野性の状態で生きている動物は言語をもたないことでも解る様に、言語は高度な社会を造って生活をするために存在する。人が他の人にその感情や経験を伝える場合、言語空間へそれら感情や体験を投影し、言葉に変換して伝える。言語空間をそう定義すると、言語の特徴及びそれを用いた表現の限界が理解出来る。個人のレベルで存在する記憶が言語でなされるではないか?という反論があるかもしれない。しかし、記憶したことを日記に書く場合には、言語空間に投影する作業が必要であり、多くの人がその時点で或る種の困難に遭遇することから解るように、体験は言語空間への投影を経ず記憶されていると考えられる。言語能力とはこの投影作業の能力であり、言語空間をなす基底(ベース)が言語である。現在、言語は体系的に整備されており、教育により記憶体得される。
高度に体系化された言語の発生について、昔から疑問に思っていた。言語を神が造ったと考えれば理解は簡単であるが、神の存在を確認出来ない以上、上記疑問は消え去らない。(注1)
ここでは、哲学の発展に伴って言語空間が整備されたとする方向で、この問題を考えてみたい。哲学は、人間、人間が造る社会、そして自然を、言語を用いて理解することだと思う。換言すれば、哲学とは、人間、社会、そして自然の、言語空間への投影作業であり、言語空間内の領域にある。(注2)
言語が数千年或はそれ以上に亘って整備されたことは、我々人類が、個人やローカルな社会から独立した共通の“言語空間” (注3)を持っていることを意味する。人間や社会に関する哲学が発展した古代ギリシャの時代に、社会のあり方としてデモクラシーが考えられた。つまり、“公の社会とそこへの個人の参加の仕方”が、考察されたと思う。そして、“公の社会”への参加は、社会の抱える問題とその解決法を、公の空間で言葉により表現することでなされる。そのプロセスで、社会と人間、その両者の関係に対する理解が深まるのである。また、同時進行的に事象の論理的な言語空間への射影を可能にする、独立した(動かない)言語空間とそのベースとなる言葉ができたのではないだろうか。その伝統を持つ、西欧の言語が論理的に優れた構造を持つに至ったと考えられる。
以上の考え方をサポートする証拠として、数学の発展が挙げられる。数学は広い意味での言語に属する。そのことは、数学は自然科学を表現するために用いられる道具であり、存在物から独立しているという事実から明らかである。(注4)
そして、言語である数学は、それを用いて表現する科学の発展に伴って、発生整備されて今日の形になったと考えられる。このことは、一般の言語が整備された形へと発展したことと“公の社会空間”の発展が、丁度DNAの2本鎖のようにして進んで来たことと相似的である。
さて、以上の考察から、何故言語空間の独立性(揺らぐかどうか)に地域差(文化の差)があるか?が解る。日本語は、残念ながら、論理的に整備されていない言語であると思う。その原因は、オリジナル日本語という小さな言語体系に、大きな体系を持つ漢語や西欧語が、“有力な管理者”がいない状態で輸入され定着したためと思う。この詳細も別に述べたので省略する。(注5) この現象論的な理解の他に、上記の”公(おおやけ)としての社会”の発展度の違いから解釈することも可能である。つまり、日本国民が共有している言語空間が、十分な普遍性と論理性(鏡の平面性に相当)を有していないことの裏側に、日本国は歴史的見て、「公としての社会」の未発達な段階にある事実が存在すると考えられる。
今回、本文章を書くきっかけになったのは、最近造られた特別警報ということばである。警報を出さないで被害者が出た場合、気象庁全体の責任だということになり、トップの数人がテレビカメラの前で頭を深々と下げることになる。この外から見て滑稽で、内から見れば屈辱的な光景を避けたいため、予報官が警報を乱発してしまった。その結果、警報だけでは自発的に非難する人は殆どなく無視されるため、新たに造られたのが“特別警報”なのだろう。今回、福井、京都、滋賀にだされたこの特別警報は、経験したことの無い、命の危険に拘る事態であり、「命を守ることを各自最優先するように」という警報である。(注6)しかし、床上浸水した家屋の数は非常に多いだろうが、ほとんど死者はでないだろう。何れ、特別警報のインパクトは無くなるだろう。その時は、超特別警報なることばをつくるのだろうか?
このような“ことばのインフレ”現象は、日本では確たる言語空間がなく、本来言語空間への投影対象となる筈の、社会のリアルタイムの風潮や個人の感情からの独立性が明確でないために生じる現象である。従って、現象を投影するスクリーンが動いてしまう一方、光源もぼんやりとした光しか発していないのである。この現象は、上で既に議論したように、“公としての社会”が未発達な状態の日本社会を示している。
注釈:
(1) http://island.geocities.jp/mopyesr/kantou.html
(2) 小説は言語空間から実体験空間への逆投影を言語側から行なったものと解釈される。
ところで、言語空間とひと言で言っても、そのベースである言語の出来次第で、鏡のような平面で像を映すのに良く出来たものから、ことばを受け取った側が、頭の中で被投影物に再構成する際に大きな困難を感じるものまである。ここでは、この揺らがない平坦な鏡のような言語空間へ進化するプロセスを論じているのである。
(3) これは、概念としての言語空間という意味。米国人を日本人では等しく言語空間を持つが、言語が違うことでその言語空間の性質はかなり異なる。
(4) 繰り返しになるが、自然科学の発展に伴って考えだされ発展した数学ではあるが、数学は自然科学の一分野でないことは周知の通りである。
(5) http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
(6) 滋賀の安曇川上流に住む兄に電話したところ、避難をする程でもないし、大丈夫だということで安心した。
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