2015年12月8日火曜日

ゼロからの思考を教育すること:日本に欠けている創造的教育

1)次回の参議院選挙から18歳以上が選挙健を持つようになる。現在の教育を考えると何か恐ろしいことにならないか心配である。“日本の民主主義は12歳”というのは、マッカーサーが言ったことばである。そこから何年たっても、12歳のままではないのかと思う。国会議員でさえ、“平和が善、戦争は悪”というようなナイーブな意見しか持ち合わせていない人が多いことでもそれはわかる。

世の中には先人の“知恵”が残っていて、それが社会の知的な枠組の基礎として存在している。その“知恵”の権威も、聖典的なものから世間の常識的なものまで様々である。しかし、それらが作られたのは大昔のことであり、当時の社会と政治の状況はまったく現在とは異なる。

現在の社会は、主に経済発展や戦争などにより、大きく変化している。その変化は、それにふさわしい知的枠組や“知恵”を要求する。社会の変化が法律の整備を要求するのも一つの例である。また、論語にあるような知恵は、今日には相応しくないものが多いのである。

今日のヤフーニュースにはドイツの政治教育が紹介されている。そこでは常識を疑い、自分自身で考えをまとめる力をつける教育がなされているとある。http://news.yahoo.co.jp/feature/77

常識を疑うということは、自分自身でゼロから考えて答えを作り上げることである。その原点に戻ってから考えるプロセスは、独立した人格を作り上げることにつながり、それは民主主義の基本要件でもある。それがもっとも遅れているのが日本である。

「膨張するドイツの衝撃」(川口マーン恵美、西尾幹二著)には、西欧諸国のエリートの実力は、日本のそれをはるかにしのぐと書かれている。そして、その理由はゼロつまり原点に戻って考える力の養成を、教育に取り入れているからだという。

2)現在、テレビではクイズ番組が大流行りである。クイズ番組に出演することを主な仕事にしている、元漫才師、元女優、元漫画家などをほぼ毎日テレビでみることができる。このくだらなさに国民は気づくべきだが、それらが放送されていることは即ち気づいていない証拠である。

知識は、ある段階までこの“オーム返し”の能力とほとんど等しい。またそのレベルで、大学入試も行われる。数学や物理学でも基本的には暗記科目である。「傾向と対策」という入試用の出版物が利用されているのも、その証拠の一つである。

判断力、直感力、その他感覚は、現在の大学入試にはほとんど関係ない。しかし、研究(開発)であれ会社経営であれ、実社会での成果はこれらに大きく依存する。従って、新しい問題の解決をゼロから考える時、先人の考えが参考にならない時、問題解決能力と大学入試の成績とは、相関はあるだろうが直接的には無関係なのである。

一方、その記憶力において高い能力を持つ人たちが、秀才としてT大学などの有名大学に入学し、国家の上級公務員となっている。そして、そのような人たちの集まりである霞ヶ関が政治を実質的に動かしている現状では、国家の将来が危うい。西欧に追いつき追い越せの時代も、それらの点は同様であり、昭和の失敗もそのあたりに根本原因があるのではないだろうか。

例えば、「テロリズム」ということをゼロから考えさせるのである。「人類の敵」だとか「卑怯な手段だ」という様な答えが、その発言の主やそれを報じたメディアを引用する形でしか出てこない様では、日本の学校では模範解答とされても、思考の幅が狭いとしか言いようがない。

もう一例を挙げると、「人を殺すことは悪いことか」という問題を、ゼロから考えさせるのも良いだろう。「あなたが殺される時のことを想像すれば、悪であることがわかるだろう」という答えを出させるのも、「人殺しは悪いことだ。悪いことは悪いのだと教えるべき」という誰かがマスコミで喋っていた教育よりも一歩進んでいるが、原点に戻ってゼロから考えた人の結論だとは言えない。

これら多くの基本問題をゼロから考えることは、善悪とは何か、言葉とは何か、社会とは何か、生命とは何か、などという哲学の問題にまでさかのぼることの重要性に気づかせることになるだろう。そして、問題について唯一解が出ず、AとBのどちらの道をとるかという決断の問題に帰結される場合が多いだろう。しかしそのような教育の成果は、そのAとBが明確になるということである。

3)具体的に政治的な問題を考える。歴史には「日本国は何を選択したのか」がわからないようなことがおおいと思う。先日SakuraSo TVにおいて、小堀圭一郎、西部進、馬渕睦夫、各氏らの出席で、「戦争を始めるということ-大東亜戦争論」という題の放送があった。https://www.youtube.com/watch?v=wNey3EQlUio

そこで、先の戦争の終わり方として、「ポツダム宣言受諾という形での終戦は正しかったか?本土決戦をすべきでなかったか?」という疑問が西部氏により提出された。西部氏は「仮にあと数100万人殺されたとしても、本土決戦すべきであった。そうしなかったために現在のような惨めな日本の姿があるのだ」と発言した。

このような議論においても、原点と思考の枠を明確にしてから始めるべきである。つまり、国家とは何か、国家の主人公は何か、戦争の目的は何か、などのもっとも大切な思考の枠が、この番組(議論)が始まったときから参加者全てが共有できていないように思う。また、西部氏は、話をするうちにその思考の枠が流動的になってしまったのではないかと思うのである。

つまり、国家の主人公はその時点の国民であるという前提があれば、西部氏のような論は成立しないのである。

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