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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2018年10月30日火曜日

世界は混乱の時代にはいろうとしているのか?(ブレジンスキーの二つの発言をヒントにして)

馬渕睦夫氏が紹介したブレジンスキーの言葉は非常に興味深い。その言葉の意味は、①「米国の政治を握ってきたのはユダヤ系社会であり、その手法は簡潔に言うと、”マイノリティーの権利をまもれ”という政治活動であった。つまり:米国での黒人やヒスパニックはマイノリティーとして、政治的に軽視されてきた。知恵があり、マイノリティーの一つでもあるユダヤ社会が、その少数派の権利確保という名目で運動を組織化し、米国を牛耳ることに成功したというのである。  https://www.youtube.com/watch?v=Z85BnnOPmZ4&t=412s

この発言は、The Choice、Global Domination or Global Leadership、「選択:世界の支配者又は世界のリーダー」という題名の本に書かれているらしい。邦訳は、「孤独な帝国アメリカ」として出版されているが、現在アマゾンでも入手不可能である。

ブレジンスキーのもう一つの発言は、何度もこのブログで紹介している。それも馬渕睦夫氏のyoutube動画で知ったのだと思う。それは:②「この100年間に、人類史上初めて、大衆が政治的に目覚めた。これまでの時代では百万の人々をコントロールする事は簡単だったのです。しかし今日では、百万人をコントロールするよりも百万人を殺す方が限りなく簡単なのです。」 

上記発言は不真面目に言っているのではない。おお真面目に人類の将来を予測して言っているのである。それは、これまでの世界のリーダーであった勢力が、これら目覚めた人類を代表する100万人を支配することは非常に難しということである。元の動画を現在でもみることも出来る。 https://mizu888.at.webry.info/201310/article_146.html

この動画で紹介されている、Strategic Vision という著書には、多分この発言と関係したことが書かれているのだろう。この100万人は、当然一つの勢力ではあり得ず、別々の利益を代表していると考えられるので、世界は混乱の時代に入るしかない。ブレジンスキーは多分、そのように言いたいのだろう。この本は2012年に出版された。5年後の2017年に死亡しているので、余命いくばくもないことをしりつつ、上記発言をしたのなら、一層重みを感じる。

これら二つの発言を一緒に聞いたとしたら、その意味はもっと明確になる。「この100年間に世界の支配者となったユダヤ系勢力も、最早政治に目覚めた人たちを支配することは不可能である。大衆の群れとなった世界は、今後混乱の時代に入るだろう。」旧約聖書の時代の話には、異教徒や、羊の群れという言葉がよく出てくる。それらの話を思い出すと、「殺す方が簡単だ」という発言は、それほど特別ではなくスムースに耳に入るだろう。

ブレジンスキーの話の中で、世界的勢力として出てくるのは、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国などである。日本は「ひ弱な花」だから、言及の必要はないだろう。それに、「世界は政治的に目覚めている」とは言うものの、日本は例外である。朝日や毎日は、必ずしもブレジンスキーの方向とも言えないが、未だにしっかり日本の人の目や耳を塞いでいるのだから。

橋下徹氏の考え: https://www.youtube.com/watch?v=ETfxKDLVaCU

2018年10月28日日曜日

「自己責任論」を封圧する朝日と毎日 : 恐ろしい左翼系メディアの日本崩壊工作?

1)政府は、海外であれ国内であれ、国民保護に一定の尽力をするのは当然である。ただし、それは一定の範囲内、且つ、公平でなくてはならない。シリアで拘束され、今回解放された安田さんの件で、“自己責任論”を主張する人で、それを否定している人は皆無だろう。範囲があるのは、有限の資源・資金しか国は持たないからである。

国家の命令で行った行為の責任は、国家がとる。その最終的な形は、国家賠償である。戦死した兵士に軍人恩給がでること、勤務中にその業務が原因で死亡した国家公務員に出される賠償も、それが国家の責任においてなされた業務の結果なので当然である。(補足1)それ以外の国民の行為は、すべて自己責任で行われる。それについては、昨日ブログ記事として書いた。

安田さんのシリアでの取材も、アルジェリアにおいてプラント建設に従事した日揮の関係者の活動も、同様である。日揮の関係者10名は殺されたが、安田さんは生きて帰国できたのは幸運だった。https://sanpoturedure.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25-9

日揮の方々は、当然自己責任の原則でアルジェリアに入っている。今回のケースで一点異なるのは、政府が退避勧告を出していた地域に、安田さんはその勧告を無視して入ったことである。従って、政府の通常の業務としての邦人保護活動の対象になるのかどうかさえ疑わしい。しかし、同じ日本国民として見過ごすわけにはいかないというのが、おおかたの意見だろう。ただ、テロリストに対して数億円の国民の税金を支払った上での解放だったとしたら、スキャンダルの一つになり得る。

  2)安田さんの開放について、政府はおそらくかなりの金銭的負担をするだろう。カタールが身代金として支払った3億円を、後々何らかの形で日本政府が支払う筈だからである。日本で自己責任論を巡って騒ぎが大きくなれば、政府はカタールと改めてその秘匿の交渉をする可能性があるが、もしそれがなければ、内閣官房機密費など隠れた予算が使われる可能性が高いと思う。

それは元毎日新聞記者の著名人であり、その配偶者の助命嘆願の様子もテレビで報道されていたことと関係しただろう。一般の無名の人間が海外で同じ様な目にあったとしても、そのようなことはしてくれないだろう。そのような裏があったとしても、それは政府を形成する政治家の判断であり、安田さん自身とその家族の方々は、この件で負担に思う必要など一切ない。

一般人の中には、そのような裏の可能性を敏感に察知している人も多いと思う。そのため、安田さんの拘束は、自己責任で退避勧告の出た地域に出かけた結果であり、自己で責任を負うべきだという意見がネット上で多く出された。多くは個人的且つ無名の声である。それに対して、大手メディアが介在する形での有名人の反論が、まるで消防士の火消しのようにネット上に出されている。毎日新聞などが、有名人のナイーブな反論を掲載するのは、その反論の最終的な責任を彼らに押し付けるためである。

その報道パターンから、左翼の言論封圧を想像する。この国の異常にレベルの低い言論空間は、言論弾圧などの事態に容易に進むことを示しており、一種の恐怖を感じる。例えば毎日新聞は(ヤフーニュース:毎日新聞10/27、21:19配信)、そのプロパガンダをアルピニストの野口健さんのツイッターを利用して行っている。

「邦人保護は国にとっての責務。事が起きてしまえば『自己責任だから』では片付けられない」「使命感あふれるジャーナリストや報道カメラマンの存在は社会にとって極めて重要」など。(補足2) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00000073-mai-soci

しかし、毎日新聞は社説「シリアで拘束の安田さん:先ずは無事な解放を喜ぶ」の中で、以下のように書いているようだ。以下の動画中に表示された記事から、その社説の一部を再録する。https://www.youtube.com/watch?v=MPjiv3P6Jew

政府が「退避勧告」を出しているような危険地帯での取材には周到な準備が必要だ。危険を察知する状況判断も重要になる。安田さんが海外で武装勢力に拘束されたのは2004年のイラクに続いて二回目だ。最初の開放時には自己責任を追求する意見もあった。安田さんはトルコで謝意を示す生命を発表した。映像を見る限りしっかりした口調だ。邦人保護や戦場巣材で共有すべき教訓はないか。帰国後、是非話してほしい。

新聞社としての公式見解として、“最初の開放時には自己責任を追求する意見もあった”という表現で、日和見的に自己責任論を述べているのである。公式にはまともな見解を社説として出しながら、著名人の意見を使って大衆の中のまともな意見を封圧し、その他の大衆を愚かなる方向に導いているのである。

朝日新聞のこの件での大衆誘導としては、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」でのテレビ朝日の玉川徹氏の意見や、gooニュース7月12日21:30配信の記事中の石川智也氏の意見を、一昨日のブログで紹介し批判した。

補足: 補足1)テレビ朝日の玉川徹氏の、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」での発言は、軍人が捕虜になった場合の責任と今回のケースでの責任を同一視している。

補足2)”企業戦士”たちも、それから社会で活躍するその他全てのひとも、社会にとって重要な部分を背負っている。そのような意見を言うのなら、「職業に貴賎なし」と別のところで言うべきではない。

2018年10月27日土曜日

海外での邦人保護についての私の考え

昨日のブログに、安田純平氏の拉致被害について議論した。そこで、以下のように書いた。

「退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定するニュアンス(補足1)で自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。」

上記表現には多少誤解を招く部分があるので、もう少し書き足したい。一般論として、言うまでもなく、外国は日本の法令の適用外地域である。従って、外国に入国した後の旅行者の権利義務は、その国の法令によって決められる。

外国にいる日本国の外交官の仕事も、日本国民の生命保護などの為にするべきことが規定されているだろうが、保障までは不可能である。外国政府には、パスポートに書いてあるように、政府が設定した関門を、障害なく通過できるように配慮してもらうのが関の山である。つまり、外国での滞在は、最終的に自己責任でしなければならない。

