これらの事件は誠に憎むべき凶行であるが、計画性も何も無く、従って、幼児的な自己喪失の中で行われた様に私は感じる。つまり、自分の心の中で担いきれない精神的重荷が与えられた時、それまで善良に振る舞ってきた人が、人が変わった様に凶行に及ぶのである。これと対比的な捕食者的殺行為は、ライオンなど肉食動物では普通であり、ヒトが行う場合は例外的で精神障害(サイコパス)の結果であると考えられている。私は、グアムでの犯行は、「ヒトが幼児的性質を生涯持ち続ける」ことと関連して起こる人間社会に普遍的なタイプの犯行だと思う。“濃淡”は大幅に違うが、同じ様な“色”の行いは、普通に行われている。例えば、成人男性の行う卓袱台返しなどもその一例である。大きな60歳の男が行っても、何の得にもならず何の説得力もない、ダダをこねる行為と本質的に同じであると言う意味で幼児的である。
ところで、この幼児性であるが、たまたま人間が持つ、くだらない性質ではなく、「(幼児性が)ヒトのヒトたる所以に深く拘っているのではないか」というのが、ここでの主題である。我々は、高度に発展した文明社会に生きている。その社会の根幹を為すのが、ヒトとヒトの密接な情報及び感情の交換である。それにより、緻密なルールを作り広い範囲において共同作業を行い、この文明社会を成長発展させてきた。「ヒトが緻密に感情などの交換を行う能力は、ヒトが幼児性を持つことにより得た、ヒト独特のものである」というのが私の考えである。
どの動物でも幼児である間は、その生命を維持する上で100%母親に依存している。そして、幼児は親との接触で、(他の個体である)親との間に感情的な親和性(つまり、密接な感情の交換)を持つ。ヒト以外の動物の場合、成長して親から離れると同時に幼児性を失い、その結果、他の個体は親と云えども生存競争の相手になる。一方、上の例でも解るように、ヒトは一生涯この幼児性をのこしていると考えられる。ヒトが哺乳動物で唯一肌を露出していることは、成人になったあとでも幼児性を残していることを象徴していると思う。「裸と裸の付き合い」という言葉は、互いの親和的な感情を表している。
ここでかなり大胆な仮説を提唱する。"他(タ)"に依存することを特徴とするヒトの“幼児性”が、"自と他"の区別やそれに基づく外界への探究心の根源になっているのではないだろうか。それは、他を意識しないで自分という存在を意識することはないからである。「我考える。故に我あり」という言葉において、「我あり」との結論にデカルトが至ったのは、他を意識しそれとの関係を“我”が考えたからである。つまり、「我、他を考える。故に我あり」だと思う。ヒト以外の動物、例えば、成長したライオンに「我」という意識があるだろうか?私は無いと思う。(注1) その理由は、他の個体を、自分の生命活動(食べて生きることと生殖活動)(注2) の対象以外のものとしては捉えていないと思うからである。“我”の発見があって“他”を区別でき、そこで初めて「他と我との関係」を深く多角的に思考分析することが可能になる。そして、“他”の中には仲間のヒトのほかに、ヒトが活動する舞台としての自然などがあることを知るのである。つまり、知性の根拠としてヒトの幼児性があるのではないだろうか。別の表現では、「幼児性という不完全性が、他の存在への関心と探求の根源である」といっても良い。もし神が存在するとしても、完全なるが故にヒトの知性に相当するものはなく、従って神罰は神の思考の結果ではなく、数式適用の如く瞬時に下される筈である。 以上から、ヒトの作った高度な文明社会は、ヒトが幼児性を備え、“不完全である我”という意識を持った結果であると考える。
注釈:
注1) 従って、ライオンの成獣は人間より完全なる存在であると思う。厳しい自然の中で生きる動物の姿に気高さを感じるのは、その動物達が自立した完全なる生物に見えるからだと思う。
注2)生殖活動を行うオスはメスを同種の個体として意識する。人間以外の動物でも、唯一知性が関係する時期だと思う。
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