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2018年12月2日日曜日

「自然」と「人工」が未分離な日本文化と低い技術開発能力の関係

1)日本人は、自然の中に生きることを善とし満足している一方、西欧人は、自然を克服して、「人工」の領域に生きる空間を拡大することを善としているのではないだろうか。その結果、日本では人工を追求した成果としての「技術」の開発が活発ではないと思う。

日本は、温暖な気候に恵まれ、良質の飲料水も豊富なので、食料と若干の衣服を手に入れさえすれば生きていける。たまに飢饉になっても、周りが海なので棲む領域の拡大には至らず、耐えることで生き延びる。その後飢饉が終われば、その記憶を民族として持ち続けることができず、ただ忘れるのみである。(補足1)そのような環境に住む民族は、世界でも少ないのではと想像する。日本の文化が、自然と融和的なのはその結果であり、それに慣れた日本人には殊更自然保護や環境改善を叫ぶことは、不自然だったと思う。

一方、近代文明は自然の解明という形で、西欧で誕生した。人間は自然の中で生まれたが、人口増加にともない必然として生存競争が生じる。その頻繁な争いに苦しむことから、自然の成り立ちや現象を解明し、その知識を用いて人工的環境をつくり、南北に居住地域を広げようと努力したのだと思う。その結果、自然を人工と別けて認識し、その両方に足を広げて生きる方法を身につけたと思う。

2)自然と人工という日本語を形容詞で用いる場合、英語ではnaturalとartificialが対応するだろう。それらの語幹部分は、natureとartである。それが、日本語で上記形容詞の名詞形、自然と人工物となるのなら、日本人と西欧人の言葉は(翻訳すれば)同じだということになる。(補足2)

しかし、そうはなっていない。英語のartを日本語に訳せば「芸術」であり、「芸術」は自然の対義語とは異質な概念である。Artの二番目の和訳として技術が出てくる。それらの辞書の記述は、artという英語の概念が二つあるというよりも、日本語の概念の区分の中にうまく当てはまらないということを意味している。

このことに最初に関心を持ったのは、大学教養部の英語教材:エリック・フロムの“The art of loving ”を読んだ時である。「愛する技術」や「愛する芸術」と訳すると、日本人男性のほとんどは三流週刊誌の何かエッチな記事のような印象を持つだろう。しかし、この本は哲学書である。そして、フロムが言いたかったことは、「愛」は人間特有であり、猿から人になったときに新たに身につけるべき人間的な性質であるということである。

このArtという言葉の解釈が、日本人には全く欠けている。人が生きることは、西欧人にとってartの実践であり、それが大事な人間関係に向かう時には愛(love)であり、道具に向かうときが技術である。そのように私は理解している。そして、日本には本当の意味のartという概念が欠けている。その文化的異質性が時として日本人がartとして表現したものが、世界を驚かせることになるのだろう。しかし、それは日本人が自慢すべきことではないと思う。

最近、日本人には日本の技術を自慢する人が多い。テレビ番組を見ると、「技術を学びに来日する外国人」を紹介する類のものが多い。テレビのプロデューサーは、その種の番組が日本人一般の自尊心を満足させ、高い視聴率を記録することを狙っているのだろう。その貧しい心にウンザリする。

何故なら、日本の道具には上記技術の観点が未成熟のように思えて仕方がないからである。つまり、日本の技術、特に昔のもの、は本物のようには見えないことが多い。本物なら日本人の生活にあったオリジナルな技術が多い筈。しかし、単に猿真似に見えるものが多いように見える。それは言い過ぎだろうか。

3)言いたいことは以上だが、ここで、例として白磁食器を取り上げて、更に持論を示したい。日本の白磁技術は、中国の景徳鎮で始まった技術が輸入され、最初に日本で焼かれたのは有田焼である。それが日本の伊万里港からヨーロッパに輸出された。このオランダの東インド会社からヨーロッパに運ばれたイマリ焼きは、西欧に大きなインパクトを与えたのである。(補足3)

西欧でも独自に白磁を製造するようになるが、その最初は、1710年に始まったドイツのマイセンである。その後、その技術は良質のカオリン含有粘土に恵まれた地方に、マイセンから或いは独自に広まった。その結果、西欧白磁は18世紀後半にはイタリア、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど広い地域で焼かれるようになった。