今朝の読売系のテレビ放送「ウエイク」で橋本五郎解説員が、「日本政府はどの様な手段でも駆使して、邦人の保護をしなければならない」と言っていた。私は、この方は何もしらないか、大嘘付きだと思う。そんなに親切にはしてくれないのが普通である。(補足2)

更に、日本国内でも命の保障を含めて、基本的人権を享受する権利を示した条文は、日本国憲法第3章以外にはないと思う。(補足3)しかし、それは国家権力が、基本的人権の享受を妨げないという意味であって、一般国民の間のトラブルや天然災害を対象にしたものではない。(補足4)

国家は、発生した人権侵害の排除、捜査、侵害者の処罰はするだろうが、人権侵害を防止できなかったことの責任は取らないだろう。ある人に対する人権侵害を完全に予防するためには、その他の人間の自由を束縛することになるからである。

補足:

1)「人騒がせな」という非難や、「お騒がせして申し訳ありませんでした」という謝罪は、この自由と矛盾する。

2)私の経験(1987年)を書く。ソ連のノボシビルスクでの学会に参加するために、モスクワで迎えを待ったのだが、夜が近づいて来るのに迎えが来なくて困った時、大使館に連絡した。そのとき「あなたのパスポートは何色ですか?」と問われた。「赤色です」と答えたところ、「公用パスポートではないので、コチラとしては何ともできません」と撥ね付けられたことがあった。

3)憲法第11条:国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。憲法に記載がなくとも、自然権として基本的人権は当然存在すると考える場合も多い。

4)刑法第199条に「人を殺したるものは、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあるが、それは罪人を罰する法律であり、人の命の保障を示した法律ではない。更に、人を殺すことは悪であるという道徳を示したものでも、更に、人を殺してはならないという宗教的指示でもない。単に、裁判官に対する指示である。

2018年10月26日金曜日

安田純平氏のシリア取材に関する自己責任論

カメラマンの安田純平さんが、シリアでイスラム過激派に拘束されてから3年以上経過し、今月になって解放され帰国した。安田氏は、政府から退避勧告が出されていた地域に、勧告を無視して取材に潜入し、過激派に拘束された。このことを根拠に、拉致被害は自己責任であるという説がネット上に多く出された。また、それに「反論する主張」も多く出されたようだ。それらが噛み合った議論になっていないようなので、ここで考える。(補足1)

1)退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定しているニュアンスで自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。

先ず、”自己責任論”に反対する意見を少し拾ってみたい。テレビ朝日の玉川徹氏は、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」で、紛争地帯に飛び込むフリージャーナリストの役割の大きさを力説。安田さんを「英雄として迎えないでどうするんですか」と主張した。

更に、「そもそも、ジャーナリストは何のためにいるんだ。民主主義を守るためにいるんですよ」と力説した。また、「たとえて言えば、兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです」と主張する。 https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-111222/

勇気ある行動でプロとしての仕事に従事したことは、賞賛に値するだろう。ただし、過激派に拉致されたことは失敗だったことも、明白な事実である。その失敗に、日本政府を自分の意思で巻き込んだとしたら、それは賞賛を大きく減少させるだろう。 このケースは、捕虜から解放された兵士のケースとは全くことなる。特に戦前の徴兵された兵士は、国家権力に従って、国家の為に命をかけて働かされたのである。今回のケースは国家のために働いたのではない。安田氏に敬意を示すとした場合、それは私的な取材活動において示した、プロ意識と勇気に対する敬意である。取材活動は社会の機能の一部を果たす重要な役割だが、そのような重要な役割は立派に働いている社会構成員の全てがそれぞれの分野で担っている。

「そもそも、ジャーナリストは民主主義を守るためにいるのだ」というのは、「ジャーナリストは」と助詞の「は」を用いる限り、思い上がった言葉である。上記のように、商社マンであれ、警察員であれ、医師であれ、会社の研究開発員であれ、学校の教師であれ、全ての職業人は、この国に異なった分野でこの国の繁栄と安全維持のために働いているのだ。(補足2)

2)更に、gooニュース7月12日21:30配信の記事に、朝日新聞記者の石川智也氏の意見が掲載されている。その記事の中での石川氏の意見を下に再録する。

石川:アメリカやイギリスのジャーナリストに聞いても、安田さんのような行動を称賛する声はあっても、迷惑をかけたなんて声が大勢を占めることはないと言うんですよね。後藤健二さんがISに殺害された当時、アメリカのオバマ大統領(当時)は「勇敢に取材してシリアの人々の苦境を外の世界に伝えようとした」と声明で称えました。(補足3)

一方で、日本は自民党の副総裁が「どんな使命感があっても蛮勇だ」と言ったり、2004年にイラクで高遠菜穂子さんたち3人が拘束された際にも、現都知事が「危ないところにあえて行ったのは、自分自身の責任だ」と言っています。政治家がこういう言葉を流布させてメディアが乗ってしまい、拘束された本人ばかりか家族や関係者に批判が行くことは極めて日本的だなと思います。 https://news.goo.ne.jp/article/jwave/entertainment/jwave-165226.html

この意見も、事の経緯と分析を全くしないで、訳のわからない批判をしている。

オバマ大統領(当時)は、後藤健二氏の勇気ある取材活動を讃えたのは当たり前である。後藤健二氏の家族以外は、後藤氏の批判などしていない筈である。拉致されたのは明らかに後藤氏にとっては失敗であった。その失敗は自分の命を失うことに繋がったが、誰にも負担をかけていない。自己責任で紛争地に取材に出かけたのは、勇気ある行動である。それを賞賛するのは、当たり前である。(補足4)

3)ジャーナリズムは近代国家において第四の権力と言われる報道の一角を担う重要な仕事である。取材活動はその中のデータ収集という基本的で重要な役割である。ただ、上述のように、社会の機能を分担する重要な役割は、立派に働いている社会構成員の全てが担っている。そしてそれらは、民間ベースで行われることであり、公的活動ではない。その意味では、安田氏らの取材活動は、他国の領海近くに遠洋漁業で出かけた漁船員と似ている。その国に領海侵犯で拿捕されたとしても、法に定められた手続きにより召喚を求めるだけであり、政府に取り返す責任はない。

繰り返すが、退避勧告を無視して私的判断で潜入した以上、政府に身辺警備をする責任はない。また、誘拐されたとしても政府には最終的に救出する責任はない。その政府の本来の活動範囲で、救出が可能となった時のみ救出されるのである。この点は、北朝鮮に拉致された人たちとは根本的に違う。北朝鮮による日本国内での拉致被害は、日本政府の責任である。北朝鮮を非難するが、日本政府を批判する声がほとんどないのは不思議である。

過激派に殺された湯川遥菜氏と後藤健二氏は、自己責任でジャーナリストとしての仕事に身を捧げた。それは賞賛されることはあっても非難することなど論外である。同じように安田氏の取材行為も賞賛されるべきである。ただし、それは自己責任の下で行われた行為であるとした場合である。

初めから、避難勧告地域にその勧告を無視して出かけ、拘束されたのは自己責任の範囲である。そして、政府が法に定められた範囲の行政および外交活動として、自国民である被拘束者を救うべく行動することも、また当然である。

今回のケースは、数億円の身代金がカタールから出されたと一部で報道された。国際政治に利用された可能性があると、AERAdotの記事は書いている。 https://dot.asahi.com/dot/2018102400082.html?page=1

もしそうなら、そして、そのカタールの行為により、日本政府の外交まで今後歪められるとしたら、安田氏の件が政治に与えた影響はかなり大きい。そのように安田氏が自己の判断で誘導したのなら、非難されても当然である。(補足5)ただし、日本政府が民意に迎合すべく、多額の税金を使って安田氏の救済に動いたとしたら、それで非難されるべきなのは、日本政府である。

補足:

1)後藤健二氏がイスラム国に拘束された事件、安倍総理は後藤氏に渡航中止を3回求めていたことを明かしたという。それにも関わらず、世耕官房副長官は「我々は自己責任論には立たない」と言ったと、以下のサイトに「自己責任の罠」という表題で紹介されている。私にはこの世耕氏の言葉の意味が理解できない。単に二世議員の政治屋的発言だろう。この件は深い意味があれば後で、議論の対象にしたい。https://www.excite.co.jp/News/society_g/20150205/Litera_843.html

2)ジャーナリズムも社会の中に存在する多くの私的活動の一つである。特別に扱うべきだとする理由はない。「ジャーナリストは民主主義を守るためにいる」という、思い上がった態度は批判されるべきである。 それは、「目や耳が、情報を集めるから人を守るのだと言って、腎臓や肝臓をバカにする」ようなものだ。

3)自己責任で、社会を支える重要な仕事に果敢に向かった点は、高く評価されるべきである。しかし、拉致されあとの解放が、国際政治や国内政治に影響をかなり与えたとすれば、その部分はプロとして失敗だったと思う。その政治への影響が、良い方向に働く可能性もあるが、それはこの場合問題ではない。

4)政府が退避勧告を出したとしても、自己責任でそこに出向く自由がある。それを批判するとしたら、個人主義という西欧の法体系で作られている日本の制度を知らないことになる。

