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2023年8月26日土曜日

木原氏妻の元夫の変死事件(7): 被害者が在日であることに触れないのは何故か?

木原誠二氏の妻の元夫が200649日東京都文京区の自宅で変死体で発見され、警視庁で捜査されたようだが、その後自殺として闇に葬られた。担当の警部補佐藤誠氏の実名会見によれば、2018年に再捜査が開始され、被害者の義父が犯人だろうとの捜査仮説が不明瞭ながら明らかにされた。

 

その再捜査も、木原官房副長官が自民党の情報調査局長になった日から数日を経て中止されたことで、木原氏の捜査介入という重大犯罪の疑惑が発生した。それが今年20237月になって、週刊文春により報道された。恐らく政治がらみの筋からリークがあったものと思われる。

 

この事件、2006年の時点で一度もみ消しが行われたという点を中心に、ブログ記事を6回書いてきたが、最後の記事にchukaのブログという米国在住のブロガーからコメントを貰った。そこには、以下のような重要な指摘がなされていた。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12817181832.html

 

木原妻元夫変死事件については二つの目的が交差している。まず#1は岸田降ろし。これに木原官房副長官がツールとなっている。#2は変死事件の真相解明です。今回これを持ち出した文春の狙いは#1というのは誰もが反対しないはずです。この事件を持ち出したのはいい事だが、文春の杜撰さが災いして事件は再び闇の中へUターン。遺憾です。この変死事件は木原氏とは全く関係がない、ということをまず前提としなければならない。夫として妻を守るのは当然です。ただ特異なのは木原氏の妻、愛人2人が水商売出身とうことで通常の夫婦観を持っていないようにも見える。被害者安田種雄の妻の父は当時都内の警部であったが、娘夫婦は父所有の家に居住。しかし婿は在日家族出身で父親は母国語が韓国語。会見でも日本語の読みに問題があった。事件発生は2005年なので父親の日本語はもっとまずかったはずです。被害者は法と摩擦で中卒で水商売従事、しかしモデル業ではワルがかった美男子として一時有名だった。若いのに2人も子供がいた。このカップルは通常ではない。被害者の変死が自殺ということにされたのは、妻の父の強力なコネだと思われる。在日の泣き寝入りの例です。

(筆者注:文中2005年は2006年の誤り;)

 

このコメントに対して、私の返答は稚拙であった。一つは、夫が妻を庇うのは当然だというコメントが成立するには、夫が公人でない場合に限られるとの指摘が抜けていたこと。官房副長官は24時間公人であり、市役所の職員とは異なる。そして、もう一つは「在日だからと言って差別的に扱われたことは無いと思う」という粗い返答をしたこと。

 

chukaのブログさんは、更にコメントを追加した。それも全文そのまま掲載する。

 

ではなぜ被害者の父が韓国系移民であることは報道されないのか?被害者身の生い立ちも典型的在日青年のようだ。米国では事件の背景を理解するために最初に報道される。日本では今も臭いものに蓋という考えが強いのだろうか? 警部なら在日子弟が風俗とか暴力団、覚せい剤と大きく関係を持っているということは当然知っていたはずだ。結局弱者、ここでは安田種雄の遺族、が泣き寝入りして事件をうまく収めたということだろう。日本側としては遺児2人への配慮もあった。ここで母親が事件に関連したとされるなら、遺児2人は当然被害者の家族に引き取られることになったはず。

 

この日本文化を解剖するようなコメントに対して、簡単には返答できないので、後にブログ記事として書くと返答して、そのラインを閉じた。以下にその返答を書く。

 

 

2)日本は臭いものに蓋をする文化の国である:2006年の変死事件

 

サブタイトルは、二番目のコメントの赤字で強調した部分に対する私の答えである。何故、臭いものに蓋をするのか? それは臭いという観測から、より詳細な調査分析を開始し、それを元に原因を探し出し対策を施すという図式で問題解決する能力が、日本のあらゆる機能体に無いからである。

 

この事件の詳細は、上のコメントにあるように、被害者が在日だということと大きな相関がある。つまり、在日子弟が暴力団、覚せい剤、風俗と関係を持っている確率はかなり高い。そして日本の社会でも、暴力団、覚せい剤、風俗等は、屡々臭いもの(事件)の近くに存在するのである。

 

この事件に対する筆者の仮説を書く。

 

X子の父であるZ氏は公安畑の警部であり、この事件を真面目に解決するには、多大のエネルギーと犠牲を払う必要があると直観的&経験的に確信した可能性がある。犠牲の一つは、自分たち家族と在日との深いかかわりが世間に明らかにされ、娘も孫もその中で生きていかなくてはならないことである。

 

それらのことから、Z氏はこの件を自殺として処理すべきという方針に至り、警視庁をまとめたのかもしれない。変死者の多くが警察の省エネのために自殺として処理される例は多いと言われる。また、自殺者も同様に変死者として扱われるケースが多いようだ。

 

 

行方不明者についても同様である。そうだとすれば、殺人事件のかなりの部分が自殺者或いは変死者として処理されていても不思議ではない。

 

ただ、再捜査の結果からZ氏が犯人だとする捜査仮説が不明瞭ながら明らかにされているので、問題はもっと隠蔽に近く、その背景は複雑なようだ。それに、X子の一族にあまりにも韓国系の人が多い。第一に、X子もその兄の配偶者も、韓国系のキリスト教会に行っていたと言う話がある。

