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2024年3月22日金曜日

令和日本の危機:時代の節目を乗り越えるには哲学的伝統が不可欠か


今日は現実的問題から離れて哲学的思考の重要性について書く。一般には、哲学は宗教学とともに難解な形而上学的分野であると考えられ、関心が薄いかもしれない。しかし、本当は、科学も哲学の中から発展した哲学の一部である。実際、自然科学で有名なパスカルやニュートンなどは哲学者としても紹介されている。つまり哲学は、この人間が生きる世界について論理的に思考し探求する学術であり、非常に広く且つ重要である。

哲学の歴史等については全くの素人なのだが、それにも拘わらず哲学関連で書こうと思ったのは、日本では伝統が浅く上記のように誤解されていることと、そして、現代は時代の節目であり、哲学的思考が社会そして政治を考える上で非常に大事であることの二つが気に掛かったからである。突っ込みどころ満載かも知れないので、諸賢のコメントをいただければ有難い。


1)和製漢語である「哲学」とその定義

明治時代、日本は西欧文明を受け入れる決断をして、西欧の概念を取り入れる為に多くの和製漢語を創作した。哲学もその一つである。この他、和製漢語には、国家、人民、共和国、平和などの多くの政治用語、科学、化学、物理、音楽、工学、原子、分子などの学術用語、主観、客観、理性、宗教などの日常言語など非常にたくさん存在し、それらの殆どはこの時代に創られた。

和製漢語のリストは膨大である。これらの多くは隣国中国にも輸出され現在も利用されている。これは、清の時代から孫文などが活躍した中華民国時代にかけての中国人の現実主義と度量の広さを示していると思う。https://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/kanji/waseikango.htm


西欧語を翻訳し和製漢語として取り入れた後には、思考の傾向やその幅や質などに、そしてその後の日本の文化にも相当影響があったと考えるべきだろう。ただ、それらの原語は元々西欧文化の中で創られたのであり、その西欧文化のある部分が日本に定着しなかったとすれば、それらの言葉も誤解されている可能性が高い。

その誤解された和製漢語の中の重要な一つが、「哲学」だろうと思う。哲学は英語のphilosophy(ドイツPhilosophie)からの翻訳であり、好きであるという意味のphilと知或いは知恵を意味するsophyとの合成された言葉である。

ロシアを含めてヨーロッパやアラブ圏などでも日本語の哲学に相当する言葉は、語源的に英語と同じくphil(好む;愛する)とsophy(知、知恵)の合成、つまり「知を愛すること」を意味する。つまり、ユーラシア大陸の広い範囲でphilosophyという言葉に共通の理解がある。(補足1)

一方、日本では、「(明治時代に)西周(にし あまね)が賢哲の希求という意を表すため希哲学と訳したが、やがて哲学という訳語が用いられるにいたった。世界・人生の究極の根本原理を追及する学問(広辞苑、第二版)と理解されている。何故そんなに日常あまり用いない漢字を用いて、型ぐるしい分野に押し込んだのか? philosophy=愛知で良いのではないのか? 

この日本のphilosophyに対する取り扱いに違和感を感じる。(補足2)この定義だと、哲学は形而上学であり、古代の自然科学を産んだギリシャ哲学の足跡のかなりの部分が消えていると感じるからである。西欧のphilosophy に存在する、何かについて前提を置かずに理解する(=何かについての知る)という意味から遠いからである。何故、知を愛する「愛知」が用いられなかったのだろうか?(補足3)

勿論、西欧でもphilosophyという概念は、古代ギリシャ時代の時代の非常に広い意味から現代の人文科学的な分野に変化してきたのは事実だが、それでも何かについての知を追求するという元々の意味がphilosophyという言葉に保存されている。


2)思考における3つのレベル

伊藤貫氏は何本かの動画で、思考する場合に思考の枠組を設定するのが普通であり、それには3つのレベルが存在すると話していた。(補足4)それぞれ、policy level(戦術レベル)、paradigm level(パラダイムレベル)、philosophical level(哲学レベル)という様だ。因みにパラダイムとは学術等の分野を意味する。

私なりの理解を記すと: 全く未知の事や物を解釈するには、出来るだけ広く思考の枠を設定する必要がある。その一方、既知の物や現象の変化等の解釈では、専門分野の狭い思考の枠を設定した方が能率的である。その思考の枠を狭い方から順に、戦術レベル、パラダイムレベル、そして哲学レベルと呼ぶのである。

 

何か未知の物事を理解するために哲学レベルの思考の枠を採用する場合、原点から何の前提を置かないで、まず議論或いは思考に用いる言葉の定義の確認から始める。そして広い知識と深い洞察力を持つ賢人が出来れば複数で議論し、論理展開に誤りがないかどうかをチェックしながら思考することが必要となる。