5)安田氏が助命嘆願を政府に自己判断で求めたとすれば、それは自己責任の原則を破ったことになる。その部分は、非難させても仕方がないだろう。

2018年10月25日木曜日

善玉と悪玉が結託して演じた戦後政治

1)善玉と悪玉の戦いと善玉の勝利という結末を演じるのが、大衆ドラマのパターンである。人気を得るにはハッピーエンドでなければならないのは、人は本来怠け者の保守主義者であり、将来の困難や近くの醜悪から目を背けたいからである。

この種のドラマにおける善玉と悪玉は、対立しているように見えるが、実は裏で結ばれている。同様に、現実の世界の善玉と悪玉も裏で結ばれた一つの勢力と考えた方が良い場合が多い。善玉と悪玉を演じる人たちの顔は、同種の顔で造った全く異なる表情のように見える。ドラマが現実なのかドラマの舞台裏が現実なのか、自分は何をこのドラマから得ようとしているのか、良く考えるべきである。

1956年、日本政府は「もはや戦後ではない」というセリフを言い訳に用いて、戦後から脱却出来ない或いは脱却しない道を選択した。(補足1)戦前と同じ薩長土肥の勢力が戦後も日本を支配することになったため、彼ら為政者に(傲慢により)国を滅ぼした戦前を忘れてしまいたいという欲求があったからである。

そのセリフが、経済企画庁が出した経済白書に書き込まれた1956年、「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、“太陽族”が海辺を闊歩した。その小説は読んでいないが、似たような慾望全開&無責任映画の「太陽がいっぱい」は、DVDで見た。何れも、歴史も倫理も深く考えない方が、個人にとっては幸せだという無責任な姿勢を描いている、下らないドラマなのだろう。(補足2)

2)人間の歴史が書ければ、数十万年という長い物語になるだろう。個人はその中の短い一瞬と言っても良い期間を生きるだけである。深層の事実など見ない方が、幸せだという人生の真理を唄ったのが、1976年に発表された井上陽水の「夢の中へ」だろう。人生の目的とか、真理の探求とか、そんな難しい解けない問題を考えるより、短い時間を楽しく過ごす方が良いではないかと誘う。退廃的な人生謳歌の歌のように感じるが、作者独特の皮肉なのかもしれない。よく出来た歌だと感じるのは、真実を見る作詞者の姿を、黒子のように感じるからである。

真理を知る苦労して、”悪”を見出したとしても、今度はそれと戦わなくてはならない。それを倒したとしても、真理を知る姿勢を保てば、新たな悪を見出すことになるだろう。そもそも、善と悪に分類して何になるのか?それは単に、戦いの相手を見つけるためではないのか。自分は戦わないと決めた時、善も悪も消滅するのではないのか、その道が短い人生と限りある能力の人間にとって幸せなのではないのか。

この真理という概念、善悪という概念を、仏教なども利用して巧みに否定するのが、日本の伝統であった。真実も現実も所詮夢の中の話である。その日本の文化とその歴史を、陽水は知っているのだろう。

○露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢 (豊臣秀吉の辞世の句)
○世の中は 夢かうつつか うつつとも夢とも知らず ありてなければ(古今和歌集に詠み人知らず)

“悪”が、運悪く(多分何かの間違いで)自分を突然襲うことになったとしても、死の必然を考えれば、隕石の直撃を受けて死ぬのとどこが違うのか。運命として諦めるしかないのだろう。キョロキョロと落ち着きなく周りを見渡すのは、視力自慢になっても、幸せとは言えないだろう。何もかも受け入れる生き方の方が、人生の総決算をすれば、大きいプラスを産むのかもしれない。

そのような考え方の伝統が、日本には広く深く存在する。日本政治が西欧化できない理由だろう。

3)近代社会は、西欧型社会である。その中に流れる思想は、キリスト教的世界観だろう。そこでは、「色即是空」や「夢のまた夢」的な考え方を受け入れる余地は全くない。従って、日本がこの西欧型世界に順応するには、それらを古典の古い本棚にしまい込まなければならない。

つまり、生の本質は戦いであり、戦いに勝利するには、善と悪の峻別が必須である。夢うつつの状態の人は、戦争は絶対悪だというだろう。非武装中立という夢は、確かに心地よい。西欧的視点からは訳の分からないこの後者の勢力が、この国の70%を占める。明治時代、英国からの貸衣装で演じた西欧風日本だったが、失敗した結果の”先祖帰り”だろう。

西欧的考え方を少し学べば、現在の我々の生は、祖先の戦争での勝利の結果として存在することが理解できる筈である。現在の国家も、そのようにして生き残ってきたのである。その歴史を学ぶ責任をこの社会で生きる権利を主張する者全てが持つべきだが、その責任感はほとんど無いのが現状だろう。

ただ、善玉と悪玉を取り違えることが往々にしてあり、その取り違えは仕組まれたものである場合も存在する。その場合、善悪の峻別と戦いの計画は、専門的知識を得た者に任せるしか無い。専門的知識に恵まれなかったグループは滅びることになるだろう。専門的知識のある者をどのようにして選任するのか、それが大きな問題である。

2週間ほど前になるが、TBS ニュースの報道によると:初入閣した柴山昌彦文部科学大臣は就任会見で、戦前の教育で使われた教育勅語について、「アレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分がある」などと述べた。 https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20181003-00000026-jnn-soci

これは安倍総理が、森友問題などでも分かるように、民族主義的主張をもっていることを表面的に捉えた上での、政治屋的発言だろう。これはまた、野党が批判する口実をワザと与えて、戦後続けてきたパターンで政権構造を維持するためだろう。国民を馬鹿にしているのである。

19世紀末に、長州の下級侍たちが京都の下級貴族と結託して孝明天皇を暗殺し、倒幕後に政権を得たのだが、その勢力が未だに政権を握っているのが日本の現実である。国際的には現時点では安倍総理以外は考えられない昨今だが、その根本構造を破壊しない限り、この国は催眠術にかけられたまま夢から冷めないだろう。(補足3)

先程述べたように、善悪を自民党と野党で分業して演じる安物ドラマが、戦後の日本の姿であった。明治維新と言われる革命は、英国の指導によるものだろうが、戦後の政治は米国の指示によるものである。そのような外国勢力の下で働くのが得意なのが、自民党の怪しげな人たちだろう。

「明治維新という過ち」など、昨今上記のようなモデルを指示する本が多くなった。今のままでは、国民全てがその説を自分の説にするのは遠くないだろう。教育勅語をモディファイして、それを教育に使うのも良いと言うたぐいの発言は、明治以来の勢力の靴を舐める仕草だろう。節操も何もない人物のものである。

補足:

1)戦後の政治体制から全く脱却していないにも関わらず、また、豊かになった経済の実相から一切目を背け、「もはや戦後ではない」とは良く言えたものだ。無知だったと言えば、言い逃れである。無知を装うことほど罪深いことがないのは、犯罪も同様である。

2)「太陽がいっぱい」のラストシーンは印象的である。アラン・ドロン演じる主人公の描くシナリオと、彼の属する現実の進行が、分岐して行く様子、そして浮遊した主人公が現実に落下する瞬間直前で映画は終わる。

3)この文章は安倍総理を批判したものではない。安倍総理と曽祖父の岸信介元総理は評価すべき点が多いと思う。ここでいう克服すべき(排除すべき)根本的構造とは、与野党が対立しているように見せて、同じ政治屋の仲間で政治劇を演じているだけの政治である。

2018年10月21日日曜日

憎しみと愛情と文化

人は可塑的であり、その土地の文化により育てられて、人間となる。人の着る布の材料や品質、そしてデザインなどは、その国の文化の一表現であるように、人間の行動には生身の生物としての部分と、それを修飾する着物の部分がある。社会での行動は、その後者の着物の部分であり、その地方、その国によって大きく変化する。

1)サウジアラビア政府によると思われる、同国の政治記者の在トルコ領事館での殺人事件は、事件そのものも異常だが伝えられる殺し方も残酷である。生きたままテーブルの上で切断されたという。https://www.fnn.jp/posts/00403389CX

日本では想像できないこの種の残酷な政治的殺害で思い出すのは、北朝鮮での張成沢などの殺害である。http://news.livedoor.com/article/detail/13662935/ 同じ人間のすることかと思う。しかし、そのような行動とそのパターンは、動物としての人の遺伝子に直接書かれていることではないだろう。

人間は社会的動物であり、それを維持する機能として“相手の立場に立つ”能力を持つ。更に、他の動物よりも想像力があるため、普通は残酷な殺害は好まない。ただ、その想像力や社会的能力は、憎しみという他の動物にない感情とともに存在する。従って、敵対する相手に対する殺害の方法は、他の動物よりも残酷になり得る。(補足1)

殺し方だけではない。例えば、女性の西欧社交界における大胆な服装や、アラブ社会での顔を完全に隠した服装なども、社会の主役であった男性が、古い時代より性欲とどう戦ったかという文化を表している。 西欧では、貴族や騎士道などの文化が創られ、それらは性欲に惑わされることを蔑む文化であり、大胆な服装はそれを反映している。一方、アラブ社会は専制政治の下、そのような文化は育たず、荒れ狂う性欲から女性を庇う方法は、見せないことであるという上からの司令(宗教的司令)が、そのまま女性の服装に反映したと考えられる。(補足2)