 

その協会とは東京中央協会であり、主に韓国語で礼拝が行なわれる日本一のコリアンタウン「新大久保」にあるプロテスタント教会である。https://www.tcc.or.jp/ ネット上では、X子の国籍なども議論されているが、船本姓は韓国系ではない。ただ、あまりにも韓国系との付き合いが多い。

 

私が捜査陣なら、捜査仮説としてX子の母も在日或いは元在日だという仮説を置く。X子の母はマルチ商法で、ぼろ儲けをして、不動産などにも投資するやり手だったようだ。そのような活動的な女性は日本人には多くない。それに、その色白の美貌はX子に遺伝しているようで、韓国系を思わせる。

 

つまり、その仮説によれば被害者側も加害者側も在日が絡んでいるという話になる。そうすれば、2018年の再捜査時の捜査仮説:X子父であるZ氏犯人説が、一層真実味を増す。

 

日本という特殊社会で平和に暮らすには、在日だけでも結構大変なプレッシャーを感じる様だが、それに殺人事件が加わると、日本社会では完全に孤立無援の情況に追い込まれる。もし、X子も被害者側に入るとしても、それを日本の「臭いものに蓋」社会は受け入れる訳が無い。

 

コメントは、「在日或いは元在日が被害者の事件を、差別的に省エネ処理するための隠蔽ではないか?」というものだが、私が返答として出したモデルは、加害者側(あくまで仮説による加害者です)も深く在日韓国人と関係しており、事件関係者全員がこの「臭いものに蓋」社会で生きるための防衛的殺人事件だったというものである。

 

殆どの報道で被害者が在日であることに触れないのは、日本社会で在日の方々を区別し、しかも穏やかに摩擦を少なくして報道することが、難しいからである。論理的に考えれば、朝鮮半島と日本は違いを認めつつ、対中国や対ロシアの面で協力して生きる道が最善なのだが、その論理的思考が出来ないのである。

 

機能体における適材適所の原則、労働の流動性向上、外国人の有効的な受け入れ、などが出来ないのは、論理的思考力の欠如が原因である。それが日本社会に迷信が蔓延り、何でも「臭いものに蓋」様式で後ろに送って解決した振りをする原因である。それはどの国でも問題だが、特に日本で著しい。もう一言言ってしまえば、日本語の被論理性にも原因の大きな部分が存在すると思う。

 

以上、chukaのブログさんのコメントに対する返答を記事とした。

 

 

3)日本は臭いものに蓋をする文化の国である:他の深刻な例

 

筆者は、この日本という「臭いものに蓋」という前近代的社会を批判する記事を何度も書いてきた。その日本社会の一症状が、30年間低迷する日本経済である。そしてそれよりも深刻なのは、戦後のサンフランシスコ平和条約から70年経っても、米国の属国から抜け出せないことである。これらは全て、論理的に考察できない「臭いものに蓋」病(日本病)の一症状である。

 

最近では福島原発の処理水の海中投棄でも、この日本病が出ている。それに関する原口一博衆議院議員の動画にコメントを書いた。このコメントが分からない人が殆どのようだ。https://www.youtube.com/embed/xvoSr1yjibw

 

 

そこに書いたコメントとは、日本では問題解決のためにその組織体に話に行っても、誰(原口氏のいう実力があり話の分かる人=サムライ)と話をすればよいのかわからないという原口氏の言葉に対するものである。

 

日本には原発は無理という言葉を深刻に聞きました。何か重要な話をする時、何故サムライを探すのですか?(動画の14分頃の発言) 本来、その部門の受付に行って、要件を言えば良い筈ではないのですか? 私は、日本には社会の中に人材を適切に配置する文化が無いことだと思います。人物の評価も表の世界ではおおざっぱな評価しかなく、そのくせ裏の様々なグループでの非客観的な評価或いは単なる好き嫌いの共有がなされます。また、層状構造を為す社会の機関において、階層間での情報の共有や議論の文化がない。人を良い人と悪い人、有能な人と無能な人と言うレベルの評価しかできない。世界の国々を親日的な国と反日的な国に分類して、それらの国を知った気になるのと同じです。原発の問題だけではありません。

 

このコメントの意味するところは、あらゆる近代的な機能体組織は層状構造を為す。一方、発生する問題は常にローカルである。問題を解決する方法の最終決定は、その機能体のトップである。従って、ある問題が発生したとき、その問題の分析結果や解決方法の議論は、最下端の係からトップまで共有されなければならない。

 

それが全く出来ないのが、日本社会である。カルロスゴーンはそれを見事に証言している。「社長が何か決めると、フランスでは議論が始まるが、一方日本では沈黙が広がる」(内容はゴーンさんのものですが、文章は筆者が改変しています。) 

 

それは機能体組織において適材適所の人事が為されないという問題であるが、その根本に日本人は公の空間で他人を評価できないという文化がある。他人を評価するポストにある人たちに、一般的にその能力が無いのである。従って、日本には優れた個人は多く出ても、優れた組織は存在しない。

 

エリート集団であると言われる警視庁、その中でもエリート警察官の集まりである捜査一課でも、その組織は日本病の患者である。以上疲れましたので、書きなぐり状態のまま投稿しました。今日中に修正が何回か入る予定です。

 

(午前中3度ほど編集、12:40 全体を編集し、最終稿)

ーーーおわりーーー

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