1)今村復興相は25日夜、所属する自民党・二階派のパーティーで講演し、3.11の大震災について「まだ東北で良かったものの、首都圏に近かったら莫大な被害があった」と述べた。この言葉に対する批難で日本のマスコミ周辺が沸騰状態となり、今村大臣は事実上首になった。
http://www.news24.jp/articles/2017/04/25/04359881.html
東日本大震災関連の失言が原因で辞任した大臣として他に、鉢呂経産大臣がいる。災害の結果人通りが無くなった町を「死の町」とか言って、東北被災民の神経を逆撫でしてということだ。本音を思わず言ってしまったのは失敗だが、辞任に追い込むほどのことではないと思う。勿論、本当のことでも言わない方が良い場合も多く、その判断は社会生活をする上で大事である。しかし、どちらもテレビで報道されているほどに腹を立てるのはおかしい。過敏な反応の人を選んで証言等を放送しているのだろう。
東北の人たちも、言葉使いにそんなに神経を使って欲しいわけではなかろう。それよりも、必要な支援を適切且つ迅速に行ってもらうことの方が大事ではないのか?そして、今村大臣がその最前線にあって努力をしてきたとしたら、その実績を先ず評価すべきではないだろうか。口先だけのサービスを欲しいわけではなかろうにと思う。
2)著名な政治家ほど、票を獲得することが何よりも大事だと言う。大衆から嫌われたら終わりであるから、テレビ画面に映る自分の姿と放送される言葉に極度に気を使う。一方、報道機関は、テレビなどで大衆の関心を引くことが直接業績に影響する。公共の福祉に貢献するという放送法第一条など、飯の種にはならない。その両者の相互作用の結果生まれたのが、過敏な言葉狩りの文化だと私は思う。
政治貴族出身の安倍総理は、その文化を熟知しているので、票への悪影響が確実と考えた段階で今村大臣を解任した。それは上記文化を良しとすれば当然だろう。しかし、それは政治と報道の世界のことである。政治家の片言隻句にアレルギー反応するよう、大衆を煽るのが仕事だと、報道機関の連中は考えていると思う。その特殊な世界の異常な文化を反映した出来事だろう。巨額の国有財産をただ同然に払い下げるのも、政界官界の異常な文化なら(森友学園、加計学園)、過敏な言葉狩も政治と報道機関の世界での異常な文化だと思う。
そんな言葉狩の文化を一般社会の標準にしてしまえば、大衆も誰も彼も寡黙になり、「沈黙は金」の社会が出来上がる。国民は政治家の言葉に対しもっとおおらかでよいのではないだろうか。そして、たまに羽目を外した発言が出ても、指摘はするが許容する方が住みやすい社会が出来上がるのではないだろうか。
3)一般論:
人間は社会をつくって生きており、その社会の中での人と人の様々な関係は、互いに交わす言葉で作られている。それは本音の世界ではなく、社会を作って生きるという意思の元につくられた仮想的な言葉の世界である。
プライベートな世界(時間)では、真実(本音)を言葉にすることは、心に溜まったゴミ処理のような面もあるし、放電したエネルギーのチャージアップの意味もあるだろう。このプライベートな時間で漏らした言葉まで、公的な空間に引きづり出すのは侵害行為である。派閥のパーティーがそれに相当するか分からないが、仲間内での話も准プライベートな時間である。ただし、仲間と思っていた人がそうでない場合もあるので、その際の言葉使いには一定の用心が必要である。
話は飛ぶが、最近Twitterとか言うパソコン上の道具が普及している。多くの人は、そこにプライベートな言葉遣いで、色々書き込んでいるようだ。また、youtube の動画にコメントを書くと、パソコンの前には人はいないからだろうか、礼儀を弁えないような返信が返ってくることが良くある。最近の人たちは、上記の仮想的な言葉の世界とプライベートな世界の境界を十分意識していない可能性が高い。そして、それは人々を伝統的な社会生活に不適応にする可能性が高い。
パソコンやスマホの出現により、そのような社会の悪しき流れに、人々は巻き込まれているのではないだろうか。
井上陽水の歌には面白いのが多い。その中に「青空、ひとりきり」という歌がある。その歌詞の初めの部分は、「楽しいことなら何でもやりたい。笑える場所ならどこへでもいく。悲しいひととは会いたくはない。涙のことばでぬれたくはない。青空 あの日の青空 ひとりきり」である。
社会生活をするということは、悲しいひとと会い、涙の言葉に濡れることである。特に政治家はそれが生業だろう。青空での下で一人きりになったとき、この歌を歌う自由が、プライベートな時を持つ個人の権利なのだ。それを漏れ聞いて、吊るし上げられたら、人は生きられない。しかし、社会の表でこの歌の通りに振る舞えば、社会人として失格である。
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