つまり、アラブでは専制的な支配が、西欧では貴族による封建的支配が、女性の服装という文化の一側面にあらわれたと見るべきである。(補足3)ただ、どちらも同様に戦っていたことは確かであり、動物としての人を見た場合、アラブの男性の方が性欲に支配され易いと言うことは出来ないだろう。

この西欧の進んだ(sophisticated) 文化は、貴族階級の存在とその社会(貴族階層に生じた社会)が生み出したと思う。独裁国では、文化の担い手は大衆であり、その環境下では今日の科学技術も、それに裏付けされた文化も誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は対話により可能となるからである。(補足4)哲学は開放系であり、そこに多くの人間が関与する手法を取るからである。

同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は哲学とは対照的に閉じた系であり、堕落するのみである。社会主義独裁の国家が堕落するのは、当然の結末である。(補足5)

2)作日の中日新聞朝刊35面に埼玉県で刺された老夫婦の記事が掲載されていた。男性は特にひどく切りつけられ、死亡した。その犯人として逮捕されたのが、孫の中学三年の少年である。同居していたわけではないのだが、老夫婦は同じマンションに住む関係で幼い頃から可愛がっていたという。

何があったか現在のところ十分報道されていないが、気の毒な老夫婦である。それまで、その少年に注いだ愛情の報いが、短絡的な何かへの怒りとそれによる祖父の刺殺だったとは。そのような事件の記事を見るごとに考えるのは、肉親の愛情も水も、上から下に流れるということである。愛情は常に親から子供に注がれる。老人から孫に注がれる。しかし、逆流はしないということである。

親族の愛情は、子供を育てるという生き物の遺伝子が由来だろう。生物には、子が親の面倒をみるという遺伝子はないのである。一方、子が親に対して持つ愛情は、人間の文化による支配がほとんどだろう。つまり、artificial (文化的)な愛情である。人間特有のこの愛は、山を登るような愛である。一方、歌謡曲などで歌われる男女の愛は、ポテンシャルの底に落ちるような愛であり、動物などにも共通している自然(nature)としての愛である。

この人間に特有の愛については、哲学者Erich Frommの「The art of loving」(日本語訳、「愛するということ」)に議論されている。このartはartificial (「人工の」と訳される)の語幹のartと同じであり、artの対義語がnature(自然)であることを知って、初めてartの意味が理解できる。artを芸術と訳するが、その本来の意味を知る人は少ない。日本語訳では、上記表題を直訳できないのは、いうまでもない。

人間特有の文化的愛情は、社会の構造などの変化で大きく変わる。現在の肉親間の関係も、貧しい時代の親子関係などから大きく変わった。その極端な例として、上記事件などを、我々は毎日見ている。

現在と近い将来、高度に発達した資本主義社会と、その中で生じた大衆文化は、どのような人間を育てるのだろうか。そのような視点にたって、教育から今後の政治経済システムまで考える必要があるのではないだろうか。

補足:

1)大昔の日本でも、似たようなことがおこなわれていただろう。ただ、大和朝廷誕生の時の出雲の国譲伝説や、明治の革命時での江戸無血開城など、日本の文化の下では、穏便にことを済まそうとする傾向が強い。それは、同じ土地で生きることを優先した結果であり、仲間意識が残っていたからである。

2)この問題から目をそらしたり、意図的に軽視しては、本質的議論はできない。例えば、プラトンの国家では、ソクラテスに対するケパロスの「老齢になり性欲の衰えとともに、談論の喜びが増してくる」という言葉に始まり、その話が「正義」の議論の口火となっている。

3)紳士は性欲なんかに支配されないという文化が、あのような女性の大胆な服装を作ったのだろう。しかし、その裏の仕掛けや暗黒部分はしっかり存在していた筈である。この問題で非常に興味深いのは、日本の吉原である。そこでの花魁の格の高さは、どのようにして生じ、どのような意味をもっていたのか?

4)独裁国では、結局トップは一人である。文化の担い手は大衆であり、今日の科学技術に裏付けされた文化は誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は貴族階級的な人たちの対話により産み育てられたからである。つまり、哲学は「文化」を開放系にして、そこに多くの知的人間が関与する手法を取るからである。同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は閉じた系であり、堕落するのみである。

5)東アジアに社会主義国家が根強く残るのは、封建時代を持たなかったからだとどこかで見聞きしたことがある。対話つまり議論の習慣の無い文化圏では独裁政治が蔓延りやすい。日本では、議論と口論と喧嘩の区別が今ひとつされていないのが、心配である。日本の議論のない政治の世界は、ほとんどヤクザの世界である。

2018年10月18日木曜日

そろそろ資本主義経済は行き詰まりなのか?

1)先進国の大企業は、発展途上国に工場を移転して、安価に物を作って売りさばくことで、世界シェアの拡大を考える。しかし、元の国では雇用の喪失と安価な品物の輸入によりデフレが進行する。その発展途上国は、先進国の資本を受け入れ、その技術やノーハウを吸収し、自前の製造業も起こして、経済発展する。

その途上国も元の先進国も市場となるので、先進国の大企業は市場を大きくし、且つ、自身を巨大化して世界市場で有利に戦うことが出来る。その結果、国際的資本家は利益を拡大出来るのである。この様な資本進出を途上国の新しい植民地支配と見る人もいる。(補足1)

以上が経済のグローバル化とその結果に対する私の理解である。この経済システムを企業資本家から取り上げようと戦っているのが、トランプ大統領である。一方、そのやり方は、これまで作られてきた世界経済の慣習を破壊するので、これまで通り自由貿易を守ろうと主張して世界を飛び回っているのが、日本の安倍総理である。日本では日米首脳は仲が良いと報道されているが、実際のところはさっぱりわからない。「仲がよい」というふざけた表現は、日本の報道のレベルを表している。兎に角残念ながら、明らかにトランプ大統領の方が、先をみて行動しているだろう。

自由貿易といえどもルールがあり、それを守ることが前提である。社会を作って生きる人間の自由は、ルールを守る自己規制があっての話である。世界をルールが支配する体制にするには、世界に通じる権威とそれを支える権力が必要である。米国が抜けた世界に、そのようなものは望むべくもない。

安倍総理は何を考えているのだろうか。最も権力のない国のトップが、掛け声だけでルールの支配する世界が出来るとでも思っているのだろうか。

2)NHKスペシャル:資本主義の未来(10月14日午後9:00放送)

10月14日夜のNHKの午後9時からのNHKスペシャルで、世界の債務残高が増加して、資本主義経済が破滅の道に入っているという趣旨の話があった。その根拠として番組の最初に出された情報が、世界の債務残高は164兆ドル(1京8000兆円)と巨大化しており、世界のGDPの2倍以上にも達しているという話である。(補足2)

NHKの番組でも紹介されたように、資本主義の基本パターンは、借金をしてそれを投資に回して新規産業を創出するなど、経済成長をするという図である。従って、債務残高があるということは問題ではない。因みに、債務残高は貸借対照表の右側にある値のうち、純資産を差し引いた値と考えられるが、それは通常貸借対照表の左側に書かれている資産に変化している。問題があるとすれば、その資産が不良資産の場合、あるいは別の表現で、純資産がゼロまたはマイナスの場合である。 

日本のサラリーマンの財布を例に説明すれば、銀行にローン(債務)があってもそれに相当する住宅(資産)がしっかりと資産価値を持っていれば、その借金は別に問題にはならない。債務残高が増加したと言って騒ぐのは、債務の中身の分析がなければ、ほとんど空騒ぎにすぎない。そのような解説は、上記債務の急上昇に関してほとんどなかった。NHKの制作部門は解っているのだろうか?(補足3)

兎に角、この急激な債務の増加の一つの原因は、経済のグローバル化により、発展途上国におけるインフラ投資や先進国企業の安い労働力を目的とした工場移転などの資本投下である。そしてもう一つは、その結果先進国経済に空洞化が起こり、各国が景気回復の為に金融緩和策をとったことである。この10年間の急激な債務増加は、後者がメインだろう。

もしもその資本投下が、発展途上国政府の杜撰な計画に基づくインフラ投資なら、更に、その投資が途中で不正に抜き取られるようなことがあるとしたら、その国の経済は発展しない。その場合の投資は、不良債権化するだろう。また、途上国への企業進出を埋めるだけの新規産業が先進国に起こらないで、且つ、その企業が従来の先進国の需要に頼るのなら、先進諸国がデフレ不況になるのは当然である。 

その「もしも」が現実化した結果、先進諸国はデフレになり、その克服のために、大幅な金融緩和が行われたのだ。しかし、金融緩和したから新規産業がおこるという様な簡単な話ではない。その金は、新規投資ではなく不動産や株式などへの投資に向かう可能性が高い。それら不動産や株式の価値が上がったとき、その上昇理由が主として貨幣価値の低下であると気づいた時、バブル崩壊となり金融危機の再来となると思う。 

この恐ろしいシナリオは、貿易戦争や中東などでの実際の戦争を切っ掛けに起こり得ると思う。急激な物価上昇が起こり、国債や債券の値下がりから、金融機関の債務超過という連鎖反応がおこるだろう。日本銀行は主なる資産として日本国債をもっているので、我が国でも金融危機につながる可能性がある。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/12/blog-post_9.html(2017/12/9)

3)資本主義の行き詰まりなのか? 

