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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

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2016年11月21日月曜日

超保守的な日本の根元に何があるのか?

日本国は超保守的である。一度決まったことを変えるのは恐ろしく大変である。その例を下にリストするが、これらの多くは一旦出来てしまえば大異変などが起こらない限り無くならないだろう。不要あるいは不適切であるとして廃止するには、分析的思考が必要で時間を要する。また、何事にも賛成派が居るので、その論理的説得が必要である。説得には議論が前提になるが、主張はできても議論ができる人は少ない。(補足1)

すでに広く行われて居る習慣を現実即応的に変えるには、国全体という大きなスケールだけではなくミクロなスケールでの建設的議論が必要である。議論が建設的となる前提は、「意見交換の中で自分の方に論理的矛盾を発見するに至った場合には、相手に同意する」という文化である。しかし、「相手に同意することは相手に負けることである」という、東洋の狭い了見が日本人の心の中を占めている。そこで、議論は口論になり喧嘩となる。

日本人は不都合や不満を敏感に感じるが、その原因を論理立てて考えることが苦手な民族だと思う。それは個人レベルでもそうだが、集団で「議論を通して集団としての高い思考力を実現する」ことはなお一層困難である。この後者の西欧文化が、科学の発展を可能としたのである。集団には寿命がなく、それゆえ積み重ねた知識が、奇跡的な科学の発展を可能とし、それが近代文明の基礎となったのである。(補足2)

さしあたりの現状維持が延々と続き、不満の声はそれが極限に達するまで上がらない。そして、ガス爆発のように全体主義的に社会が動く可能性が大きい。

論理がない社会では、腐敗が生じる。それが作り出す大衆の不満という可燃性ガスは、全体主義とポピュリズムを爆発エネルギーとともに引き起こす。その結果、この国は全体主義的自滅をするのではないかと恐れる。そのモデル実験が、現在東京都を舞台に進行して居るようである。(補足3)

因みに、その日本民族の言語文化に最高に適合した文学として俳句がある。最近でも、夏井いつきさんの俳句番組に人気がある。俳句は論理表現を禁じ、感覚的表現に価値を置く。Logos(言葉)はLogic(論理)と同じ語源の言葉であるが、この極東の小国では、見事に西欧のものをひっくり返したような言語文化が存在する。(補足4)

以下に超保守主義の具体例を挙げる。

1)例えば:学校の制服は、学生服とセーラー服が基本であり、この数十年全く変化しない。小学生は全員ランドセルを背負って通学するという“暗黙のルール”も何十年間変化しない。小学校1年生で体の小さい子供の場合、登下校時の姿はランドセルが歩いているように見える。勉強の道具など小さい袋に入れれば、手提げであろうが布製ナップサックであろうが構わないだろうに。頑強に革製の頑強で嵩張ったリュックザックにこだわる様子は、まるで、宗教か何かと関係があるのかと思うくらいである。

小さい体にランドセルを背負えば、狭い道を通学する場合、車などに引っ掛けられる危険性が高い。相対的に大きなランドセルは、体の動きを鈍くして安全性という観点から不適切だと思う。子供の安全に過敏な母親たちにも、そのような議論はない。それは既に決まったことだからである。

歳暮とか中元とかいう習慣も、多くの日本人は義務的に続けている。定期的に同じ人に送るのは、賄賂ならそれなりに意味もあるだろう。互いにプレゼントを交換して良い関係を確認する意味もある。しかし、定期的且つ頻繁に繰り返す理由はなく、そのような行為は浪費だと思う。贈り物を製造販売輸送する業者の戦略が、その習慣を定着させたのだろう。バレンタインデーやホワイトデーの習慣も易々と業者の企みに乗せられて定着したのだろう。これらが、延々と続いているのが不思議である。

一旦出来てしまえば、よほどのことが起こらない限り、無くならない。存在理由を考えるには思考と時間が必要だが、止めた場合の冷たい眼差しは瞬間的に感じる。日本人は論理立てて考えることが苦手な分、周囲の空気の変化を敏感に感じる民族である。

