1)経済のグローバル化とは、資本、物品、情報の移動が国際間でほぼ自由になることで、経済活動に実質的に境界がなくなることである。それは、国家間の戦争が無いこと、人や資本の移動が自由であること、効率的な輸送と通信、などの前提が成立したと考えられた時から進行した。
企業は安い労働力、資源、土地などを求めて、世界中から最適地を目指して進出する(補足1)。進出先での需要は当然増加するが、元の先進国では需要が減少する。つまり、設立された現地企業は、従業員給与や会社経営上の諸経費を通して、その土地での経済拡大に寄与する。一方、元の国で同じ程度に利益を得るのはその会社への出資者に限られ(補足2)、経済への寄与は非常に小さくなる。
従来型の製造業が先進国で生き残るためには、安い労働力とエネルギー、諸税を意識的に低く抑える政策などが条件である。最低賃金をあげることや労働条件改善は、その働く場(企業)自体を失うことになる。結局、中産階級と意識していた人たちの仕事が減少し、元の従業員は下層階級への階段を歩むことになるだろう。
それがデフレ経済の根本的原因であると思う。その緩和措置として、財政や金融での政策が先進国政府により採られる。つまり、ヨーロッパ中央銀行のマイナス金利、日本と米国などのゼロ金利政策による通過供給量の増加(補足3)、日本など諸国の財政の拡大である。しかし、それには限界があり、単に時間稼ぎくらいにしかならないだろうという人が多い。
先進国で生き残るには、Microsoftやグーグルなどの様な新しいタイプの高収益企業でなくては無理である。新しく高収益企業を産み育てるのは、米国のようにフラットな競争社会であり、待遇は実力と成果に比例するという個人主義的文化が支配する。そのような非農耕社会型の文化を導入するのは、日本には無理かもしれない。
先進国で差し当たりまともに収入が得られるのは、条件に恵まれた第一次産業、サービス業(情報通信業、医療福祉、観光業、公務員など)、建設業、金融業などの従事者、それに資本家である。しかし、資本家は別にして、これらの仕事も政府の財政措置が限界にくること、そして、デフレの進行に伴って減少することになるだろう。たぶん、日本もギリシャ化する可能性が高いと思う。
2)経済の好循環のためには、国民は金を使わなければならないという。稼いだ金が使われれば、その金を受け取った人はまた別の目的でその金を使って、経済の循環が生じる(補足4)。この議論で非常に大切なのは、どこかでこの循環が途切れないかということである。また、経済を牽引する分野と単に経済状況に追従する分野があり、それを同等に考えるのはおかしいということである。
その大事なポイントを無視して、日本経済は隣国とは違って内需依存型であると言って安心を撒く人がいるが、それは間違いだと思う。
http://www.stat.go.jp/data/e-census/campaign/statistics/case3.htm
より引用。
上図はGDPの産業別割合である。支出の各分野での割合と考えても良い。これらのうちグローバル経済の競争に晒されるのは、第一に製造業(鉱工業)である。これらが海外に移ってしまえば、就労の場の減少やその企業の受けるサービス、通信、運輸などの需要が減少する。つまり、そこでお金の循環を切ってしまう可能性が高い。工業製品で消費された金は外国に行ってしまうからである。
現代の文明を、科学技術文明と呼ぶことでもわかるように、経済を牽引してきたのは科学とそれを応用する技術である。そして、それが産業の中で具体化したのが主に製造業つまり鉱工業である。もちろん、第一次産業にも卸売小売業にも技術の向上は大きく寄与しているが、物品の製造がなければ、輸送も卸売小売も意味がない。
つまり、先進国経済を牽引してきたのは、製造業である。グローバル化経済が先進国にとって大問題なのは、その製造業が発展途上の国に移動して、お金の循環を途切れさせるからである。結局、製造業の縮小から、経済の縮小の連鎖が起こる。経常収支の赤字、不健全な円安、輸入物資の円建て価格の上昇などが、その連鎖に含まれると思う。そして、金利の上昇は国債償還を不可能とし、国家財政の破綻となるかもしれない。
