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民主国家は、法治国家でなくてはならない。表記事件の隠蔽は、近代国家としての日本国に対する国際的信用を毀損するものだと思う。文系分野には素人だが、一般論から日本国のこの類の異常を考えてみたい。
法治国家においては、法の執行は①真実に基づいて②平等に為されなければならない。行政のあらゆる部分において、この原則は守られなければならない。犯罪処罰でも、①と②の条件は、警察と検察、そして司法において守られなければならない。
そのためにはこれら諸機関が100%機能体として働くことが必須である。情状酌量も法や慣習法に基づかなければならない。つまり、警察や検察が共同体組織的になり、構成員間で(その縁者を含めて)庇いあうようなことがあってはならない。
また、警察や検察が他機関の法に示された以外の干渉(違法な干渉)を受け入れてはならない。これらの機関は、違法行為を漏れなく見つけ出し、その犯罪と係わった人達に司法の裁きを受けさせるべく、淡々と且つ確実に働かなくてはならない。この要請に、今日の検察を含め日本国の諸機関は十分に応えていない様に思う。(補足1)
犯罪防止と犯罪処罰について、関連する上記の三機関の働きをレビューすることは、比較的容易であり、それは国の法治国家として評価に最適だと思う。その趣旨で、今回の安田種雄氏殺害事件を考えてみる。
2)異例の捜査中止について:
昨日午後、安田種雄氏殺害事件の2018年の再捜査を担当した、当時の警部補佐藤誠氏の記者会見があった。佐藤氏は、先日の警察庁長官の事件性は無かったという声明に、自分たちの捜査努力に対する侮辱であると感じ、地方公務員法への抵触も覚悟のうえで実名で証言することになった。
それを見た限りでは、現場の警察官は任務を果たすべく良く働いている。それにも拘らず、上層部が何らかの外部干渉を受け入れて、捜査を中止してしまったようだ。佐藤誠氏の記者会見の動画を下に引用する。ただ、「2006年の時の捜査をレビューしたか?」などの質問もなく、あまり真実に迫る質問がなかったのは非常に残念だった。https://www.youtube.com/watch?v=EBt81GZkhoM
上の動画で佐藤元警部補も言及しているように、捜査中止が上層部から指示されたのは異例の出来事だった。(補足2)このことを少し裾野を広げて考えてみる。
捜査中止の動機には二つのケースが存在する。一つは、外部の政治力のある機関或いは個人の干渉を受け入れる判断を警視庁(或いは警察庁)上層部が行うケースである。例えば、警察庁の上部機関にあたる内閣官房から圧力があった場合には、捜査は中断されるだろう。
もう一つは、警視庁が機能体組織であるべきことを学ばず、構成員全員の共同体であるかの如く錯覚し、構成員の犯罪を共有してしまった結果の隠蔽である。一警察官の私的な犯罪から警視庁という機関を切り離す知恵がないため、機関全体の犯罪としてしまうケースである。
2006年、自殺だとして早々に捜査を中止し、捜査報告を警察庁に上げなかった。2018年の再捜査のときよりも真実に迫る情報を当時はもっていたと思われるので、真相をほぼ把握した上層部がこれ以上捜査を継続すれば警視庁が非常にまずいことになると隠蔽を決断したのだろう。(補足3)
事件での登場人物がほぼ全員上がっている今、そのような警視庁組織をあげての隠蔽の理由は一つしかないだろう。それは、Xの父親であるZの事件への深刻な関与である。それは記者会見でもサジェストされたし、週刊文春8月3日号にも間接的にだが書かれている。
2006年に自殺だとして早々に中止し、捜査報告を警察庁に上げなかったのは、警視庁をまるで共同体組織のように勘違いした結果だろう。つまり警視庁という機関が無謬であるべきとの身勝手な価値観と感情に支配され、構成員が絡んだ重大犯罪を隠蔽したのだろう。
この種の隠蔽はこの国には実に多い。学校で、生徒間の虐めや先生による違法行為が発生すると、そこの校長が隠蔽に動くケースが多い。学校=純潔、或いは、警察=公平高潔などの言霊的信仰は、それら機関が機能体組織から遠く離れることを当然とする日本の途上国的文化の一面である。