2)超保守主義に関して書くなら、日本国憲法を取り上げないわけにはいかない。前文が戦争の反省文から始まるのも異常なら、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」というその後の文章について、「バカみたい」と言っても国際的には誰もバカな奴だとは思わないだろう。憲法9条第一項も馬鹿馬鹿しいし、第二項は明らかに自衛隊を持つ現状と合わない。よくもこの憲法を70年も変えずに守ってきたものだ。しかも護憲派という人たちが未だに人口の半分もいるというのは、彼らが憲法条文を読んでいないか、読んでもその意味を論理的に考える人が少ないのか、あるいは日本国籍を持つ反日分子であることを示している。

自衛隊(self-defense force)が軍事力ではないという国会答弁や裁判所の判断など、論理的に物事を考える習慣がある国ではありえない。諸国民の公正と信義に信頼を置くことを国是として、長く続いた国など歴史上存在しない。そのような文章を国家の基本法としてもち、それを誇りとしていることは、論理的に考える文化が存在しないことの直接的証明である。平和主義者のモリオリ族が、マオリ人にほとんど絶滅させられた悲劇(19世紀の出来事である)を知るべきである。しかし、それを言っても、馬耳東風だろう。

選挙制度における一票の格差も驚嘆に値する。米国大統領戦では、クリントン候補の獲得票数が100万票多いのに、トランプが大統領に当選したことが、ニュースとなっている。http://www.cnn.co.jp/usa/35091937.html 総数が1億2000万票を超える中で、100万票の差があっても尚当落が逆転したことが尋常でないと考える米国と、一票の価値に3倍の差があっても、延々と数十年その選挙制度が続く日本のコントラストは誠に凄まじい。

日本のこのような超保守主義は、何事も超越した権威が決めてきた歴史から抜け出せていないことが、もう一つの原因だろう。(補足5)その結果、権威が①上層部の指令だけでなく、②一部の企み、あるいは、③自然発生の何れによって生まれたとしても、一旦生じた権威を打ち消すことは非常に困難になったとも考えられる。しかし主なる原因は、繰り返しになるが、それらを民衆が好むからではなく、論理的思考と議論の習慣が日本文化の中にないからであると思う。(補足6)

補足:

1)原爆が憎いのか、原爆を落とした人間が憎いのか、原爆を落とせと命令した人が憎いのか、原爆を落とすことで利益を得る人間が憎いのか、原爆を落とされる状況を作った日本の政治家(関係者)が憎いのか、その整理は日本国ではほとんどまとまった形でなされていない。そして、原爆ドーム近くの資料館にあるのは、「安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しませんから」という文章が刻まれた石碑である。

2)アインシュタインが1000人集まっても、近代科学(物理学)をゼロから構築することなど到底できないだろう。ギリシャ哲学などから知識を受け継いだ学会組織が、数百年間かかって近代科学を発展させたのである。そこには世界中から何十万人という英才が数十世代に亘って参加したのである。そのルールは「建設的な議論」である。

3)小池百合子知事のポピュリズムを背景にした光が、ブラックボックスの都議会と都の官僚組織を照らし出して、都政の遺伝子組み換えができるかどうかである。

4)もちろん、俳句も日本の立派な文学の一要素だと思う。短歌も俳句同様に感覚を重視する短詩であるが、より表現の幅が広い。後者のほうが歴史も長く、素晴らしい歌も多い。論理表現にも適しておれば、日本語は素晴らしいということになるのだが。

5)日本は市民革命を経験したわけではない。明治維新も上からの革命であり、一般市民は現代まで一貫して被支配者である。したがって、能動的に政治に参加する人で世襲議員以外は、世襲議員から声のかかる芸能人やスポーツ選手などの有名人のみである。それが、未だに明治維新の時の支配層を祖先に持つ人がトップである理由である。1960年や1970年の安保反対デモ等は、被支配者(被害者)としてのデモであり受動的政治参加の一つである。

6)youtubeの動画にコメントを書くと、反論が来る。ほとんどの場合、その文章には議論をするという雰囲気はなく、罵詈雑言の羅列に近い。論理的に説いても、相手側の立場や論調は全く変化しない。一回だけ、議論が成立したことがあったが、相手は博士号を持つ男性だった。https://www.youtube.com/watch?v=MHHI87ePoqE の議論を参照(Moh Korigoriが当方のペンネームで、http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43036726.htmlにその主題についての私の分析がまとめてある)

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