその反発を受け、結果として集団全体から疎外される。それが解っているので、最初から誰も何も言わない。(補足1)
提案は、個人の思いつきから出るのが普通である。しかし、その開始やその行事の枠組みの決定には、そしてその変更、廃止などにも同様に、集団での思考と決断が必要である。しかし、日本では集団での思考が極めて苦手である。その結果、一旦始まれば、その後不満があちこちから聞こえても、その枠組みから出られないのである。(補足2)
具体例をあげると、表題の成人式がある。戦後、人生での区切りを若者の意識してもらうために、つまり通過儀礼的な役割を考えて、どこかの地方公共団体が導入した行事だという。
古来その類の儀式として「元服の儀式」が存在するが、それは家庭で個別に行う。明治以降、徴兵検査が通過儀礼的役割を果たすことになり、日本帝国において集団としての活力の基礎となった可能性がある。戦後、スピリッツが抜けたような日本になったが、未来の日本を担うは若者が軟弱になってはならないとして、どこかが始め全国に広がったのだろう。
https://toyokeizai.net/articles/-/323616?page=2
しかし、現在、成人式は通過儀礼的な区切りとしての役割を終えている。若者には、入社試験(面接)や入学試験などと、その後の入社式や入学式が存在する。従って、式用の着物などを用意する親や、式典を行う地方公共団体が、多大の経費をかけてまで成人式を続ける意味など無い。
実際、TVは、女性は華美に振袖を着ること(補足3)、男性の一部はとんでもない行動でマスコミを賑わせることなど、末期の混乱状況を写し出している。同窓会の機会を提供することは若干のプラスだが、成人式に通過儀礼的な働きなど考えられない。その経費を子供が稼いで賄うのなら兎も角、全て親が持つのでは、社会に出たのちの覚悟を毀損する意味しかない。
しかし、一旦出来た社会の枠組み(制度)を廃止する能力は、日本社会には乏しい。その制度等の意味、コストやメリットなどを原点から考えて、中止するとか最良のものに適宜変更していくという意志と知恵は、社会のどこからも発生しないし、存在しないのだ。
2)自己無撞着化されていない日本の構造:(補足4)
ここで、リトマス試験紙の色変化から、大きな系全体を議論するのを真似て、視野を大きく拡大する。以上の日本社会の特徴は、明治に移植された近代西欧的機能社会或いは機能集団が十分に機能していないと総括できるかもしれない。
江戸時代までは、日本の文化は自身の歴史的背景と資源(文化的、人的)を基に、発展してきた。その社会の機能と構造は、独自に自己矛盾を自然に解消するように変化してきたと思う。
しかし、明治初期になって、西欧の文化が突然移植され、西欧の機能社会を真似て国全体が再編された。ただ、その社会に残る矛盾点の解消をするメカニズムをコピーし忘れたのではないだろうか。それは集団の中で議論する文化である。
江戸時代の日本は、武士による専制政治を採用しており、社会の枠組みなどを考えるのは武士の仕事であった。その文化が、武士個人を幼少より儒教的な素養を身につるように、命を賭けて組織の各層においてふさわしい役割を果たすように、教育した。
明治以降、それらの江戸までの文化とその機能社会における役割が十分考察されずに廃棄され、西欧の国民国家制度が導入された。四民平等は良いが、農工商に社会での役割を果たす様に、教育がされただろうか? 国民国家というがそれは嘘で、国民の命を消費財のように使う独裁国家ではなかったのか。
この問題は、出来ればもう少し丁寧に考察したいのだが、現時点では、日本は積極的に社会の変革が出来ない“超保守的な国”となっていることの指摘で終わりたい。その結果、本来機能体として組織されるべき集団が、機能不全に陥っていると思う。
社会に自己変革のメカニズムが無くなれば、個人のレベルでも積極性に欠けるようになる。安全最優先で冒険を忌避するデフレ文化が定着し、それが日本の低迷の原因のようにも思う。余談だが、企業の創業者たちは、能動的である。米国のイーロンマスクや日本の前澤友作は、”宇宙旅行”をしたのが良い例だろう。(補足5)
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202201070000255.html
人間は社会をつくり、互いに協力して生きなければならない。この機能不全をもっと重大なことと受けとめ、社会において能動的に生きる文化を築くことを考えなければならない。特に知的な層に属する人たちは、その責任を負う。リターンが少ない(或いは負のリターンを受けるかも)のは事実だろうが、そして責任の回避と他へのなすり付けは可能かもしれないが、国全体が枯れてしまえば自分たちも生活できないのだから。
(翌日午前、編集あり)
補足:
1)これは憲法改正という国家の大問題において既に明らかな事実である。この文章の集団の一部が何を意味するか考えると、ここのケースでの組織の矛盾が明らかになるだろう。
2)根本的な日本の文化的欠陥として、議論がまともに出来ないことがある。20日ほど前にもこの点について議論した。(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12717842129.html)
これまでの似たテーマの投稿を列挙する:
「沈黙の文化と言論の文化」(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514546.html);
「二つの宗教:自分が生きる為の宗教と他人を支配する為の宗教」(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516112.html):
「言葉の進化論(1~3)」シリーズ最後の文:「善悪に見る言葉の壁」
(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12484224705.html)。
3)女子のほとんどが、成人式では振袖にふわふわの襟巻き、卒業式では羽織袴で、夫々着飾るのほとんどである。このような日本女子の、貧困な発想、貸衣装会社か和服屋の策略にむざむざと嵌った情けない姿には、非常に残念というか、腹立たしささえ感じる。
4)無撞着とは辻褄があっていることの意味。撞着とは、前後が矛盾することである。
5)国際宇宙ステーションから帰還した前澤有作氏の感想の言葉には実感がこもっている。「正直、無重力をなめてましたね」&「地球の1Gが、こんなに威力があるんだと再認識できました」という言葉である。アメリカの「アポロ11号」のニール・アームストロング船長が残した「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という言葉のインチキ臭さと対照的である。もし、実際に月面を歩いたなら、一歩目が十分には出ないだろう。地上での歩行パラメータが入力されている人間の脳の司令では、重力が1/6の月面ではよろける筈である。
それに、無重力環境で足の筋肉が萎えている筈。日本は西欧(特に米国)の嘘をつく文化には未だ毒されていないことが救いである。
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