1)最近の森友学園への国有地格安払い下げ問題は、外国にも広く報道されているという。しかし、その視点は日本の報道機関のそれとはかなり異なっている。つまり、西欧諸国の報道機関の視線の先にあるのは、教育勅語を幼稚園で教えるような学園であり、それが首相の支援を得ているかもしれない国「日本」である。(以下のCNNの解説の後半) http://edition.cnn.com/2017/03/22/asia/japan-school-scandal/
産経ニュースによると、菅官房長官は4日の記者会見において「政府として積極的に教育勅語を教育現場で活用する考えは全くない」と強調しつつ、「教育基本法の趣旨を踏まえながら、学習指導要領に沿って学校現場の判断で行うべきである。それ以上でもそれ以下でもない」と不明瞭な政府の姿勢を語った。
http://www.sankei.com/politics/news/170404/plt1704040057-n1.html
この発言は、“教育勅語を従来のように歴史教育で教えるだけでなく、それ以外の部分、例えば道徳や国語の教材として用いることも、直ちに憲法や教育基本法の精神に合致しないと決めつける訳ではない”という表明である。教育勅語の暗誦は幼児教育としては相応しいとは言えないが、教育現場一般において教育勅語を直ちに否定したくないという安倍政権の姿勢を表している。
しかし、教育勅語を歴史教育ではなく、道徳や国語の教材として用いることは、憲法の精神に違反する。何故なら、教育勅語の中心に「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(いざとなれば天皇の為に命を賭けて戦いなさい)と書かれているからである。そして、その姿勢は天皇の忠良なる臣民というだけでなく祖先の遺風を尊重することになると書かれている。
これらの文章は、天皇が日本国民統合の「象徴」であるとする、日本国憲法の考え方に反する。菅官房長官は、これが「憲法や教育基本法の精神に合致しないという訳ではない」とどうして言えるのか?
ここで思い出すべきは、自民党の改正憲法の草案である。その第一条には、「天皇は国家の元首である」と明記されているので、その憲法に改定された時には教育勅語は一定の位置を再度獲得することになる。つまり、官房長官の談話は、憲法改正を目指す安倍政権の姿勢を踏まえているのである。
2)民主主義という基本的価値を日本も受け入れた筈ではないのか?
最近読んだ本にニーチェのアンチクリストの現代語訳版があり、その概要と感想を数日前に書いた そこには、人間の性質や能力の優劣の分布は大きく、高度に人工的に組み上げられピラミッド型の社会において、キリスト教的な全ての人々の自由、平等、博愛といった価値を政治の世界に展開した民主主義政治は破滅への道であり、その政治体制の発明はユダヤ民族の企みであると記述してあった。(「キリスト教は邪教です」摘菜収訳、ブログ記事:https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43225234.html)
英国やフランスなど西欧の歴史において、そのキリスト教文化の中で議会制民主主義の政治体制を作り上げた。その政治体制が不十分極まりないと言っても、それ以上の体制を知らない(チャーチルのことば)というのが近代の結論だったと思う。それを受け入れ、且つ、全体主義に陥った反省を込めて、近代国家として再スタートするべく制定したのが、現在の日本国憲法の筈である。
その日本国憲法に欠陥が残るとしても、それは第9条:日本国軍を持ち得ないという条文であっても、第1条:天皇が日本国民統合の象徴であるという条文ではない。それを改定して天皇を国家の元首とし、過去の精神風土の再現を目指すのは「歴史修正主義(リビジョニスト)」の名乗りを上げることではないのか。
3)国際政治において、国家の方向は善悪よりも長期的視点で見た損得で決めるべきだと思う。善悪に関して、共通の物差しは存在しないからである。従って、欧米の政治文化が今後も続くと考える以上、欧米の基本的価値である自由、平等、人権とそれに基づく民主主義を共有することは、最善という訳ではないが得であると思う。そのためには、現在の民主主義体制に至った西欧の歴史プロセスやその際に発展した政治哲学から学ぶべきだと思う。(補足1) また、不足する部分(アンチクリストにあるような)の補完に関しても欧米を見本にすれば良いと思う。
明治維新以降の日本は、西欧の進んだ科学技術と政治体制を学び実施することを急いだ。そのために、議会制民主主義という政治の形を学んだが、その成立の過程をあまり学ばなかったのではないのか。東アジア諸国は、英国やフランスで作られた現在の標準的政治体制形成のプロセスを知らないので、西欧と深刻に対立する可能性を持っている。
この地球上に生き残る文明が、西欧文明である可能性が高いとすれば、遠回りかもしれないが、西欧の政治体制の成立過程を国民の常識として持つべきだと思う。それは政治の世界における、ISO (工業製品の国際規格)のようなものだからである。
その視点から、現在自民党(多くの自民党幹部が参加している日本会議)の考える日本国憲法草案(天皇を元首とする)は、日本国の将来あるべき姿とは一致しないと思う。教育勅語の内容は、個人の自由や平等といった概念とは真正面から衝突し、輸入したはずの西欧型民主主義の精神とは一致しない。(補足2)今上天皇が天皇の地位に関係して、「象徴としての天皇のあるべき姿」を昨年の談話で何度も言われたのは、天皇を利用する政治のあり方に疑義を持たれているのだと思う。
補足:
1)社会契約説からジョン・ロックの政府二論までのところを少し”ネット勉強”をした。後者の考え方が参考になったので、以下に”超簡単に”概略を記す。(理系人間なので、このあたりには元々無知です。)
自然状態の人間集団から国家と国民の体制を作ることは、自然権(人間が生まれつき持つ権利)の一部を一旦国家に譲渡することになる。その権利を継承した立法府が国民の意思を法として作り上げ、それを行政府が実行する。それが国民の意思を十分反映しないときに、政府が支配者にならないためには、国民は抵抗権を保持しなければならない。その役割をするのが最高裁判所である。以上が、国民主権国家の具体的な形であると思う。
Common Wealth (共通の富)が国家の意味であることに注目するべきだと思う。
2)英国はUnited Kingdomであり、王国である。つまり、エリザベス女王は皇帝ではない。イギリスには国民が自由を宣言した権利の章典を不成典憲法としてもつ。天皇はEmperorであり帝国の主である。そのまま国家元首にすれば、日本帝国になるのは当然ではないか。
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