「いじめを隠蔽する教員ほど出世する」学校現場がいじめ認定に消極的な根本原因 防止法の趣旨がねじ曲げられている | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
警察官も学校の先生も、私的時間では一人の“生身の人間”であり、犯罪に走ってしまう場合もあり得る。そのようなケースでは、一私人として正しく処罰すべきである。
“生身の人間”とは、現在の法(社会)システムに従って生きることに必ずしも満足できないという意味である。その人間の習性や個性と現行法システムの想定する人間モデルとの不一致は、人間側に責任がある場合と、法システムの欠陥によると結論される場合が考えられる。
つまり、発生した犯罪は、前者の見方で個人を処罰し、後者の見方で法システムの改善を行うことで、栄養分は吸収され不要分は捨てられる。隠蔽は、その両方の機会を失うので、社会にとって純損となる。
3)政治システムを西欧型様式にするなら、その基礎にある哲学を学ぶべき
以前のブログ記事にも書いたが、日本は政治制度を西欧から学んだが、大事な原則を学んでいない。行政組織は機能体組織で無くてはならないこと、そして、私的な感情を組織内に持ち込んではならないことをしっかり学ぶべきである。(補足4)
政府は人間の身体で言えば、頭脳である。その他の器官も、其々必要な機能を実行する機能体組織である。それらが総合されて日本という国を作っている。国全体としては、国民(細胞に相当)を構成員とする共同体を作っている。この考え方を「国の動物モデル」として、以前ブログ記事を書いた。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12588475327.html
一日24時間の内、会社や官庁に出社して仕事をする時間が公的な時間であり、それ以外が私的な時間である。公的な時間では、国民にサービスを提供する一方、私的な時間に戻った時には、社会の諸機関からサービスを受けるのである。
社会の諸機関で働く個人は、私的な部分を持ち込み公私混同してはならない。この言葉で言えば簡単なことが、なかなか日本社会には定着しない。例えば平社員の自分と同じ会社の部長が団地で隣家同志となった場合でも、私的な時間にその地位の上下を持ち込んではならない。
この民主国家の健全な社会のあり方を当たり前とする文化を日本は持たなければならない。そのように公私の峻別こそ国家プロジェクトとすべきである。それこそ、社会のインフラであることを知るべきだ。
4)安田種雄氏殺害事件と警察の体質
例えば、安田種雄氏殺害事件において捜査担当警部補が思いついた通り、実行犯がX子の父親Zだと仮定しても、それは単に私人Zの犯行であり、警察という機能体組織で国民にサービスをする公人Z(当時警視庁巡査部長;補足5)ではないことは明らかである。
この公私の峻別ができておれば、2006年当時の警視庁が自殺であるとして事件を隠蔽し、今回の国民の信頼を著しく毀損する愚を犯さないですんだと思う。
この警察の体質は、日本の暗黒の近代史が影響して出来上がったのかもしれない。例えば特高警察などに関する史実から、警察は一般国民の敵というイメージが未だ払拭されていないと考えている可能性がある。その過去の警察のイメージを過剰に意識する傾向があるのかもしれない。(補足6)
その自意識過剰が、警視庁をして隠蔽に動かしたことは十分考えられる。現在、様々な過去の難事件を知るほとんどの国民は、日本の警察は身内を庇うために事件を捏造する体質を持つとかんがえているだろう。(例:和歌山の毒カレー事件、袴田事件、など)
今回、現場で捜査していた元警部補の証言により、このケースは殺人事件であった可能性が非常に高くなった。それでもなお、警察庁長官が事件性が無かったとして捜査を進めなければ、日本の警察機関は再び国民の敵となるだろう。(補足7)
終わりに:
