昨今、男女共同参画が政治の重要課題として考えられるようになった。そして、女性の社会進出が進む一方で、セクハラが重大な社会問題となっている。ここでは、セクハラ問題を手がかりにして、社会の変化に追随できていない人類の文化について、その一端を考えてみたい。
1)これまで男女の違いは、男女分業という形で文化の中に取り込まれてきた。明治以前の日本では、女性は家事や看護に、男性はそれ以外の生産、経済、社会、政治などの諸活動を主に受け持ってきた。その男女分業の形態は徐々に破壊され、家事、看護、介護なども部分的には社会の中での経済活動に組み込まれることになってきた。
この社会変化を別の視点から観察してみる。人間の活動の空間には二つある。プライベートな空間と、パブリックな空間である。(補足1)上記明治以前に女性が主に分担してきた仕事は、このプライベートな空間でのものであった。その女性の役割分担が、近代経済システムによりパブリックな空間に持ち込まれたのである。
その結果、プライベートな部分の縮小、女性の社会進出、セクハラの増加が、協奏的に進んだと考えられる。
パブリックな空間を仕切る物差しは一つであり、公明且つ平等であるべきである。そこには当然のことながら、エロ・グロ・ナンセンスなどの入り込む余地はない。一方、プライベートな空間では、夫々個人の嗜好や価値観がその行動などを仕切っている。全ての人の個性は、そのプライベート領域内で発揮される限り、問題とはならない。
そのように考えると、このままの社会変化の方向を受け入れ、且つ、社会の構造になんらかの工夫をしなければ、そして男女の役割分担の関係を考え直さなければ、社会、国家は弱体化するだろう。何故なら、セクハラ防止などの看板と役立たずの理屈屋だけの無能者が牛耳る空間に、このパブリック空間がなってしまう可能性が高いからである。
2)高度な文明社会の構築と維持には、当然多様な人材が要求される。分かりやすく例を上げれば、監察医や解剖医から哲学者や自然科学者、農耕など第一次産業従事者から高度な第三次産業従事者、兵士から政治家まで、幅広くその役割は分布する。多芸人間という型で、人間が量産されたとしても担いきれないだろう。それら多くの個性ある人々を一つのパブリックな空間に押し込み、其処からたまにはみ出してしまった個性的行動を犯罪として切り捨てる場合、社会が成立するだろうか?
早い話、「英雄は色を好む」のが仮に真実なら(補足2)、この国の運営者は英雄的人物を避けて、凡人の中から探すことにするのか?
その問題を考えないで、誤魔化してきたのが今までの世界である。誤魔化しの方法の一つは、上記パブリックとプライベートの社会の境界をボヤけさせる方法である。
日本では、その境界の一部をヤクザなどが崩れないように支えてきた。この件に関して、元公安調査庁の菅沼光弘氏が解説している。日本は古来ヤクザが社会の機能の一部を分担してきたという歴史があった。それは、米国のマフィアとは異なるという話である。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40
一方、もう一つの誤魔化しの方法は、ローカル・ルールと二枚舌である。その典型例は、ラスベガスなどの賭博やりたい放題の地域や、CIAなどの超法規機関などの設営である。(補足2)CIAが何をどういう理由でやったのかについて、一般の公空間に向けて説明するとした場合、二枚舌を使う以外にはないだろう。
以上、セクハラという問題から、「人間の本性がパブリックな空間にはみ出た場合に、それを切り捨てるだけでこの複雑高度な社会に生じた問題の解決が出来るのか」という問題提起である。これ以上の議論は、現在頭が回転しないので止める。ただ、近代文明の方向をこのまま進むのは何かと危険だろう。一度立ち止まって考える必要があると思う。
補足:
1)パブリックとプライベートは対の概念である。日本では「公の」とか「公共の」という意味だと訳されるが、ちょっと違う。Public=「公共の」と考えると、パブリック・スクール(イートンやラグビーなど英国の私立学校)やパブリケーション(出版)が理解できない。
2)普通の平職員に要求される基準でセクハラを”国家の英雄候補”に適用したとして、それで平職員をセクハラで失うのと同じプロセスで、国家を救う逸材を逃してしまっても良いのか?ということになる。もっと卑近な例では、相撲界での”可愛がり”がある。そこでも、事務職レベルの社会におけるパワハラや暴力を測る物差しをあてて、測って良いのかという議論ができるだろう。
3)CIAやMI6を取り上げるのは、ちょっと次元が異なるようなきがする。しかし、民主主義の看板だけでは国家の運営は出来ないということを、何かにつけても言いたいので取り上げた。
(19:00 編集)
0 件のコメント:
コメントを投稿