3)グローバル化経済という名称であるが、それには若干異論がある。単に巨大資本(企業)の途上国への進出、あるいは悪い側面を強調すれば、侵略と呼ぶ方が正しいのだろう。発展途上国にとって望ましい経済発展は、自国資本の増加と自国産業の振興である。しかし、上記のような先進国資本の流入は、途上国にも貧富の差を拡大して政治的に不安定化させる。勿論、経済発展はトータルとしては発展途上国にとってもありがたいことではある。
繰り返しになるが、既存の産業を発展途上国に渡すことでデフレになるのであるから、先進国のデフレ克服には持続的に新しい産業ができ、経済が質的に(領域の広さにおいて)膨張していく必要がある。しかしそれは至難の技である。米国はそれに挑戦し、現在までは成功しているように見えるが、それも何れ行きつまるだろう(補足5)。
イノベーションとかなんとかいうが、人間の新しいものへの欲望には限界がある。衣食住を手に入れるまでは、人間にとって“能動的経済発展”である。その次の新産業、インターネットやSNSサービスなどから、徐々に人類にとっては受動的経済発展、つまり作られた欲望を満たす経済発展、の様相を呈してくる。さらに、ロボット、ドローン、自動運転の車などになってくると、受動的且つ反人類的経済発展になるかもしれない。それらは人間に僅かに残された未開の部分か、あるいは、完全に創造された欲望を満たしはするが、やがて人は努力する能力と想像力をなくして、人類破滅への近道になるだろう。
人間主義に立てば、これ以上の新しいものなど不要で、現在の環境と文化の下で平穏な生活を送る方が、ずっと良いという人がほとんどだろう。社会的動物としての人間は、そこそこの衣食住、普通の家庭、それに平和な国家があれば十分である。別にコンピュータの助けを借りなくても、考える為の頭を持っている。考える能力を維持することは、感情をコントロールする能力の維持にもつながる。何故、世界中を相手に経済競争しなければならないのか?
国境は様々な生き方を文化として育み、独特の産物や景観を保存するだろう。ゆっくりと進む時間は人間に立ち止まる自由と考える時間を与えてくれる。グローバル化経済はその両方を破壊する役割を果たす。それはまさに、世界を巻き込んだ陰謀であると思う。
このグローバル化経済で利益を得る第一の存在は、巨大資本である。それは世界中の優秀な会社を支配し、そこからの収益を限られた人間に分配するだろう。それら資本の持つ情報とそれを用いた支配力は、世界トップの軍事力と同衾状態だろう。
日本はどうやらその支配下にあるが、ペットではなく家畜だろう。マルクス主義の出番はこのあたりかと想像するが、世界史はあまりにも早くその思想を利用してしまったと思う。
グローバル政治機構は不連続な何かがなければできないだろう。全株式を寄付するというフェイスブックの創設者は例外であり、参考にはならないと思う。
http://jp.wsj.com/articles/SB11984305046321184388704581390351006443350
= 以上のメモは、素人である筆者が自分の考えを整理するために書いたものです。=
補足:
1)一般に発展途上国は先進国の資本流入を歓迎し、企業に有利な環境を用意するだろう。その場合、安い賃金、設備投資、エネルギーコストなどを目指して、比較的インフラが整備されている場所を探して海外にでる。そうしなければ、積極的に海外にでる企業との競争に負けて、経営が苦しくなり淘汰される。
また、発展途上国では、企業が少ないために、優秀な人的素材も獲得できる可能性がたかい。
2)現地法人の利益は剰余金として積み立てられるのと、配当金の形で親会社に支払われるだろう。いすれも親会社の純資産増に寄与し、株価上昇や配当金上昇を通して、親会社に出資している資本家の利益になる。
3)日本銀行は国債を民間銀行などから買い上げることで紙幣を市場に供給している。しかし、それらのお金のほとんどは日銀に当座預金約200兆円(2014年末)として戻る。紙幣発行量は約90兆円(2014年末)である。
4)既に稼いだ金を使うことも、経済循環を作る役割を果たすが、それには国民が漠然と持つ(しかし正しい感覚である)将来への不安を取り除くことが必要である。現在、そのような魔術はないと思う。
5)その様な状況下では米国だけでなく、ほとんどの国は軍事的行動で打開を図るはずである。
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