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2023年8月18日金曜日

戦争と平和は二者択一問題か:8月15日NHKスペシャルのクリティカルレヴュー

終戦の日にNHKのゴールデンタイムに、所謂Z世代の若者とゲストを交えて戦争について議論するテレビ番組:NHKスペシャル(815日放映)が放映された。何時もの様に、現政権に忖度する内容であった。(補足1)なお、この番組についての素朴な感想が下の動画で語られている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=etxUXUpAi9M

 

今回は、その放送内容を簡単にレビューし、それを引用する形で戦争について思うところを書く。結論を一言で書く:過去150年余の日本の近代史を細部にまで徹底的に明らかにし反芻することで、戦争の本質が分かる。また、それによってのみ日本という国が21世紀中存在可能となるだろう。


 

1)8月15日のNHKスペシャルの内容について
 

ゲストとして参加していたパトリック・ハーラン氏(芸名パックン)が、番組の最初の方で、「アメリカでは、“オイルの為の戦争に反対”とか、“お金の為の戦争に反対”とか言うのが普通で、日本のように単に“戦争反対”ということはない。戦争に対する考えに日米で大きな差があるようだ」と言った。

 

また、元自衛隊員の若者が、戦争で敵兵士に向かって銃を発射できるかと考えた時、自分にはできそうにないので自衛隊をやめたと発言(発言1)し、更に取材映像の中で戦争経験者の90代の老人の言葉「戦争してはいけない。戦争は人殺しだから」(発言2)が紹介された。

 

上記二人の言葉が日本人の典型的な考え方だろう。日本では外交的困難などの有無と無関係に、“人殺し”と直結させる形で「戦争」という抽象的概念を作り、平和との間の2者択一問題を設定した上で、戦争反対を叫ぶ人が多い。それは、先進国では日本にしか見られない特異な光景である。(補足2

 

パックンは日本の若者の戦争に関するこの考えを、「新しい戦争の視点」と表現し、幼稚或いは明らかに異常と言わなかったのは、単に日本に対する儀礼的配慮なのだろう。

 

この「戦争」に対する風変りな理解の根底には、この国では国民と国家の関係が一般には十分理解されていないことがあると思う。他のゲストから、国際関係は野生の関係に近いという指摘はあったものの、そこから国家の役割や防衛に対する議論はなかった。

 

国連に関する話も、未完の世界政府のような存在との言及があったものの、ほとんど議論の対象にはならなかった。唯一重みのあったのは、実体験から来る上記の言葉であった。ここでは、何故このような発言が現れるのか?について考えてみた。

 

尚、放送ではウクライナ人の方と現在進行中のウクライナ戦争に関する話もあったが、それはこの戦争に関するNHK(つまり日本政府)の理解を前提に置いているようであり、完全に間違っているので省く。これについては第3節の後半に少し記述している。

 

ウクライナ戦争の理解には、ソ連崩壊からの東欧とロシアの歴史を学ぶ必要がある。先ず本コラムの2022/2/13 (ロシアのウクライナ侵攻の11日前)の記事をお読みいただきたい。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12726626308.html (補足3

 

 

.戦争の本質と日本の戦争

 

太古の昔、人類は族長が大家族を率いる部族集団を作って生きた。他集団との争いや戦いの時に、大きな集団ほど有利だからである。部族間の争いは、有限の土地と資源のなかで生きる生物全てに見られる生存競争の一つである。この部族間の殺し合いを善悪判断の対象にするのは愚かである。

 

時代が下り、人はもっと大きな国家と呼ばれる集団を作るようになる。それと並行して、経済や文化も発展する。武器の開発や軍団の組織化、国家間の付き合い方(外交)の発展などもあり、西欧では17世紀に“主権国家”が定義され、19世紀の終わりに主権国家間の戦争ルールまで整えられた。

 

西欧では、「戦争」は外交の最終手段として新しく概念化されるようになった。それでも、戦争は有限の資源と土地をめぐって、国家(民族)間で争う「生存競争」であるという本質に変わりはなかった。

 

つまり地球上の土地と資源が有限で、技術の発展も有限がある以上、そして人口が世界的に減少傾向にならない以上、これからも生存競争は無くならない。従って、「戦争は人殺しだから、やってはいけない」を金科玉条にしていては、自分たちが死に絶えることになる。

 

まとめると、戦争は生存競争の延長上にある以上、生き残るのなら、人殺しであってでも戦争しなくてはならない場合もあるということになる。これを短く表現したのが、「国際社会は野生の世界である」という言葉である。

 