NHKの番組では、資本主義の未来という副題がついていたが、その副題についての話はあまりなかった。つまり、従来型のグローバル化した資本主義が成立しないというネガティブな話に終始した。

先進国は、その住民たちに十分な生活を保障できるほどの供給力を付けている。それなら、無理に資源枯渇までの時間を短縮するように、途上国へ資本主義経済システムを輸出するのは、愚かなことである。そのシナリオでは、先進国住民には今後大きな損害しか無い。先進国は、途上国に資本介入するのではなく、途上国独自の歴史的発展過程を見守るだけで良い筈である。

つまり、それがトランプ大統領の考えだろうし、それを支持する馬渕睦夫氏らの主張ではないだろうか。発展途上国を植民地化しているのは、先進国の一部の資本家であり、先進国の住民ではない。そして、深刻な貧富の差が生じて、国内が二つの層に分断されている。(補足1参照)彼ら資本家から、先進国住民は政治的実権を取り戻すべきときなのだ。トランプが大統領に当選したのは、その国内の分断線の下側に大多数の国民がいることに米国民は気付いたことが理由である。

政治的実権を大多数の国民側に取り戻すことが、番組表題にある資本主義の未来の意味の筈である。NHKは、それが資本主義者の日本政府自民党政権が恐ろしくて言えなかったのだろう。国民から視聴料をもらって経営しているのだから、それをはっきりいう義務があるのではないのか。NHKは国民から視聴料を取らずに、その経営費用を政府予算として認めてもらうべきだ。 

(19日午前6:30編集)

補足:

1)昔の植民地化の時代では、先進国の住民は兵士として対象国に出て命をかけて戦った。今回の植民地化では、先進国住民はデフレ不況で貧困化する。一方の資本家は、自分をトップとして、それに協力する芸能人やスポーツ選手、更に投資家を新しい貴族階級とする。何れにしても悲惨なのは、下層の住民である。先進国政府は住民の本来の意図に沿って活動していないが、その国家を民主的に維持しなければならない。それに協力しているのが、上記芸能人やスポーツ選手、それにテレビなどのメディアである。国際資本家は頭が良いのである。(西部邁さんが好きだったオルテガや、ニーチェは、大衆は馬鹿だといえる正直者だった。)

2)ここで言う債務残高は、世界中の国家(つまり政府)の債務残高の合計ではない。世界中の国家など公共団体、民間団体(企業等)、個人などの債務の合計である。一般の人は、164兆ドルつまり1京8000兆円の債務のうち、日本の債務として1200兆円だけ入っていると思ったのではないだろうか。

この急激に債務が膨張している問題の指摘は、経済ジャーナル“ダイヤモンドオンライン”でもこの問題が7月19付け記事で指摘されている。そこでは、2017年末のデータとして債務残高が174兆ドルとなっている。NHKのデータが何年末のものかわからないが、何れにしても恐ろしい数字ではある。

その記事の出だしを再録する。 「グローバル債務残高」が膨張を見せている。これは先進国と新興国の政府部門、企業部門、家計部門の借金を国際決済銀行(BIS)が集計したものだ。世界金融危機前の2007年末は110兆ドルだったが、17年末はそこから58%も増えて174兆ドルに達した。https://diamond.jp/articles/-/175050

3)債務残高が非常に多くなっていることが、本当に深刻かどうかは数字ではわからない。例えば、日本を代表する優良企業であるソフトバンクの債務残高(純資産額を除いた負債)は、売り上げの2.7倍であることを考えれば分かる。http://www.ullet.com/9984.html

2018年10月15日月曜日

日本は米国に学ぶべき:開かれた組織とそれが構成する全体としての社会

1)米国の強みとして感じる重要な点は、社会における各組織が、外からの批判や評価を当然受けるものとして存在し、各組織がその批判を受けることで、外つまり全体の中で適切な位置を占めるように調整されること、そして各組織が、そのような感覚&調整機能を持っていることだと思う。(補足1)

昨日の朝、西鋭夫というスタンフォード大学Hoover InstitutionのFellow(補足2) の方のブログで、「時代遅れの教授会」という記事を読んだ。http://www.prideandhistory.jp/topics/000822.html

米国では、大学での講義の評価を学生が行い、そこで高い評価を得た教授は土地の新聞に紹介され、年俸も上がると書かれている。また、米国では大学新聞の学生記者が教授会を傍聴でき、審議内容を記事にできる。

それに比べて、日本の大学では教授会は閉鎖的で、自らの特権を守る組織となっている。その結果、日本の教授職は、業績評価なし、勤務態度の監査なし、学生による授業内容の審査なしで、一度雇われると終身クビにならない職業である。そのように書かれている。 日本の大学教授は、“学問屋”とでも言うべき職業である。世界の研究者が作り上げた学問を切り売りする商売である。「何々屋」とは、本来の仕事のあり方とは無関係に、その地位と収入を得ることを最優先にする人種のことである。代表的言葉として、「政治屋」がある。

数年前に、サンデル教授の講義風景が日本で放送され、話題になった。そこでは、教授からの質問に学生が答えるという形で、活発な議論が展開されていた。一方通行の日本の講義とは大きくことなり、双方に相当のエネルギーが必要になってくる。それだけ、濃い内容の授業が展開されていた。

2)日本は、東アジアの諸国同様に、遅れた社会の国である。幕末に西洋特に英国から、先進的な考え方を国家構築の思想として受け入れたが、それが徐々に消えていった。それは単に、中世の日本に戻っただけであるが、羽ばたくチャンスを逸して大きな幼鳥のままの状態のように見える。

それぞれの分野の職人たちは、その職人の組合だけが社会であり、その外には開かれていない。国会議員にとっては政治屋の作る世界だけが彼らの社会であり、選挙は単に“禊ぎ”であるからドブ板選挙が最善。それが終われば、政治屋社会のルールに従って権力を奪い合う競争に興じるのみである。

日本経済の中心の経団連という世界も、登り詰めたサラリーマン社長たちの親睦会のレベルなのだろう。官僚たちの世界も、何もかも、日本の組織はかなり閉鎖的な社会を形成している。そこは、ローカルなルールが支配している。亡くなった方を批判して申し訳ないが、西室泰三氏のように東芝を潰す原因を作った経営者が、その失敗にも拘らず、日本郵政の社長に何故成れたのか?(補足3)

大日本帝国時代の軍隊も同様である。ローカルな組織内のルールで動いて居たのだろう。その中の関東軍も同様だろう。暴走は必然であった。

そのような自分たちの将来を知っている大学の学生も、入学試験を終われば、あとは寝て暮らせば良いと心の奥底では感じている。たしか佐藤優氏だったと思うが、日本は学歴社会ではなく、入学歴社会だと言っている。そのような学生時代を自嘲気味にうたったのがデカンショ節だろう。(補足4)

補足:

1)生体内の各組織は当にそのようにできている。つまり、ホルモンは全体の情報を各組織に知らせ、それを受けて組織が全体の中でのふさわしい機能を果たす。

2)https://www.hoover.org/fellows?expertise=160に掲載されている。明治維新に対する解釈など日本の近代史についての啓蒙活動を展開しておられる。

3)米国ウェスティングハウス社を買収したものの、そこの経営で手腕を発揮するような人材は東芝に居なかったので、大赤字を出してしまう。その失敗にも拘らず日本郵政の社長に抜擢され、そこでもフランスかどこかの会社を買収し、巨額の損失をだしている。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/the-wall-street-journal.html

4)デカンショ節は民謡(丹波篠山デカンショ節)から、第一高等学校(後の東大)に始まり、全国の学生歌となったようだ。デカンショは、デカルト、カント、ショウペンハウエルを短縮したもので、半年三人の哲学者について勉強すれば、あとの半年は寝て暮らすという内容。要するに、名門大学に入学しただけで、あとは遊んで暮らして卒業を待つという大学生の生活を自嘲気味に歌ったのだろう。それが学生に受けた理由は、理想の学生生活ではないが、その後の人生において学生生活での勉学があまり意味を持たないということだろう。それは、大学で修得した学問など誰も評価しないことを意味する。その当時から、あの敗戦までの日本の歴史は決まって居ただろう。

2018年10月13日土曜日

太陽電池で全てのエネルギーを賄える時代が来る: 但し水素が介在しての話だが

1)中日新聞朝刊(10月13日、12版8面)によると、豊田自動織機(株)が、燃料電池で動くフォークリフト用の水素ステーションを、自社高浜工場に整備(建設?)する計画を明らかにした。水素太陽電池による水の電気分解で製造した水素ガスを貯蔵し、フォークリフトに充填する。

この太陽光発電で水素を製造し、それを燃料電池車に充填する方法は、将来非常に有望である。各家庭の屋根に太陽電池を設置すれば、コンバーターや蓄電機能を各戸に設置することで、家庭の電力から車の燃料までほとんど全てを太陽光で賄うシステムが完成する。

太陽電池を水素ガス製造に用いる方法は、過剰電力による停電の問題、離島設置した太陽電池、筏に浮かして設置した太陽電池などで発電した電力の貯蔵方法として、有望である。このことは既にブログに書いている。

例として、2,015年8月に書いた記事を次の節で再録する。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/08/blog-post_16.html

(念の為の追記:この記事の質問欄に、金属ボンベを水素貯蔵に用いる場合、金属の水素化物生成による劣化が指摘されている。これは、金属ボンベの内部のコーティングなどで克服できるだろう。この点、燃料電池車のミライの開発でトヨタは解決していると思う。)

2)屋上太陽光発電、水素での電力貯蔵、そして水素自動車のシステムはどうだろう?

