1)無神教は、神がいないと信じる人たちを分類するための言葉である。神など存在しないと言い切るのも宗教の一種と思われるからである。何故なら、科学的には神が存在するとも、しないとも言えないからである。(補足1)
一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを指す。同じヤハウェ神の信仰なのに教義に違いがあるのは、宗教改革の結果だろう。また、その間、神は沈黙されていたのだろう。
無神教と一神教は似て居る。それは価値や善悪の基準を原点に置くからである。善悪で言えば、原点にあるのが善であり、そこから離れるのが悪である。その原点に自分が居ると信じるのが、二つの宗教の共通点である。
二つの宗教の違いは、無神教では神が居ないことであり、一神教は自分が神と同じ処に居ることである。
多神教は両者とは異なり、価値や善悪の基準は自分の外にある。自分も他者も、何かあればその基準を探すという努力しなければならない。多神教の信者が作る国で私が知って居るのは、我が日本国である。
一神教の国とは、例えば英米などヨーロッパ、無神教の国はどこかはここでは敢えて言わないでおく。
2)人間は互いに協力することで社会を造って生きて居る。この協力とは、自分の権利の一部を公に預けることである。その段階で、ともかく原点から部分的であれ自分が退去しなければならない。(補足2)
社会を造り生きているとしても、トラブルはつきものである。しかし、トラブルの解決をしなければ、正常な社会を回復できない。その解決のプロセスに、これら3つの宗教信者で、大きな違いがある。
トラブルの解決は、原因を探すことから始まるのだが、無神教と一神教の信者は、必ず相手側にその原因を押し付ける。それは、原点に自分がいるのだから、トラブルが生じるとすれば他者が原因である筈と考えるからである。
一方、多神教の信者は、トラブルの原因を探すとき、自分と相手側の両方を含め、その間を探す。そのため、同じ宗教の信者の間のトラブルなら、その解決が一番早いのは多神教信者の間のトラブルである。(補足3)
無心教の信者間でトラブルが生じた場合、その収束は極めて困難だろう。力での解決以外にないだろう。運良く国家が存在した場合、国家権力がその収束に当たるだろう。
一神教信者間のトラブルでは、当事者双方ともに必ず自分が善であると思うので解決に時間がかかる。つまり、何方が原点である神の位置に近いか、その決定を第三者に委ねることになる。
つまり、裁判制度を一神教信者が考え出すのは、必然である。多神教信者は、裁判をする前に当事者双方が解決に至る可能性が高いから、そのような面倒なことでGDPを嵩上げする必要がないのである。
あと一点だけ指摘して、話を一応終わる。
最後の一点:それは、以上の点を日本は外交上常に頭に置くことが必須である。一神教の国は未だ良い。公平に判断できる第三者を探せば、トラブルの解決は可能である。しかし、無神教の国とは、力しかトラブル解消の方法がないことである。(補足2参照)
補足:
1) 人間が作った知的体系として、科学は最高の緻密制と整合性をもつ。従って、科学的認識法は最も広い範囲の人々が共有できる。
2) 一神教であれ多神教であれ、人間は宗教を信じる前に社会性を持っている。従って、自分を絶対的な神の原点に置くことに抵抗感が残っている筈である。従って、ここでの議論はあくまでも単純化したものである。 念のため、補足します。
3)所謂落とし所を双方が探す。この時、どうしてもゴネ得が発生する。それが多神教信者の侵しやすいミスである。
(18:00編集)
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