国家組織が機能体組織であるべきだという西欧思想を日本の一般人の殆どは知らないし、気付いても居ない。それは日本の政治制度は西欧の猿真似であり、そのような社会のシステムをゼロから教えることのできる大学の先生方も少ないのだろう。
何事もその底にある哲学を学んでいなければ、自分の知識とはならない。択一式試験に合格できるレベルの知識では、それを学んだとは言えないのである。この日本社会の欠陥は、日本文化の欠陥であり、それが改善しないのは日本の教育システムの欠陥でもある。
この事件から学ぶべきことは多い。ある人物が警察官であるのは警察署に勤務している間だけであるという考え方を日本人全てが学んでその感覚を獲得することである。そのための教訓とすべき事件を隠蔽しては、再びこのような事件を起こすことにつながり、社会から信用を無くすことになる。信用は、社会の生命力である。
一時期、サンデル教授の熱血講義というのがテレビでも放送されたが、あれは熱血講義でもなんでもない。高い授業料をとる大学の講義の当然の姿なのだ。そこでの原点から議論を通して知識を身に着けさせるという教育が、何にもまして日本に望まれる。日本に欠けるのは論理である。それがすべての問題の原点にある。
追補:
この件、警視庁捜査1課の国府田剛課長は28日、「証拠上事件性は認められず、死因は自殺と考えて矛盾はない」とコメントした。警視庁から内閣まで、隠蔽を決めているようだ。岸田政権は、安倍さん暗殺の件でも、隠蔽を決め込んだのだから、当然と言えば当然だろう。
恐ろしい国である、この国は。逃げられない者は、口をつむぐしか方法はないだろう。そのような民の事情は中国と同じである。
(7/29/9:10 追補;17:30編集、最終稿)(7/30/9:00 表題に(木原妻への疑惑)を追加)
補足:
1)安倍政権時代の森友学園問題や加計学園問題では、安倍政権時代の国家組織による違法な支援が両方の経営者になされた。この件だけで、安倍氏は英雄視される政治家ではないことが証明されている。この件は、日本の政治の貧困は、或いは、日本が民主国家でないことの必要かつ十分な証明だった。この延長上に今回のケース(違法な司法介入)があった可能性が大きい。
2)佐藤元警部補は、捜査は国会開催までの期間との指示があったが、その後再開されなかったという証言があった。国会が始まるとX子の子供の面倒を見る人がいないという事情があったのでわからないではないが、閉会後の再開は可能だった。
3)この事件直後2006年4月10日以降の捜査は、証拠も多く事情を知る近所の人の記憶もはっきりしているので、簡単である。その結果、組織としての警視庁が非常に不味いことになると上層部が判断しての中止ではなかったのか。先に紹介の記者会見において、この2006年の捜査資料、捜査担当官の見つけ出しと聴取などについて、ほとんど質問がなかった。私は、彼ら記者たちは、何も聞きに会場に来ているのかと歯がゆい気持ちでいっぱいだった。
4)民主制度を採用する場合、国民個人個人はその責任を果たさなければならない。国家の構造とその合法的且つ効率的な運用には何が必要かなどについて、ある程度のエネルギーを費やして勉強する義務がある。その義務を果たせるように、義務教育においてはその教育内容を熟慮しなければならない。
5)警察の階位は、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正などとなる。一般の警察官は、警部までの場合がほとんどである。巡査部長は高い地位ではないので、Zが権力を用いて、隠蔽に動くことはあり得ない。つまり、警視庁がZが絡んで隠蔽に動く場合は、実行犯の場合だろう。
6)一般市民の味方であるとの広報活動やDJポリスなどの演出、現在の警察が一般市民との過去の垣根をとり除こうとすることが動機だろう。また、日本の警察は銃器の使用に非常に慎重なのは良いが、過剰に意識することは、今後の社会の乱れを考えると気になるところである。
7)被害者は在日韓国人だという指摘があるが、それはこの事件の評価には無関係である。
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