今朝、まどろみながら、表題にあるような水素で電力を貯蔵するスマートハウスと水素自動車を組み合わせた、ミライのハウスを考えた。

太陽光(&風力)で発電した電力を貯める方法として、蓄電池に電気のまま貯める方法、ダムに水を汲み上げる方法(揚水発電所)、そして電気分解を行なって水素ガスとして貯蔵する方法などがある。

この中で、水素ガスにして貯蔵する方法が自動車と組み合わせる可能性を考えると有利に思える。蓄電池では大きな初期投資と減価償却が、揚水発電を利用する方法は離島などには利用出来ないという欠点がある。水素ガスでの貯蔵は、ボンベとコンプレッサーで容易に出来る。

スマートハウス構想(注釈1)では、太陽光発電で作った電力の余剰分を昼間蓄電池に貯め、夜間それを使う。これに、電気分解装置と水素貯蔵装置を取り付けて、電力貯蔵は主に水素で行なってはどうだろうか。そうすれば、コストの大きい蓄電池は小型化できる。

既に水素で発電して走る自動車(注釈2)が市販されている。この水素自動車を使えば、昼間貯蔵した水素と(夜間使わない)水素自動車で発電出来る。また、自動車の燃料も、水素ステーションなどなくても頻繁に補充できる上、車に搭載する水素タンクも大きなものが要らないだろう。

以上まとめると、水素自動車とスマートハウスを統合すれば、水素自動車の燃料補充の簡素化と水素タンクの小型化、スマートハウスの蓄電池の小型化が可能になる。そして、住宅地の電柱も不要になるのだ。

注釈:

1)例えば、ヤマダ電機がその構想を事業化している。

2)トヨタ自動車のミライである。最初、ミライには明るい未来はないと書いたことがあるが(2015/4/2)、この夢が正夢なら、それは間違いだったことになる。

2018年10月12日金曜日

株売買で大抵の人が損をする理由

1)ダウ平均株価が大幅に値下がりして、日経平均も値下がりするだろう。買いムードだった雰囲気も急に悪くなり、市場は曇りがちになるのでは。そんな雰囲気の中で、ほくそ笑む勢力が居る。米国の大投資家達である。何故か、彼らは株価を支配して稼いでいるからである。

株でもなんでも、相場での勝ち負けの行方は決まっている。相場を動かす者が勝ち、それに追随する者が負けるのである。ニューヨークの巨大な投資家は勝ち、日本などの個人投資家は負けるのである。その勝ち負けの行方を隠すのは、多くの出版物であり、その題名は「一年で資産を10倍にした伝説の投資家」などである。

英国ロスチャイルド家が巨万の富を得て、英国での貨幣発行権を得たのは、ナポレオンの負けをいち早く察知して、巨万の富を得たからだと言われている。その方法は、公債を空売りで一旦値下がりさせて、その後底値で買い漁ったことだと言われている。それを可能にしたのは、元々の資産力と情報力(ロスチャイルド家の団結力による)だろう。

株価操作は商法違反である。その捜査をかい潜って株価を操作して、儲ける悪者が現在でも居る。少なくともそう疑える中小株の売買傾向と値動きはかなり存在する。しかし大投資家は、そのような手を使う必要がない。自分の資金力だけで、合法的に株価を動かすことが出来るからである。(補足1)

重要な注釈:本当のところ、筆者はゴールドマン・サックスやシティバンク、そして、ウォーレンバフェットやジム・ロジャーズなどの投資家がどれだけの資金力があり、どれだけ株価を動かせるのか、知らない。しかし、それら大投資家には情報力や資金力があり、以下のモデルが多少とも適用できるように思う。それくらいの曖昧な話であることを承知して、以下お読みください。

2)原理的説明:

ある株の値段は、買いが続けば値上がりするだろう。それに尤もらしい理由が付けば、尚更その値動きはしっかりしたものになるだろう。しかし、その株の「適正だと判断される値段」は、誰も知らない。その前提で以下単純なモデルを立てて考える。

ある大きな投資家が売り買いを周期的に行うとする。その周期は前もっては、本人以外は誰も知らない。一定量づつ売り、その後買って全体の持ち株に変化がなくなる1周期を考えると、最も単純な値動きは下の図のようになるだろう。茶色の線は売り買いのタイミングを示すコサイン関数であり、黄土色の線はそれに多数の投資家が追随して出来る実際の価格である。

茶赤色が底になった時、その大投資家は売りから買いに変化すると、それより少し遅れて底値が生じる。多くの中小投資家が、値動きを察知するからである。実際の相場は、全体の売り買いで決まるので、黄土色の曲線が実際の株価である。その大投資家は、図の売り領域で一定量つづ売り、買い領域で一定量つづ買うとする。(補足2)

大投資家の売り買いで値動きが決まるが、一定の位相差(実際の値動きにズレ)が生じると考えた場合、図の空色曲線の端の部分だけの利益が生じる。この図の紫色と空色の曲線は、どちらも平均価格より上で売った時のその差額、或いは平均価格より下で買った場合のその差額をプラスの利益と考えて積算した結果を表している。

青色の積算曲線は大投資家の売り買いのタイミングで生じる利益曲線、紫色は実際の値動きで売り買いをスイッチした場合の利益曲線である。何れも底値から買い始めて、最高値になるまで買い続け、そこから売り初めて底値まで売ることを仮定して計算した場合である。

つまり、大投資家が売りを決断してから暫くして最高価格になり、買いを決断して暫くして底値になる。その位相のズレが、大投資家に利益をもたらすのである。(補足3) その利益は、当然、個人投資家などから渡されることになる。個人や小さい投資家は、大投資家の利益と証券会社の利益を、自分の損失で支払っていることになる。(補足4) 

3)適正価格が不明な点が、相場が大きく動く理由である。適正値についての一般的な視点を少し書く。①将来性の有無、②利益対株価の比(PER)、③会社の純資産と株価の比(PBR)、④配当利回り、⑤優待の魅力などがある。

将来性とは、②〜⑤の将来予想である。②は現在の株価が、一年間の純益(配当金はその一部)の何倍かという数字。純益の10倍程度以下なら割安株と言われるかもしれない。③は、決算報告での純資産(資本金や剰余金の総額)の何倍が、株価総額になるかという数字。普通の感覚では、1.0以下なら割安株と言われる可能性が高い。何れにしても、その数字の評価には、決算報告書を細かく読む力が必要である。配当利回りは、株価の何%の配当金がもらえるかという数字である。

PERの大きい代表的企業が、ファーストリテイリング(ユニクロ)であり、昨日の株価で44.93である。小さい企業としては例えば、トヨタ自動車の9.05が参考になる。投資家は、トヨタ自動車の将来を若干暗く、逆にユニクロの将来をかなり明るく見ている事がわかる。

個人投資家が損をするのが普通なのだが、何故、それでも株式市場に向かうのか? その理由は、勿論巨万の富を得る夢を見ることもあるだろうが、通常は現在の金融資産では将来が不安だからである。冷静な人でも、インフレや通貨安(これもインフレの原因の一つ)による貨幣価値の低下は、株式市場などの投資に向かう理由となり得る。

しかし、上の単純解析でも分かるように、売り買いを頻繁に行う取引では、個人投資家は大損をする可能性が高いだろう。結論としては、将来性のあると信じられる企業の株を長期保有するのが賢明であり、多少の含み損は、無視することだろう。お金持ちは、分散投資が肝心だとか、ルールを決めて取引を行うことが大事だとか言うだろう。肝心なのは、自分でよく考えること、金融で儲けることなど、ユダヤ金融に勝つ知恵を持つ人以外は、あまり考えないことだろう。

以上、全くの素人なのだが、予備知識無しに簡単なモデルを立てて、株式投資の損益を考えた。間違いの指摘、サジェスチョンなど歓迎します。

補足:

1)実際の売り買いで株価が動くのは当然である。ただ、株価操作を目的に申し合わせて、或いは情報を流して取引することを商法は禁止している。https://www.jpx.co.jp/regulation/preventing/manipulation/index.html

2)一定量を売るのではなく、価格曲線の勾配を利用した売り買いなど、モデルの修正はいくらでも可能である。その様なモデル修正のためのパラメータとしては、株式市場に参加している全体の資金量と自分の投資資金量の割合、政治的情況など多く考えられる。この種のモデル計算は、すでに多く為されている筈である。

3)この位相のズレと変化の周期との関係が同じなら、複数の大投資家が参加した一般的な値動きでも大投資家は必ず利益を生むことが出来るだろう。また、適当な規模の会社を選び、その売買に参加する大投資家が自分だけであると考えられる情況を創れば、利益は短時間で確実になるだろう。

