注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2015年12月16日水曜日

愛するということ:アガペーとフィリア

古い題目だが、昨日のBSフジプライムニュースでゲストの曽野綾子さんが語っておられたので、書く気になった。フィリアは普通に好きであるということで、その言葉はphilosophy(知、つまりソフィー、を愛する)など、多くの英単語に生きている。アガペーは人間としての理性の愛であり、イエス・キリストの「あなたの敵を愛しなさい」の言葉で語られる愛である。

1)この「愛」の考え方については、古い思い出がある。
大学の教養課程の時、英語の教材がエリック・フロムの「Is love an art?」であった。テスト対策に邦訳を買ったが、その題名は「愛するということ」だった。授業を受けた後だったので、すぐに題名の訳が不十分(不適切)であることがわかった。Artという言葉が訳せていないのである。

英語の授業では最初に、このArtはNatureに対する言葉であることを教わった。日本語では通常Artを芸術と訳すが、それを用いて「愛は芸術か?」ではフロムの本の題名としては誤訳になる。つまり、Artとは「人ゆえに持つ美しさの表現」の様な解説をされたと思う。そのArtを含む英単語にartificialがある。その和訳は「人造の」や「造りものの」となるが、あくまでもnaturalに対することばであり、安物といった日本語的感覚は元々なかった筈である。

つまり西欧には、「世界は、自然と人間という二つの空間に大きく分けられる」という基本的考え方があるのだろう。日本には、そして多分東アジアには、人間は自然の一部という考え方がある。オリジナルな神道(例えば御嶽信仰や白山信仰など)などはそれを明確に示している。

これが、大学教養部の講義の中で現在まで残ったものである。専門につながる数学や自然科学以外では、この英語の授業以外はほとんど何も残っていない。

2)人間の空間を自然と明確に区別するのは、一神教と深く関係があると考える。エホバ神が創造した点においては、自然も人間も順番が違うが同格であるため、自然の下に人間を置くのはおかしい。従って、人間も固有の空間を持つことになる。私は、西欧人が現代の高度な文明を創造できた理由、つまり自然を人間が対象として解析し、それを用いて高度な文明を築くことができた理由が、そこにあると思う。アニミズムの世界に生きていては、現代のような文明など100万年かかってもできない筈である。

「愛」に話を戻す。人間と人間の間の感情には当然好意と敵意があるだろう。英語で該当するのが、PhiliaとPhobiaであり、前者は語尾としてしか残っていないが「親しい」という意味で、後者は「恐怖心、敵意」を表し、単語としても語尾としても用いられている。これらは、化学分野のhydrophilic (親水的)とhydrophobic(疎水的)という言葉でもわかる様に自然界にも存在する。他に自然の中の異性愛として、エロスがあるが、それらは人間界特有の愛ではない。

そこで、人間界特有の愛としてアガぺーが持ち込まれたのだろう。創世記にあるように、神の形に作られたのが人間であるから、アガペーは人間界特有の愛であると同時に神と人間との愛でもあると思う。また、人間界は文明的空間であるから、アガペーは文明的な愛だと思う。

上記番組で曽野綾子さんは「理性の愛」と表現されていた。つまり、理性に照らして、義務として愛することである。それが、人間として社会をつくり、その中で充実した人生を作り上げる基本的栄養素なのだろう。

補足:曽野綾子さんの言葉で印象的だったのは、「私は人を信じません。」「嫌な人でも、愛する人がするようにすれば良い。」などであった。私は曽野さんの言葉を以下のように解釈した。つまり、人間は神と違って不完全な存在であるから、本心を表に出してはいけない場合があるし、相手の方の本心を過剰に気にすること慎むべきである。曽野さんは、西欧(キリスト教圏)の方々同様神を信じることにより、人にたいしては自由な接し方(つまり本心に拘らない)ができるのだろう。
 日本人が子供っぽいのは、怖れる神(自然神)を持っても、信じることができる神(人格神)を持たないことが原因だろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