2018年4月26日木曜日

TOKIOの山口氏が世間に詫びる理由

1)“人は生かされているのか生きているのか?”という表題の投稿で、「自分の主人が自分であるのなら、自分の成果は自分のものである。周囲はあくまでその成果に対し、従なる貢献をしたに過ぎない。それが、自立した人間とその社会での出来事に対する然るべき見方である」と書いた。

主従を峻別する文化は、仕事とその責任の在処を決定する際に必須である。この仕事を犯罪に置き換えても同様の論理が成立する。

先ほどのテレビで、人気グループTOKIOの山口とか言う人が、記者会見を開いて自分の犯した行為「女子高生に対する強制わいせつ」について、釈明会見をしていた。NHKを始め公共の電波である筈のテレビ各局で、南北朝鮮会談の予想と同程度の時間をとって報道されていた。

更に私にとって不思議なのは、その主人公はそのような行為に至ったことについて謝っている。「世間を騒がせて申し訳ない」と言って謝っている。いったい彼は、誰に謝っているのだろうか。

被害者がいるのなら、被害者に直接謝るべきである。無関係の一般人に向かって謝るのに公共の電波を使うのは迷惑である。裁判で判決が出たのち、記者が居れば一言静かに社会の一員としてふさわしくないことをしたとコメントを出せば良い。謝罪は刑務所などでの罪の償いの形でするものである。

2)業績を上げた場合、「皆さんのお陰でこのような栄誉を与えられました。これはみなさんの応援を力にして頑張りました。これは皆さんの応援に対する栄誉なのです。」と会見を開き世間に向けて発言するのなら、犯罪で書類送検された場合、「みなさんの応援は、私をのぼせ上がり、ついには犯罪者になってしまいました。この送検は、みなさんが共に背負うべき不名誉です」と何故言わないのだろうか。

そう言えば、その人の芸能人としての将来は完全に抹消されるだろう。つまり、「世間により生かされている」というイカサマの種は、このようなケースを考えれば明らかなのだ。素人の手品師以下の種の仕込み方である。

日本の世間は西欧の社会(society)ではない。議論し、問題の核心を洗い出し、対策モデルを組み上げるべく、公論を行う場所ではない。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の明治時代の丸暗記の知識は、日本国の知恵になっていないのだ。五箇条の御誓文など、右から左に手渡され、最後はゴミ箱の中だったのだろう。

世間はその種の事件について、騒ぐだろう。しかし、何故そのような事件が生じるのか、その事件の原因は何なのか、それを防ぐにはどうしたら良いのか、などは議論しない。三流週刊誌のレベルの駄弁りで終始するだろう。

騒がせてはならないのが日本の世間であり、従って常時沈黙が支配している。(補足1) そして何よりも、有名人の醜聞に飢えている。(補足1)世間は山口氏に感謝しなくてはならない。週刊誌は売れ、日本の下らない分野のGDPは増加するだろう。

日本の世間とは、社会と違う。明治の時代にsocietyが「世間」という言葉と意味が違うことを知って、「社会」という言葉を作ったのである。(前記事の補足参照)現在の日本人はほとんどそれすら知らない。

補足:
1)万機公論に決すべしと言ったものの、公論で政治問題など支配者の政治を議論してもらっては困るだろう。世間をそのように沈黙の世界にし、エログロナンセンスを欲する世界にしたのは支配者の陰謀なのだろうか。

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