4)この方法を用いれば、法に触れないで儲けることができるかもしれない。それは、投資顧問会社をつくり、そこが投資する仲間を募集する。そして、顧問が有望な銘柄を取り上げる。その情報により暗黙の了解で、組織的に売り買いをするのである。このような違法スレスレの取引が行われている可能性がある。

2018年10月9日火曜日

女性差別解消の視点について

1)同性婚の問題についてブログ記事を書いた時、1組の男女が結婚して家庭を築き、子供を育てるのが、社会の安定的維持に必須であると書いた。ここでもその考えに変化はない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43767549.html

そこで、個人が最も基本的な社会のユニットであり、更に、その上に第二層として家庭が存在すると考えた。しかし、その考え方は、採用しない方が良いと思うようになった。婚姻状態にある人は、居住地選択の自由や、職業選択の自由を個別に主張できない。つまり、束縛状態にある。しかし、それは健全な束縛であるのなら、社会構造の基本的ユニットとして個人を考えるのは無理かもしれない。また、そこで束縛を受けるのがほとんど女性だとしたら、それを女性差別と考えるのはおかしい。(補足1)

勿論、個人が社会の基本ユニットならば、個人として男女の間に差別はあってはならない。西欧諸国は、そのように考えて男女差別の撤廃を目指して努力をして来たようだ。そして、家庭を持っている女性、子供を育児中の女性に限らず、全ての個人を対象に男女平等ランキングを作った。しかし、不思議なことに彼らは完全な男女平等のモデルを持っていない。

それにも拘らず、日本がそのランキングで114位であり、OECDの中では最低ランクであると言って批判している。また、日本政府等もそれを深刻に受け取っている。それは文化の違いを無視した政治的プロパガンダではないのか?そのように利用されるランキングは、ある一部の国(人間)の利益を考えてつくられたのではないのか?

世界経済フォーラムが発表している世界男女格差レポートでは、経済活動の参加と機会、教育(識字率、初等<=>高等教育の男女比)、政治的進出(国会議員の男女比、閣僚の男女比など)、健康と生存(出生児の男女比、冷え金寿命の男女比)の各項目別に、指数を計算している。それに一定の重みをつけて合算し総合ランキングとしている。そのランキングで日本は114位だと言って、”深刻に騒いでいる”のは些か奇異である。(補足2) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%94%B7%E5%A5%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E6%8C%87%E6%95%B0

2)社会全体のことを考えるのなら、女性の最大の役割は、子供を産み育てることである。経済活動をしてお金を儲けることは、男性でもできるが、こどもを産み育てることは男性には出来ない。その重要な役割を、抜きにして男女差別のランキング付けをする愚かさを、その数字を見る者は気づかなければならない。

その出産育児をそのまま数値化して男女差を出すことはできないのだから、意味のある男女差別ランキングをつくるのなら、出産育児を受け持つ女性の地位の数値化を試みるべきである。パートナーの男性がどのように出産と子育てに協力しているのか、女性の経済的地位は家庭内でも一定レベルで確保されているかなどである。それをしなければ、上記統計はもっとも大きな因子を無視して統計をとっていることになる。それは非常に愚かなことである。

もし現在のような男女差別算定の方法を採用して、それを最小にすべく政治経済政策を立案すれば、次世代(子供世代)が育たないのは必然である。その愚かな考え方が、先進諸国での少子化の大きな原因だろう。女性が子供を産み育てるのなら、例えば男性は仕事で得た収入の大半を提供して、それに協力すれば女性差別が小さいことになるはずである。その場合女性の経済進出は小さいので、上記方法で女性差別を算定すれば非常に大きく出る。その健全な社会を維持しながら、女性差別を指摘されて頭を抱えているのが日本ではないのか?

結論を言えば、社会の最も基本的な単位は個人ではなく世帯と考えるべきである。勿論、世帯には単身世帯もあるし、家族数人の世帯もある。健全な世帯を作り上げるために社会はそのエネルギーを使うべきである。その時、個人は社会の基本単位ではないが、世帯構成員として社会に参加するのである。単身世帯は、現在でも所得控除額が少ないことなどで、家族世帯の子育てに関節的に経済的な協力をしている。ここで言いたいのは、社会の構成に関する考え方であり、その考え方はその他の経済的文化的法整備等に生かされる筈である。

そのように考えた時、男女差別は家族世帯における場合と、単身世帯における場合のふた通り、考察されるべきである。単身世帯における男女差別は、政治経済への参加において機会が平等に与えられているかという視点で考察される。一方、家族世帯では男女差別は、家庭内での生活における個人の自由度や構成員の協力関係などで比較考察されるべきである。

日本はこの点で男女格差の小さい国であった。それは、多くの家庭で財布の紐は主婦側が握っていることでも分かる。一方、英国では、共稼ぎでも家事は女性の仕事であるらしい。また、ドイツでは専業主婦が財布の紐を握ることなど考えられないという。つまり、そのような新しい男女差別の指標を用いたのなら、日本での男女差別が小さく、英国やドイツの男女差別が大きいということになるだろう。 https://biz-journal.jp/2018/01/post_22161_2.html

実際、そのような理由で、日本では男女差別撤廃運動が今ひとつ盛り上がらないと、(女性記者が書いた)その記事には書かれている。

3)男女の形式的平等の尺度(私の決めつけである)は、フェニミズム運動とともに重要視されるようになったのだろう。それはあらゆるイズム(ism)同様、あまり現実的ではない。(補足3)従ってその思想の詳細を議論するつもりはない。ウィキペディアの記事を読んでも、その思想は十分整理もされていないようである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

おそらく、近代政治と大衆文化の中で醸成されたものであり、型通りの論理を重視する西欧文化の下の非効率的運動だろう。つまり、本質的な男女差(健全な男女差)を人為的に解消しようとする理想主義的大衆運動である。永遠に達成できない目標を掲げる非現実的運動は、核廃絶運動に似て、政治的に利用されるだけで、結局は人類の幸福に寄与しないだろう。

個人の間の平等は、民主政治の原点であると言われる。その通りだが、立体的な構造の社会を、一次元の平面に圧延してまで個人を独立させる必要はない。それぞれの部分空間において個人間の平等を目指すのが、複雑な人間社会における本来のあり方だと思う。

その平等も、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という類の平等ではない。その意味で、ある特定の分野、例えば政治の世界をとり、そこでの男女間の進出割合に差があったとしても、それは差別ではない。無能な女性が政界に進出すれば、それは男女逆差別であり、社会の能率が著しく低下するだろう。

尚、同性婚の問題は再びどこかで議論したい。異性世帯と権利義務関係がかなりことなる形での同性世帯は、上記考え方で社会のあり方が組み替えられた時(つまり法整備がなされた時)には、比較的簡単に組み込まれるだろう。

補足:

補足1:憲法14条に法の下の平等を掲げて、性差別を禁止している。憲法24条では婚姻における男女平等と男女の協力を謳っている。その他の関連項目については法律で定めるとあるが、その民法は明治29年4月に作られ、31年7月に施行されている。

補足2:国際社会は、何かと数値化して比較することが好きである。多次元の世界を一次元に投影して、その長さでランクづけをする愚かさを承知で、そのような指数を出すのは、それを政治利用したいからである。民主政治と言う名の衆愚政治では、それが有効である。

補足3:communismなどismは主義と訳され、本質的に原理主義であり現実主義ではない。時代とともに変化する現実に追随できないのは、原理主義の宿命である。)

2018年10月7日日曜日

「教科書を疑え」というノーベル賞受賞者の小・中学生に向けた言葉はちょっと変です

ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏のことば「教科書を疑え」が話題になった。読売新聞編集委員室から以下に引用する。

1)科学者をめざす小中学生へ:「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」「つまり、自分の目で物を見る。そして納得する。そこまで諦めない」 https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1046975868940275712/photo/1

またヤフーニュースによると本庶佑氏が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181001-00010009-bfj-sctch

これらは聞くに値する部分もあるが、適当に聞き流し無視すべきだというのが私の考えである。全国の900万人の小中学生に対して、教科書にかいてあることを信じないことが大事だなんて話すのは、ノーベル賞受賞が決まり気持ちがupsetしているとしか思えない。

真意を受け取られていないというのなら、何度もその後会見があったのだから、その際に打ち消しの発言をされるべきであった。しかし、そのような発言はマスコミには掲載されていない。

2)科学者をめざす小・中学生は、教科書を読み理解することが何よりも大事である。「りんごが地球との引力で、地球に引っ張られて落下することを、ニュートンは”万有引力”という理論で説明しました。」という文章が、理科の教科書にあるだろう。しかし、それを疑って何になる。勉強が遅れて、むしろ科学者への道を閉ざすことになる。

「りんごが落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見しました。」という文章になると、「発見とは、真理を見出すこと」と定義すれば、厳密には間違いと言えるかもしれない。科学は、真実を対象にしないからである。しかし、小・中学生ならそのように覚えても良いと思う。(補足1)「万有引力の発見」という言葉が厳密には間違いであるというのは、科学とその社会の本質的部分に関係するが、それは小中学生に、話すべきことではない。