論理に誤りがなければ、思考の枠が広い程導き出したその物事に関する理解はより確実となる。戦術的思考では、その分野の専門家の議論だけで可能となるが、情況が大きく変わった場合や長期の予測では根本的間違いを犯す可能性がある。

 

高度に組織された現代世界の長期の傾向の予測は、一般に困難である。特に、現在のような大きな時代の節目で、世界政治の進行など考える場合には、原点から根本的に問題を考える哲学的思考が不可欠だろう。そして、専門分野の境界を撤廃し、広い知見を同じテーブルに乗せ、異なる分野の専門家が分野間の正しい情報伝達にも注意して、集団で思考するシンクタンク的な思考が必要になるだろう。

現在あちこちで発生している戦争を考える場合、それら戦争は多民族間(異文化間)の争い(或いは或いは付き合い)だが、戦術的思考だけでは、その意味や進展に対して確かな予測が得られないと思う。これが思考の枠組みという考え方と哲学的思考(の枠組)の重要性である。



終わりに:


現代、世界は時代の節目に差し掛かっている。国際政治は近代西欧文明の枠組みで考えるのが普通だったが、その枠組みでの常識は通用しなくなった。何故なら、西欧の近代が築いた文化が米国を中心に破壊されようとしているからである。ある有力な(少数)民族が国際的に力を持ち出し、その内層での激しい動きが遂に国際政治の表舞台に出るまでになったのである。(補足5)

この米国の情況は、一言で言えば文明の終焉でありその基礎にある言語の破壊とも言える。男女、結婚、国家、戦争、法、人権、司法、歴史など、全ての概念が現在の米国ネオコン政権により破壊され、そしてその動きがグローバルに展開されようとしている。LGBT法など、何の哲学思考なく国会を通したのは、日本国の言語文化の貧困と哲学の欠落を示していると思う。

 

日本は、令和の時代を生き残るために先ずこれらのことに気づく必要があると思う。


補足:

1)哲学に相当する諸外国での単語を、言語名或いは国名とペアで示すと、英語philosophy;フランスphilosophie;ドイツPhilosophie;イタリアfilosofia;トルコFelsefe;スペインfilosofía;ロシアфилософия(filosofiya);ギリシャφιλοσοφία(filosofía);アラビア語falsafaである。これらは、phの表記がф、φ或いはfに変化するが、英語と同じphil「好む」とsophy「知」を合成した概念で「知を追及する(好む)こと」を意味する。philは、一般には「愛する」の意味とされる場合が多いが、本文で「好む」とした。それは、日本語の「愛する」は、対人心情を表す意味が濃いからである。勿論、若い世代では「愛する」の意味も、定年後の世代でのようには“湿った”意味が少ないので一般的表現にした方が良いかもしれない。

2)東アジアではエリート層が知を独占する文化がある。愚民統治の伝統である。例えば、仏教でも儒教でも、日本の教育は重要な文章を丸暗記させることを重要視する。一方、西欧ではギリシャでも中東でも、重要な言葉についてはその真意から伝達しようとする。聖書と仏典の大きな違いは、そこにある。恐らく西欧には奴隷制度があり、そこからの解放があった。しかし、東アジアではその代わりに愚民政策があったのだが、そこからの解放されたという文化を一般民は持っていない。

 

3)愛知県の愛知は、哲学の意味ではない。愛知県のHPに、「万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている、「年魚市潟(あゆちがた)」の「あゆち」が「あいち」に転じたと言われている」と書かれている。

 

4)何かを分析する場合、言葉の定義、設定する条件や前提、何を解明するかという思考の目的を明確にする。これらは通常の科学論文では序文(introduction)として記す。実験系の分野では、用いる装置な物質などを書く部分が続く。これらの設定がここでの「思考の枠」に相当する。文系では、例えば「不景気」という言葉を議論に用いるには、厳密な定義を示さないと、思考が進まない。

 

5)最近、米国左翼の地区検事の下では、日本円で15万円程度の万引きは軽犯罪であり即日釈放される。或いは、これも度々引用するのだが、ユダヤ教のラビ(つまり先生)である サイモン・ウィ―ゼンタール・センター のアブラハム・クーパー副館長が、新潮社編集部の取材で、広島と長崎への原爆投下について、「率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません」(「新潮45」2000年12月号)と語った。ハーグ陸戦条約とか国連憲章とか、近代西欧が築いた政治文化などを前提にしていては議論など出来ない。そのような言葉が出るのが時代の節目なのである。「ロシアのウクライナ侵攻は国家主権の侵犯という国際法違反であり、それ故ロシアが悪い」などという日本の右派の人々の言葉が如何に浅薄なものかわかるだろう。

(15:00、編集)

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