明治天皇が日露戦争に入る前に詠まれた「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」には、島国の日本に住む人が持つ世界中が一つのコミュニティであるべきだという夢が表現されている。それは又、天皇は政治的力を持たないということを国民に告白する意図もあっただろう。

 

昭和天皇も太平洋戦争開戦前に、多分同じ思いでその歌を引用された。その戦争の結果は、民族の消滅直前の悲劇となった。グローバル化の今、その幻想に過度にこだわることは、生きる自然の権利を半ば放棄するに等しい。これが昭和の敗戦から学ぶべき重要なことの一つだろう。

 

ここで、何百万人という死亡者を出したあの戦争は、日本民族にとってやむを得ない選択だったと結論するのは間違いであり、日本政府のごまかしであることを指摘したい。このごまかしは、戦争の中で命を失った将兵たち、空襲で殺された一般市民等に対して失礼になる。

 

過去の戦争の歴史をまともに再評価することが、その犠牲者に報いる唯一の方法である。その再評価つまりレヴューに当たっては、具体的に全ての出来事に細部に至るまで拘り、それを踏まえて全体を総括すべきである。

 

「真実は常に細部に宿る」というのは以下のような意味がある。当事者の説明(ここでは日本政府の作った官製の歴史解釈)は多くの場合自分に都合よく纏められている。細部にこだわることでのみ、そのヴェールを剥がすことが出来るのである。

 

300万人余の犠牲者の魂は、「戦争=人殺し」(つまり、戦争=無駄死に)として戦争に反対することを、疲れ切った人には兎も角、若者には許容しない筈である。

 

日本政府の国民に対する無責任は、太平洋戦争での民間犠牲者に対し補償を一切しなかったことにも現れている。例えば、広島と長崎の原爆投下などの都市空襲による一般市民の被災者には、日本政府が大日本帝国の連続線上にある以上、しっかり補償すべきである。

 

それを要求する市民に対して、都市空襲は戦争犯罪であるから米国に補償要求すればよい。講和条約で政府が交渉する権利を放棄しているので、独自に米国相手に訴訟してもらいたいと日本政府は宣言した。補足4)(追補あり;16:00)

 

このような日本政府の過去の戦争に対する姿勢を考えれば、そして広島と長崎、そしてシベリア抑留などの不条理な虐待や虐殺を考えれば、国民一般にとって戦争は自然災害と同じように考えるしかない。

 

90歳を越えた老人の「戦争は止めるべきだ。人殺しだから」は、本来の議論では完全に間違っている。しかし、妙に重く感じる背景には、以上の様な理由があったことを知るべきである。それは深く心に刻まれた実際の体験から漏れ出た言葉である。国民に愛国心を期待するには、日本政府はあまりにも杜撰である

 

 

3)過去の戦争が、日本国民生存の為の戦争であったのか?

 

この問題を考えるには、過去200年ほどの歴史を考える必要がある。西鋭夫(スタンフォード大フーバー研究所フェロー)氏は、「白村江の戦いから1200年間、徳川時代だけでも250年間、日本は外国と戦争していない。 何故、明治から昭和の75年という短い間に3回も4回も外国と戦争したのか?」(筆者の再構成)と大日本帝国政府の好戦性を指摘している。

 

大日本帝国は、日清と日露の戦争を戦った。これらの戦争は、シベリアから南下するロシアから日本を防衛するためであったというのが正統派の歴史解釈だが、本当にそうだろうか? 

 

これらは、態々大陸まで出向いての戦争であり、その延長上に満州事変、シナ事変、そして太平洋戦争があった。大陸進出は、①名誉白人(Honorary whites ;ウィキペディア名誉人種参照)を自認する日本帝国による、西欧の植民地支配を見習った侵略と考える方が自然だろう。

 

 

日本は国家予算の7年分を使って、日露戦争を戦ったのだが、そんな博打のような政策が日本国民の生存権の確保と言える筈はない。また、米国のシフによる公債買い上げや、Sルーズベルトによる講和条約に向けての支援などから、上の①のような独自の判断ではなく、米国ユダヤ財閥の長期戦略に協力させられたと考える方が自然である。

 

その長期戦略にずっと乗るのも或いは一つの戦略だったかもしれないが、日比谷焼き討ち事件などで日露戦争の決着に不満を持つ日本の民意がそれを許さなかった。それが恐らく桂ハリマン協定無視となり、日本が米国により敵国としてロックオンされることになったのだろう。その結果が、太平洋戦争への誘い込みである。

 

日露戦争は現在のウクライナ戦争とよく似ている。日露戦争とは日本が米国の代理でロシアと戦った戦争なのか?:日本に真実を見る文化が欠けている | Social Chemistry (ameblo.jp)

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12795459148.html

 