上の写真は、英国ロイヤルクラウンダービーが製造しているIMARIのカップ&ソーサーである。日本のイマリ磁器をモディファイしたもので、独自の洗練されたパターンになっている。


ここで、西欧陶磁器と日本陶磁器を比較してみたい。最初に気がつくのは、西欧産の紅茶やコーヒーのカップには、当然のように取手が付いているが、有田などの茶飲みコップ(茶碗)には取手がついていないことである。その理由は、取手をつけるには一定の工夫、つまり、技術が必要だからだろう。

その陶磁器技術の先進国の日本で、茶碗に取手が無かったことは不思議である。それは、日本は現状をそのまま受け入れる文化を持ち、その不便を解消する必要性を感じることができなかったからだろう。それを一般化すれば、大げさに聞こえるかもしれないが、人間の生息する空間(この場合は文明空間)を人工の範囲に拡大しなかったからだと思う。(補足4

その日本の文化的特徴が、磁器の上の絵付けにも現れている。絵付けの技術に関しても、西欧磁器でのその後の発展の方が大きいと思う。斬新でart的な絵付けを施した品物が、日本では売れないことがその原因だろう。19世紀に入って、日本産でも西洋磁器のコピーのような華麗な絵付けの磁器がたくさん作られたが、そのほとんどが輸出用のノリタケなどの製品だと思う。それらは、ネットオークションではオールドノリタケとして一つのジャンルを作っている。(補足5)

日本が技術先進国だといっても、多くは西欧の二番煎じである。その原因の根本にあるのは、日本人は自然から離れた人工をあまり好まないことである。つまり日本の文化は、自然と人工を積極的に別けて、人工的領域に生きる空間を広げる工夫が無かったように思える。その文化の所為で、多くのオリジナルなものを賞賛するのではなく、批判する傾向にあると思う。(補足6)悪くいえば、それは日本の遺伝病である。この日本人の性質は日本のあらゆる側面に存在するが、それらの多くは山本七平の本に書かれている。

以上は素人の議論です。各方面のからの意見をお寄せください。

補足:

1)そのような状況では、多民族と争うことで領域を拡大するという方法も選択できない。その結果、民族を束ねる同族意識(愛国心など)をあまり持たない。

2)言語は、それを使う民族が世界をどのように理解しているかを直接表現している。聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉、それに最近では、西部邁の「昔、言葉は思想だった」なども、その事実を表現している。

3)白磁技術は中国で古くに始まり、特に宋代(13世紀まで)の景徳鎮で焼かれたものが有名だった。中国から朝鮮、そして16世紀には日本に伝わった。日本では、秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮人や中国人の陶工(ウィキペディアの伊万里焼参照)を連れ帰ったのが始まりだという。17世紀に入り、北九州有田に良い原料石が見つかったとのことで、日本初の白磁の製造が1616年に有田で始まる。
 https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=2
オランダの東インド会社が、伊万里港で磁器を買い入れてヨーロッパに運んだのは、1650年ごろの話である。上記のサイトではマイセンに技術が伝わったのは、伊万里焼経由であると書かれている。それを契機に、ヨーロッパで白磁の開発が始まったのだろう。 ヨーロッパの多くの地域で18世紀初頭から中頃までに白磁の製造が始まったことから、ヨーロッパの磁器製造は、伊万里焼きなど東アジアの磁器の東インド会社を通して輸入が動機となっていることは確かだろう。

4)日本の古い家には庭があるが、それは自然のコピーである。田舎の自然に恵まれた場所でも同じである。また、茶碗の不完全な形を自然の景色になぞらえて鑑賞するなど、人工的なものにまで自然を取り入れようとする。何故、人工的なものなら、徹底的に人との関係のみを最優先しないのだろうか。例えば、庭なら何かをプレイするものを設けることの方が、その利用価値を上げると思う。

5)オールド・ノリタケの磁器の華麗さは、日本文化からでたものではなく、どこか不自然さを感じる。華麗なミントン(英国)やリモージュ(フランス)の磁器には敵わないだろう。

6)ダイソン型の扇風機は、空気清浄機や冷暖房機能をつけると総合的な空調機となる。その扇風機を東芝の研究者がダイソンよりも早く考えついた。しかし、それを製品化できないところ(会社の上層部が開発を認めないこと)に日本の技術が十分に人工を追求できない弱点がある。https://www.narinari.com/Nd/20091012482.html

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