常に新しい説に置き換わるべく、体系を開かれた状態に置くのが科学であり、それが宗教との違いの本質である。

日本の古い言葉に、「型にはまって、型を破る」というのがある。型にはまる段階が、教科書に学ぶ段階であり、型を破る段階は、分野の先端で教科書を疑う段階である。上記本庶佑氏の言葉は、一度も型にはまってもいない小・中学生に、型など無視すべきだと言っているように聞こえる。もちろん、本庶氏の真意はちがうだろう。しかし、そのような「金言」を吐くチャンスをあたえられたのだから、もう少し慎重に話をして欲しかった。

Nature Scienceに掲載の論文の9割は嘘だというのも、馬鹿げた発言である。これらに限らず、一流の雑誌は、科学界全体が真理探究に向けた戦いの記録である。その9割の論文に書かれた自然界についての解釈は、その時点(数年間)では受け入れられなかったとしても、科学の歴史として残る。

「歴史書に石田三成は関ヶ原で負けたことが書かれているが、彼は負けたのでその考え方や作戦なども含め、石田三成など現在では無視して良い存在だと思う」、そのように言うのに似ている。自然科学の例をあげる。ポーリングがDNAの三重螺旋モデルを出したが、最終的にはその説は、ワトソンクリックの二重螺旋モデルに敗れた。しかし、三重螺旋モデルがあったからこそ、そのアンチテーゼ的に二重螺旋モデルが出されたとしたら、ポーリングの説を「嘘だ」として片付けるのは正しい訳はないだろう。

3)応用研究の大変さ:

本庶氏らのPD-1の研究は、オプジーボの開発に繋がり、それが有力ながん治療薬となった。それがなければ、氏のノーベル賞はなかっただろう。おそらく、本庶氏らのその研究に注いだエネルギーの数百倍とか数千倍のエネルギーが優秀な企業研究者らにより注がれた結果、オプジーボは開発されただろう。

原理の発見は、思いつきのレベルから相当のエネルギーを要する場合まで色々存在するが、そのエネルギーは応用研究に比べて大きくはない。ノーベル賞に対する応用研究の寄与の大きさから考えて、その原理的研究にたいする賞賛のみが世界で巻き起こることに、かなりの違和感を感じる場合も多い。(この点では、基礎物理の理論研究などは除外する。)

もう一つわかりやすい例を挙げ、考えてみる。上記薬品などよりも医療の現場ではるかに大きな役割を果たしているMRI(磁気共鳴画像法)という診断方法がある。その原理は勾配磁場を体外からかけて、磁場情報を位置情報に変換するという簡単なものだった。ノーベル賞を受賞したロータバーの最初の実験では、水を入れた小さな二本の毛細管の配置が、NMR(核磁気共鳴)の信号から描かれた。そのNature誌に掲載された小さな種のような発表から、MRIという大樹に育てるにはそれこそ数千倍、或いはそれ以上の優秀な企業研究者の努力が必要だっただろう。

ノーベル賞は、それらの応用研究にほとんど光を与えることはない。現在ではこのような国際賞は政治的な意味が大きく、サイエンスの発展に特別に寄与するものではないと思う。(一部編集:9/7/19:00)

補足:

1)真実を対象にするのは、宗教である。科学は仮説を提唱し、多くの事象がその説で整理できれば法則と呼ばれる。しかし、それはいつでも、もっと一般的な仮説や法則を排除する訳ではない。そのオープンな構造が科学の特徴であり、大きな進歩の理由である。

2018年10月4日木曜日

ノーベル賞授与の主な対象は応用に繋がった研究である

今年のノーベル医学生理学賞に、京大特別教授の本庶佑氏とテキサス大学M.D. Anderson ガンセンターのJames. P. Allison教授が受賞した。今回も日本からノーベル賞受賞者が出たことで、日本の国家としての格を上げることになり、その点での寄与は議論の余地なく非常に大きいと思う。

ノーベル賞がそのような権威を持った以上、その近くにあると思われる研究を国家が積極的に支援するのは、戦略的(戦術的?)に正しいのかもしれない。(世界にアナウンスすべきことではないが)それと、一般の基礎研究支援とは別の視点で考えた方が良いと思う。(補足1)基礎研究の支援は、科学が人類全体の財産であるという広い視野で、しかし、日本の限られた予算の分配であるという事情も考慮しつつ行うのが良いと思う。

今回ノーベル生理学・医学賞の対象になった研究に関しては、科学関係の解説で有名なScientific American を読むとわかりやすい。日本のメディアでは、本庶佑氏の研究に対する評価の声が大きすぎて、中身の研究全体が見えにくいからである。尚、筆者は医学生理学の素人なので、間違い等があれば、指摘していただきたい。

1)がん細胞は、免疫細胞(Tセル)の活動を抑制する因子に働きかけて、自身への攻撃を避ける。これを邪魔する薬品を開発すれば、新しいタイプのガン治療薬が開発できることを示したのが、Allison教授である。免疫グロブリンの一種CTLA-4がT細胞の負の活性化因子であることに注目した。そして、CTLA-4に対する抗体(antibody)投与が、Tセル活性を回復させガンの抑制につながることを見出した。(1996年;Science vol. 271 p1734-6)

このCTLA-4(cytotoxic T-lymphocyte antigen 4; )は、P. Goldsteinにより1987年に発見されている。(補足2)1995年にそれがT細胞の負の活性化因子であるとの研究発表がMak, TWらによりなされている。(補足3)この種の研究は非常に多くあり、我々素人には業績判断は非常に難しい。(補足4)

ただ、CTLA-4に結合する薬物の投与が、ガンの治療につながることを最初に示したのが、上記Allison氏らのサイエンス誌上の論文なのだろう。(https://en.wikipedia.org/wiki/CTLA-4)Allison氏はこの方法がガン治療に有効だとの説得を17年間つづけた。その結果が、2011年の免疫療法薬の「Yervoy」の承認獲得である。この薬は悪性黒色腫(メラノーマ;皮膚ガンの一種)の患者に著効があった。

ノーベル財団の事務総長のThomas Perlmannによると、Allison氏のCTLA-4を用いた成功が、本庶佑氏を自分の発見したPD—1を用いたガン治療の方法に導いた。その結果、それが肺がん(米国で年間15万人が肺がんで死去する)をふくめて他の多くのガンに対してより有効であることを発見した。この発見に基づく薬(オプジーボだろう)とYervoyとの組み合わせで、多くのガン治療に効果が期待される。

https://www.scientificamerican.com/article/nobel-prize-for-medicine-goes-to-cancer-immune-therapy-pioneers2/(ここまでは、概ねScientific Americanに沿った説明)(補足4)

PD-1は本庶佑氏らにより1992年、プログラムされた細胞死(アポトーシス)関係の遺伝子のスクリーニングの際に、発見された。同じグループが1999年、PD-1が欠損したマウスが自己免疫疾患になることから、これが免疫の抑制因子であると結論した。

その後、PD-1への抗体投与が、ガン治療に有効だということで、その開発の説得に製薬会社を訪れたという(日本の新聞)。Scientific Americanの解説を信じれば、オプジーボ(薬品)を用いたこの免疫能力の回復による大きなガン治療効果が、ノーベル賞選考上の重要なファクターである。

2)ノーベル賞の条件は、先端物理の領域を除いて(補足5)、明らかに応用研究への道を拓いた研究だろう。免疫におけるPD-1 やCTLA-4という蛋白の発見や、その役割を明らかにするだけでは、(補足2、3の文献)ノーベル賞の候補にならなかったことなどで明らかである。

そのノーベル賞の性質については、LED関係者に対するノーベル賞授与の際、ブログ記事にも解説した。その根拠は、最初のLEDの発明者はノーベル賞の対象にはならなかったことである。それは赤外線のLEDの発明であり、通常の照明には利用できなかったからだろう。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.htmlhttps://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.html  今回のノーベル賞も応用研究に道を拓いた二人が受賞している。医学では基礎的研究の範囲だが、基礎科学には含まれないだろう。

日本では、ノーベル賞は基礎科学研究が受賞するという話が広く信じられている。その結果、直接役立たない研究にも研究費を出すべきだという論調がテレビやマスコミを支配する。それは全く事実に根ざしていない。その論理が、10日程前のブログに書いたように、岩手で計画されているリニア加速器誘致に利用されている。(9月24日のブログ記事参照) 

補足:

1)両方の視点を一緒にしてしまうと、日本が得意な素粒子物理と生物学&医学分野が重点的に支援対象になってしまう。今年の物理学賞も、生物関連の研究に役立つレーザー開発だった。

2)Brunet, JF, Goldstein, P, et.al., Nature, 328 pp267-270 (1987).

3)Waterhouse, P, Mak, TW, et.al., Science, 270, 985-988(1995). 同様の研究が同じ年の同じ月の雑誌、ImmunologyにSarpe, AHらにより発表されている。

4)Scientific Americanでは、Allison 氏の業績についてより詳細に、友人のカリフォルニア大教授のLewis Laniernoの話などを挿入して述べている。Allion氏以外に、受賞対象になる可能性のあった受賞者として、四人程の米国人の名前をあげている。

5)2015年のニュートリノ振動に関する受賞などは、先端物理に関するものである。