週末思想が世界に充満する現在、日本は東海の藻屑と消え去ると考える人も多い。つまり、台湾有事の際には、米国とその敵との代理戦争をウクライナのように戦う可能性がある。その際、中国は西欧文明の一角に位置するロシアと違って、核兵器の使用に躊躇などしない可能性が高い。

 

ウクライナ戦争も台湾有事もともに米国ネオコン、ユダヤ系グローバリストの企みであることは、既によく知られている。これも日本政府は隠し通している。このままでは、ウクライナのゼレンスキーと同じ間違いを岸田首相はする可能性が高い。

 

ウクライナ人の青年の殆どが戦死するような戦いは、決してウクライナの国家防衛の為とは言えない。ウクライナ戦争の実態は、腐敗したウクライナのユダヤ系オリガルヒの支援で大統領になったゼレンスキーが、米国グローバリストの代理でウクライナ人の青年の命を使ってウクライナ市民の犠牲のもとに、ロシアと米国の代理として戦っているのである。

 

 

終わりに

 

皇紀2600年の日本とか言って自慢している右翼の人が多いが、それは日本国が無くなる可能性など想像の世界にもないという日本民族の致命的ともいえる弱点の別の側面である。それを意識しない人ほど、熱狂的右翼となるので、彼らは日本国存続の道を国民が探す上で邪魔ですらある。

 

外国の民、例えばユダヤ人は、国家が滅びることが何を意味するかを太古の昔から民族として記憶している。異民族と戦って多くの戦士が殺されたり、異民族の国に奴隷として連れ去られたりした。その中で生き残った歴史を、聖書(旧約)と言う形にして纏めて何千年と読み続けている。

 

彼らのかなりの部分は、元々の土地から逃亡して世界中を渡り歩き、差別と偏見と戦いながら今日まで人的ネットワークを頼りとして生き続けてきた。彼らディアスポラのユダヤ人は、国家を維持した経験に乏しいのでグローバリスト勢力となって、主権国家体制を現状で保とうとする民族主義的勢力の敵対勢力となっている。その点でイスラエルに残ったユダヤ人とは考え方も大きく異なるだろう。

 

日本にはそのような聖なる書物も伝統もない。おまけに義務教育で日本史と世界史を分離して、歴史を単なる暗記物としてしまった。その結果が、最初に紹介したNHKでの若者(Z世代)の浅い議論である。彼らを教育するという視点も全くなく、不真面目なNHKのためだけの番組だった。

 

 

補足:

 

1)NHKは歴史や政治に関する放送をする時、NHKの生命線である放送法とそれを変更することが出来る政権与党を常に意識しているので、まともな内容は期待できない。NHKは純粋な国営放送とするか、民営化すべきである。

 

2)ここで元自衛官の若者が「銃で人が打って殺すこと」が出来ないことを自衛官退職の理由としたが、その「」内の言葉に「銃で撃たれて殺されること」も含めている筈である。同様に、老人の戦争は「人殺しだから」、戦争をしてはいけないという言葉の「」内の語句には、「人に殺されるから」も含めている筈である。それら表現における狡さは、誰でも持つものだろう。

 

3)ウクライナ戦争に関する説明を聞くとき、2014年のマイダン革命と称される米国が深く関与したクーデターと、東部地区の自治に関するフランスとドイツの仲介によるウクライナとロシアの合意(ミンスクII)に言及がなければ、それらは殆どインチキである。詳しくは、本文に引用した2022213日の記事をご覧いただきたい。ウクライナ侵攻の当日にも小文を投稿している。ウクライナの件:ウクライナは武装中立の立場をとるべきだった | Social Chemistry (ameblo.jp)

 

4)サンフランシスコ講和条約でも日韓基本条約でも、国家及び民間の財産・権利等における請求権を互いに放棄するという記述がある。日本の個人(法人を含む)が相手国に国際法上の請求権がある場合には、講和条約の交渉にその個人が参加する訳ではないので(日本政府が請求権放棄をした以上)、相手国に代わって日本政府がその請求権に対処しなければならない。

この論理で、原爆による被災者が米国の国際法違反によって受けた被害の補償要求を日本政府に対して行ったのだが、日本国は補償を拒否した。日本政府の回答を要約すると:原爆被災者の米国への請求権を日本国が代わって放棄した訳ではない、放棄したのは日本国が被災者に代わって米国に請求する権利(外交保護権)である。従って、被災者は直接米国に要求すれば良い。

http://justice.skr.jp/seikyuuken-top.html

 

追補: 原爆被災者には平成6年に原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律ができ、部分的には救援と言う形で償いがなされているようです。(16:00追加)

語句の編集あり(18:00)

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